2017-05-22

梅雨前の昼下がり

梅雨の前なのに真夏日が続いている。夏は好きだ。何かがはじまる予感を感じさせる桜の春よりも、ひたすら熱に浮かされたような夜がつづく夏のほうが好きだ。夜の中でだけはじまるものがある。

もっとも、暑いことは、子育て中の親にとっていいことは何もない。汗をかくので頻繁に服はかえなければならないし、汗疹は心配で、顔が赤かったりすると虫にでも刺されたのではないかと心配になってしまう。そういう心配そのものが無意味であるということを自分に言い聞かせるがそれでも心配になる。まあ人間なんていうのはそんなもので、正しい、とわかっていても、守れなかったりすることもある。あるいは、間違っていることが楽しかったりするということもある。ままならない。なにも片付かない。なにもうまくゆかない。だが偶然うまくゆくこともある。

娘の下半身から排泄物を洗い落として戻り、仕事のメールを出し、ゆるい風が吹く部屋にすわっている。

壁にはりつけた「仮象の塔」の原稿が揺れている。
社会に必要とされていないものを書く。だがそれは、どこかに読者がいるというわたしの確信とまったく矛盾しない。

2017-05-21

窓の内の怪物

晴れの日がつづいている。どさほど遠くない土地では通り魔が老人をバットで攻撃して負傷させ、わたしはいつもと同じように机に向かっている。穏やかな晴れの日がつづいていることをよろこびたく思う反面、さほど年が離れていない男を暴力にかりたてた怒りの正体について想像をめぐらせてしまう。それは端的にいえば、「レールを外れた者をこの社会は人間扱いしない」ということでもあり、あるいは「組織の中にいてもひとは道具としてみなされる」ことでもある。人間扱いされない、というのは、コミュニケーションが成り立たないということでもある。気持ちを打ち明けこれを通わせる契機が奪われている。この国を覆っているなんとも形容し難い息苦しさは、ネットに「本音」があふれているように見える反面、それを語る場が公にはいっさい存在をゆるされないことに起因しているだろう。政治について語る場はなく、恋愛について語る場はなく、生きることについて語る場はなく、ひたすら軋轢をさけるためだけの「お世話になっております」レトリックが蔓延している。洗練された礼儀作法による秩序は外国人(特にアジア人)からみればある意味うらやましいものかもしれないが、その中にいる者はそれを実現するためにどれだけのものが抑圧されているか知っている。ひとを型にはめるシステムは秩序ある社会を作るかもしれないが、そこに入らないものはハサミでひっそりと切り落とされていることを忘れてはならない。いや、わたしがそんなことを書くまでもなく、だれでもそのことに気がついている。この国に《人間》がいないことにだれでも気がついている。だがどうやってそれを取り戻せるか。どうやったら《人間》になれるのか。だれもできない。だれも《人間》にはなれない。そして暴力は断罪されすべてが忘れられる。

おぼえておこう。ひとを怪物にするものは、いまここの安寧を守るためにだけ無視され、排除されてきたかなしみや怒りの声だということを。わたしたちはそれをこれからも目撃してゆくだろう。何度も何度もくりかえされるだろう。しかし、自分たちがつくってしまったこの怪物がこの社会に牙を剝くとき、わたしたちは怪物になることなく、これとあらがうことができるだろうか?

窓の外は暗い。日本人にうまれながらもっとも難しいこと。わたしは《人間》になりたいと思う。

2017-05-20

ファースト・ショッピングと戦争の午後

よく晴れている。平日は毎日早朝より作業に入る。土日祝日は一応休みという設定にしてあるため相対的にのんびりと過ごす。

本日は赤ん坊と買い物に行くためにベビーカーを出した。生まれてからまだ一度しか使っていない。定期検診以外で二人で出かけるのは初めてだ。日差しは強く、多少心配だったが、サンシェードが意外と機能的だったこともあり、起伏の少ない歩道にでると、すぐに娘は眠った。その顔をシェード越しに眺めながらいろいろなことを考える。そして黙って路上をあるく。

老人たちはにこにこしながら赤ん坊をみる。小学生や中学生はものめずらしそうにちらちら見る。そしてわたしと同世代の人間たちは目をそらすか、うつむいてなにも見ずに歩いてゆく――ひょっとしたら舌打ちしながら。それぞれの反応をみると、さまざまな思いが胸をよぎる。そして「戦争」とはなにか、と思う。戦争とは、「この人生」をリセットできる、あるいは価値観が逆立し、社会にまったく認められない自分が、死という献身を通してはじめて社会より認められるかもしれない救済の可能性のことだ。

英雄的な死によって、あるいは「金持ち」や「成功者」に平等にふりそそぐ死によって、ひょっとしたらこのどうしようもない自分も救われるかもしれない、というこころの動きがある。そう考えるわたしを前に、娘はわらっている。わたしは戦争を求めてはいない。だが、もとめる気持ちは理解できる。さらにいえば、ロスジェネ世代は戦争をもとめている。それをこの世のいかなるものもとめられない。