2017-06-22

優しくないものたち

仕事の合間に買い物に出かけて夏物のスラックスを何本か仕入れて、職場に戻ってきて自民党の女性議員が暴言で辞職したというニュースをみている。テープも一部聴いてみて、あまりのひどさに正気を疑ったが、いったいふだん職場たる自民党ではどんなひどい目にあっているのだろうと思ってしまう。プライドや尊厳をあらゆる意味で踏みにじられる非人間的な職場に勤めていなければ、自分よりも弱いものをここまで執拗に攻撃しようとはしないだろう。人間、自分がやられたことしか、ひとにできないものだ。

こうした負の連鎖は止めることができないし、たとえば自分が誰かに寛容にしたとしても、それを相手が感謝するかというとほとんどそんなことはなく、むしろ舐めてかかってくることがほとんどで、さらにいえば「優しさ」に甘えてもたれかかってくることがほとんどではないだろうか。つまり人間、嫌なやつになって、自分のいいたいことだけをいって、相手のいうことはいっさい耳を貸さず、怒鳴り散らしてひとにいうことを聞かせる人生がいちばんお得……ということかもしれない。そう思って苦笑してしまう。

上記と矛盾するようだが、わたしは、どこかの作家が言っていたが、優しいひと、が最終的には勝つと思う。舐めているひと、思い上がっているひと、馬鹿にするひとを打ち負かすと思う。現実をみればそんなことはない、と読者はいうかもしれない。それはわかる。だがそれでも、わたしは優しさを守り抜けるひとこそが強いと思うし、人生の究極的な一面において、優しいひとこそが最終的に幸せに生きられるのだ、と思っている。ひとを傷つけることでしか自らの傷をいやすことができないひとたちは、端的にいってかわいそうなのだ。

2017-06-21

交差点の女

ひとが歩く速度と同じ速度で雲が南から北へとながれている。もちろんそれは錯覚にすぎない。遠くにあるためひとと同じ速度のようにみえるだけで実際にはもっと速く動いている。わたしは交差点で自転車に乗って信号が変わるのを待っている。信号はなかなか変わる気配がない。昼間に降った大雨はすでにながれて水たまりは強風に吹き飛ばされてなくなり、ちぎれた雲のあちら側に沈む夕日の光がもえあがるのが見える。道は濡れていてそこに枯葉が散らばってへばりついている。わたしの隣、路上では髪の毛を紫色に染めた若い女が車中で口紅を直している。後部座席には乳幼児が窮屈そうにシートに収まっている。運転席には疲れた表情の男がハンドルを握っている。女はわたしをちらりと見て目をそらした。子供のほうは生まれておそらく三ヶ月ぐらいだろうかよく眠っているようだ。待っている間に、午後五時になると鳴り響く時報が聞こえてくる。あたりはすでに夜のように暗い。闇に溶ける精悍な肌の色をしたアジア人たちが道の反対側を自転車で走ってゆく。どこかで老人が咳き込んでいる。信号が青に変わる直前、女がまたわたしを見た。そして真っ赤な唇をひらいて何かを言おうとした。どこかで会ったことがあったか、とわたしは思う。だがそれを思い出す前に信号が変わり、あちこちがへこんだ車に乗った女とその家族は、わたしを置き去りにして道の彼方へと消えていった。

夜がふたたび訪れる。ようやく待ち望んだものがやってくるのだ。

2017-06-20

虚栄の詰まったずだ袋、またはGoogle+を辞めた理由

ネットでは無限に嘘がつける。嘘の真偽を検証する方法はない。先日、わたしはとある恥ずかしい事件があってGoogle+というSNSを辞めたと書いたが、結局のところ、それ以降ネットの上でのすべてのやり取りを中止することになった。それから三年、コメントやコミュニケーション機能を意図的に排除したTumblr等でしかネットでは書いてこなかった。

どうでもいい話、つまりきわめてプライベートな話になるが、なぜ辞めたかというと、とある作家のことを読んでいないのに読んだと書いてしまったから、というシンプルなものだ。きわめて恥ずかしいことで、それ以上でもそれ以下でもないが、ひとつはっきりしているのは、ネットはそういう知的な不誠実さを実行するのにもっとも適した空間であるということだ。

一方、読者はこう言うかもしれない。現実においても知的な不誠実さが横行しているではないか。たとえば、野心で眼を輝かせた若者に「きみはXを読んだか」と聞いたら、「読みました」と精一杯の嘘がかえってくるではないか、というかもしれない。そのとおりだ。若者や未熟者が知らないものを知っていると強がるのはいい。だが、その若者は次に会うときまでにそれを読んでおく必要が生じるだろう。嘘をついてしまったら嘘を守る必要があるからだ。

ネットではそうではない。いつでも嘘がつける。いつでも嘘をごまかせる。いつでも嘘を塗り重ねることができる。次から次へと嘘を糊塗することができる。誰もそれを検証などしないしできない。ここまで読んで、読者の脳裏に浮かんでいるAからZの人気ブロガーや「知識人」たちの顔をわたしも共有しているといわねばならない。だがわたしは彼らを批判する気にならない。ネットにとどまればそうなってしまう。虚栄の詰まったずだ袋になってしまう。それは避けられない。

その時、わたしはSNSから完全に去ることにした。それはGoogle+で巡り合った貴重な友人たちとも永遠に別れることを意味した。それはつらい選択だったが、他に選択肢はなかった。不可避的に生じる嘘への衝迫、衝動、欲求、これらから誰もが自由ではないことはたとえばツイッターをみれば明らかで、ひとにとって自然なこうした欲求を受け入れてネットという現代を楽しむ、という姿勢はありうる。だがわたしはそうした道は選べそうにない。

自分の言いたいことを書いて市場の流通に乗せること、商業的な価値がないかもしれないものをつくってゆくこと、現実社会に無視されるかもしれないものをつくってゆくこと、これをネットとネット以外の貌をもった現実の相反するふたつの場で行うこと、それがわたしのすべきことであり、していることであり、今後もしてゆくことだ。

だがさみしさはある。Google+はいいSNSで、巡り合ったひとびととの絆は貴重なものだった。わたしが自らの愚かなふるまいでそれをうしなったことを後悔している。それをここに書いておきたかった。