2017-07-25

傷と快楽

わたしのことをおぼえていますか、という題名のスパムメールを眺めている。差出人はどこにでもある平凡な名前で、その本文には話したいです、とだけ書かれている。わたしはあなたのことなどおぼえていない——たとえおぼえていてもそれを口にすることはない。
どこかの世界でそれなりに有名らしき男性がリベンジポルノの被害にあった、という記事を読んでいる。女性が意図的な悪意をもった側というのはめずらしい。大量のリベンジポルノと思われる性行動画が星の数ほど閲覧できる2017年のインターネットの世界では、流出を行うのはほぼすべて元彼氏や元夫であろうと推測されるが、そうだとほぼ確信できるのは男性の側の顔が隠されているからで、そこには男性側の明確な悪意がある。一方、女性側がこれを行うということは、彼女のいかりの大きさ、あるいは傷の深さを示唆していると思う。わたしはこの男女のいずれも知らないし今後も知りえないが、この女性のブログを少し読んで憂鬱になった。第三者の直接的ないかり、かなしみ、くるしさを目の当たりにすると、ひとは元気を奪われる。そうしたことをネットに書くのは、現実においてむくわれない場合、はけ口として仕方のないことだとはいえ、やはり元気は奪われる。そしてなんともいえない嫌な気持ちだけが残る。

このなんともいえない嫌な気持ちはネットが閲覧可能にしてしまったものであり、もちろん誰でも見ないようにすることはできるが、ひとのもっとも醜悪な側面を、いつでも、だれでも、どこでも、無限に閲覧できるという現実のなかに生きるほかないということはもはや誰にとっても避け難く、傷害、殺人、性暴力といったほんらいほとんど一般生活とは縁のなかった事象は、ネット登場以前の時代(もうそれを思い出すことは困難だが)よりも、はるかにこの社会に充満しているように感じられる。そしてそのことが当り前になってしまっている。しかしそれ自体ほんらい異状なことで、そういう現実にわたしたちの倫理や情緒が対応しきれていないという印象がある。オーディオビジュアル媒体による上記のような復讐を意図した暴力的表現の力は圧倒的なもので、無関係な第三者にすら傷をおわせるのだから、それが当事者であればどれだけの傷を受けてしまうのか、と思わずにはいられない。

そしてここはブログなのでさらに踏み込んだことを書けば、そうした動画はいまこの瞬間も新たに流出し続けており、それがどれだけのひとを傷つけているのか、ということを思う反面、そうした当事者を傷つけるものが、無関係な第三者にとっては、性的興奮のために消費されうるものであるという事実を思い起こさないわけにはゆかず、2017年の現実はきわめてグロテスクな様相を帯びてくる。ひとを傷つけるもので、ひとは快楽を得ることができる。そう書かねばならない。きれいごとばかりをいってみにくいものをなかったことにすればネットは便利な空間でしかないのだ。どうしたらよいのか。そんなことは知らないが、わたしが思うのは、ブログは、この奇怪な現実について記すために使われるべきだということ。書くということの誠実な原則に立ち返り、嘘を排除し、見たこと、感じたことを、ページビューや「いいね」とは無縁の力学に基づいて、できるだけ写実的に記述するために使われるべきだということ。そういうことをあらためて考える。

そこまで考えて、スパムメールに返事を書く——わたしのことをおぼえていますか。わたしはあなたがきらいです。

2017-07-24

理解や共感のあちら側

午前に永田町で打ち合わせ、それから帰りに銀座のアップルストアに寄った。例のワイヤレスイヤフォンは全部売り切れだったがサンプルがあったので視聴はさせてもらった。耳につけて頭を動かしても不思議と落ちない。かなり購買意欲が向上したがこれからお金がかかるイベントが目白押しなので自粛して家にまっすぐ戻る。帰宅してすぐに手などを消毒し、子供を風呂に入れて、机に戻ってきてメールを何本か書く。それからひさしぶりに知己のブログをまじめに読むとおもしろかったので感想を書きたいと思ったのだが……ネットにおける文章のおもしろさが「わかる」や「共感」であるならば、わかりもしない、共感もされえない感情の居場所はどこにあるのだろうか、ということを思う。もちろんどこにもない、ということが回答であり、どこにもない、ということを書く人間がもっと必要かもしれない、ということを思った。より具体的にいうならばこの清潔なネット(と社会)には醜いものの場所が相変わらずない。「ないならつくればいい」などという希望を語る前に、まずその現実が共有され理解されていなければその希望とやらは単なるたわごとにすぎないのではないか。だがそれについて書くには疲れすぎたので明日以降にすることにする。疲れた。

2017-07-23

名をうしなう雲

二十代の頃は小説家になりたいと思っていて、複数の編集部に持ち込みをしては断られていた。ふりかえって考えるとあまりおもしろいものを書いてはいなかった。わたしにとっての転機、は、2006年前後に起こった不可逆的な出来事で、それ以降わたしの書くものは変わってしまった。わたしは「なりたい」と思わなくなった。いまこころのなかにあるのはただ灼けるような義務感、自分が見たもの体験したものを書き残さねばとても死ぬことなどできない、という激しい怒りに似た気持ちだけである。某編集部に仕上げた作品の原稿を送り、好意的な返事をもらって、その手紙を読みながらその当時のことを思い出し、そして不思議となんのよろこびもない自分の気持ちをみつめながら、机の前に座っている。自分は、なにになりたいのだろう。と思う。なににもなりたくない、という声がする。なににもなりたくない、が、自分が見たものを書き残しておきたい。ただそれだけが、正直な自分の気持ちのようだった。そういうきわめて私的な動機に基づいたプライベート・ストーリーズを、現代詩の様式にて書き記す。それはおもしろくないだろう。それは第三者に評価されないだろう。だがそれは仕方ないことだということも思う。選んだものは選んだものであって、船が沈むときはわたしも一緒に海に沈むほかなく、それはそんなに悪くないのではないかという気もしている。そういうことを日記的に書き記しながら、窓の外を見る。空は名を失ったまま曇っている。だが名をうしなっても人生はつづいていく。