2017-04-11

ほんとうの保守のためのノート

「この国にほんとうの保守はいない」と、ある小説家はいった

ほんとうの保守とはなにか
そもそも、わたしたちが守るべきものはなにか

それは憲法か
それは平和か
それは子供らか
それは誇りか
それはプライドか
それは世界一の技術か
それは安倍晋三か
それは自民党か
それは沖縄の米軍基地か
それは先進国か
それはG7の地位か
それはうつくしい国か
それは東芝の原子力事業か
それは台湾企業に買収されたシャープか
それは教育勅語を暗唱させる幼稚園か
それは共謀罪か
それは言論の自由か
それは性交の自由か
それは性行為をインターネットにアップロードする自由か
それは君が代か
それは天皇陛下か
それは男の男による男のための国か
それは女のものではない女によるところのない女のためでもない国か
それは自涜する自由か
それはツイッターで自涜する自由か
それはフェイスブックで自涜する自由か
それはありとあらゆるSNSで自涜する自由か
それはいつでも自涜ができる《わたしたち》の自由か

守るべきものがずれている
守るべきものがいつでもずれている
守るべきものがいつでもずれてしまっている
守るべきものをふみつけている
守るべきものをうらぎっている
守るべきものをいつの間にかきずつけている
守るべきものをいつの間にかよごしてしまっている
守るべきものがないている
守るべきものをなぐってしまった
守るべきものをころしてしまった
守るべきものをうしなってしまった

さまざまなひとが、それぞれ守るべきものをさけんでいる
(ツイッターであばれている)
さまざまなひとが、それぞれたたかうべきものをさけんでいる
(フェイスブックで慇懃なめくばせをしている)
毎日さけんでいる。毎日糞をなげつけあっている。毎日つぶやいている
(だれもかれもが血走った眼!)

そのどこにも《わたしたち》が守りたかったものはない
そのどこにも《わたしたち》がほんとうに守りたかったものはない
そのどこにも《わたしたち》がほんとうに守りたかったはずのものはない

くりかえされている
なんどもくりかえされている

なんども問うことをくりかえしている
なんども問うことをくりかえしてそのたびに答をうしなっている

ほんとうの保守とはなにかという問いをたてている
ほんとうに守るべきものはなんなのか問いをたてている

ほんとうの保守とはなにか
そもそも、わたしたちが守るべきものはなにか

いや、嘘を書いてはならない
いや、嘘をいってはならない
いや、ブログといえども、嘘を書いてはならない
いや、ブログといえども、《現代詩》といえども、嘘を書いてはならない

だがしかし、ほんとうのことは苦痛で
(そのすべてがいつわりで)
だがしかし、ほんとうのことはくるしく
(そのすべてがうそっぱちで)
だがしかし、ほんとうのことは血を吐くようなことばで
(そのすべてがご立派な表現で)
だがしかし、ほんとうのことがなければ……ほんとうのことがなければ!
(そのすべてが自己満足で)

なかった
そもそもなかった

そもそもこの国に守るべきものなどなにもなかった
そもそもこの国に守るべきものなどどこにもなにもなかった

そもそも《わたしたち》のこの国に守るべきものなどなにひとつ残されていなかったのだということ
そもそも《わたしたち》のこの国のいまここに守るべきものや愛すべきものなどなにひとつ残されていなかったのだということ

保ち守るべき美徳はすべて幻影だったのだということ
保ち守るべき美学はすべて幻想だったのだということ
保ち守るべき《あのひと》はすでに彼岸へ旅立ってしまったのだということ

よってほんとうの保守はついに不可能で
よってほんとうの保守はついにふかぎゃくで
よってほんとうの保守はついにかなうことなく
よってほんとうの保守はついにきえさり
よってほんとうの保守はついに実現することなく
よってほんとうの保守はすでに滅んでおり
よってほんとうの保守は二度滅ぶことはできない

愛する方法を知らなかったので
愛する方法をまちがえたので
愛する方法を知りえなかったので

ほんとうの保守よ、おまえは夢見た庭へとかえり
ほんとうの保守よ、おまえは安らかに星いだいて眠れ

(2017年4月10日)

2017-04-07

ブログ名称の変更を行いました

本日付けで、ブログの名称の変更を行いました。

新名称:仮象の帝国
旧名称:Marginal Soldier

よろしくお願いします。著作リスト等はTumblrを参照してください。

2017-03-31

「jpgの魔女ベアトリス」、またはロスジェネの不可能な紐帯

現実はおそろしい速度で変容してゆくが、わたしたちの人生はなにも変わらずすぎてゆく。この取り残されている気持ち(レフト・アローン)を克服するために、ひとりぼっちのネット右翼(ライト・アローン)が連帯せぬまま台頭する、と冗談を書いてみたくなる。だが、冗談をいって冷笑していられる幸福な時代はすでに終わった。わたしたちは眼前に広がる、左右、男女、上下階級が毎日いがみあうまずしい空間、すなわち自らが作りだした業と向きあわなければならない。

『詩と思想』2017年4月号にて、「現代詩の新鋭」なるものに選出されると連絡があったので、知己の詩人・井上瑞貴さんに解説を書いてもらった。わたし本人といえばそもそも詩と現代詩の違いがわからず、さらにいえば文芸とそれ以外の違い(あるいはブログとそれ以外の違い)もわからない人間なのだが、第三者より評価してもらえるのはめずらしい機会なので、ありがたく思っている。快諾してくれた井上さんに深く感謝を。編集部のみなさんもありがとうございました。

詩作品は、ストリップ劇場を舞台とした「jpgの魔女ベアトリス」を寄稿した。魔女とは男を狂わせる裸体であり、かつ男を救う(かもしれない)貌のない裸体でもある。このブログでも何度も書いているとおり、女だけが男をすくってくれる(可能性がある)ーーただし、それは実在する女である必要はない。それを「jpg」(ジェイペグ)と名付けた。男には女が痛切に必要だ。そしてそれは、肉のよろこびとはなんの関係もない。

この二〇年で、さまざまなものがわたしたちの人生から奪われていった。
だが奪われたものはとりもどせない。無限に遠い、たどりつけない<魔女>へのいのりを経由してとどくかもしれないことばについて書いてゆく。

(2017年4月1日)

* * *

作品以外には、「喪失の時代」という小文を寄せた。以下全文掲載する。

喪失の時代
 数年前、渋谷のストリップ劇場に足を運んだ。鮮明に思いだすのはきらびやかな舞台の最前列、よれよれの汚れたシャツを着た中高年たち、かろやかに踊る女たちの前に跪き、手を合わせる男たちの姿だ。かれらの表情には、神仏を拝む真摯さ、切実さがあり、それは胸が痛くなるような光景だった。
 前妻と暮らしていた頃、地元の駅前にアジア人の娼婦が働く店があった。営業日には小さなネオンが点灯し、秘かに客を呼び込んでいた。妻子が待つ家に帰宅する際、その前をよく通った。残業続きでバスが終わり、歩いて帰ったある雨の夜、道に小さな銀色の川ができて、私と店を隔てていた。川を越えた時に、喪失とは何か知った。
 成長や希望といった幻影を信じていられた八〇年代、アジアの小国で十代を過ごした。あちこちでパーティが開かれ、邦人の集まるホテルで食事を取ると、いつも歓声や笑い声が響いていた。家には阿媽(あま)がいて、学校に行くときは起こしてもらっていた。一番おぼえているのは彼女が洗濯をしている姿で、熱帯の白熱する空に洗濯物が揺れていた。だがいまは二〇一七年であり、揺れてぼやけているのは記憶だけだ。
 jpgは現在(プレゼンス)を保存する。陽炎のあちら側にいる裸体の女たちを。そして喪失の空虚さに耐えられず、弱さを暴力に変換し、告白によって赦しを求める男たちを。だが劣化は避けられない。複製を試みたとしても、記録されたものは不可逆的にこわれてゆく。
 書くことはその不可能を可能にすること。衣類をはぎ取られた肉体、いいかえれば虚構の前に跪き、ほんとうのことを現前させることだった。ひとは老い、夢はこわれ、共同体はばらばらになり、孤立と断絶だけが蔓延してゆく。この喪失の時代をいきる。