2017-12-13

無題(承前28)

すっかり寒くなった。といってもわたしが住んでいる房総半島は都心に比べるとあたたかい気がする。もっとも気がするだけで実際にはたいして気温は変わらないらしい。ただこのあたりは雪があまり降らない。都心で降ってもこちらは雨だったりする。

2017-12-12

無題(承前27)

ブログも最近、どうも自由に書きにくくていけない。
貌のある知りあいが増え過ぎたのかもしれない。

それはともあれ、シンガポールのチキンライスをつくった。海南鶏飯のシーズニングペーストの瓶詰めを棚に発見したので、それを使って簡易版をつくることにする。鶏肉は本当は蒸すのだが手間を省略するためにモモ肉を塩で焼いて代用する。キュウリもほんらいは現地でしか手に入らない色の薄いものを使うのだが、普通の緑色のキュウリを使うことにしてお茶を濁す。シーズニングペーストは米と混ぜて焚くだけ。これもまたほんらいはジャスミンライスを使う。だが日本でそんなものが簡単に手に入るわけもなく、千葉県産のふつうの米を使う。できあがったものはシンガポールで食べられるものに似ていたが、どこか違う味。

まあ、ほんものなんていうものは、ふだんの生活では食べられないからこそほんものなのだ。

そう思いながらインターネットを読んでいる。インターネットにはまがい物しかない。だが、それのどこが悪いだろうか。いや、むしろわたしたちにとっては、まがい物しかないのではないか。にせものの、劣化品の、なにもかもが劣ったものしか、与えられていないのではないか……。

ほんものはどこにいったのか。そんなものははじめから存在していなかったのだろう。

2017-12-11

『塔』制作日誌(1)

月曜日。通常業務。

仕事部屋のレイアウトを変更している。資料として所持している全集の帯(!)を子供が破ってしまうので、表に出しておくことができなくなって、結果として収納スペースに引き上げることになったのだが、その前段階として部屋が本だらけになっている。前はあまり気にならなかったが古書というのは衛生的にはどうなのだろうか……まあそんなことを言ったら財布やスマートフォンはもっと不潔なのだろうが。

よく晴れているが寒い。今年ももう終わりに近いが、毎日やることはあまり変わらない。

本の後書きを依頼されているがまだ書けない。おそらく最後まで悩むことになるだろう。ここ十年、本を出すことはひとつの目的だった。だが実現するとなったいまもこころのうちにはなんの興奮もない。だがおそらく「こんなものを書いても意味がない」と思っているのはわたしだけではなく、ほとんどのシリアスな書き手が社会に必要とされていない無力感とたたかっている。わたしもたたかおうと思っている。

もっとも、理性的に考えれば、「意味のある」ものなどないのだ。この世のあらゆるものはひとしく無意味であって、問いの立て方を間違えてはならない。

そう思いながら窓の外をみる。意味を喪失した社会に意味をうしなった光がふりそそいでいる。欲しいのは意味だろうか。いや、おそらくそれは「納得」なのだ。

2017-12-10

無題(承前26)

日曜日。

ようやく「塔」(仮題)の校正を終えて郵送する。もう一回同じ作業があるが、おそらくほとんど修正がないものと思われる。これで今年はもうひとつ大きな原稿を仕上げれば終わる。

他、いろいろ書いてはみたが、しょせん説明にすぎないので削除した。

2017-12-09

週一休暇

本日の更新はお休みとなります。

2017-12-08

それよりもずっと孤独な行為

通常業務。

「塔」(仮題)の初校の校正の続き。ペンで赤入れをするのは楽しい。わたしはデジタル環境なので基本原稿はどんなものであってもすべて上書き保存で異稿はつくらないのだが、特定の段階で印刷したものを複数の制作段階で保存しておき、これらを比較検討するプロセスはあってもいいかもと思い始めている。赤入れのいいところは削除や変更前の文章が残ってみえることで、視覚的・触覚的にそれが確認できるのは大きく、編集者と一緒にこの作業を本格的にやってみて、わたしははじめて赤入れがおもしろいと思った。

* * *

以前、とある読者と話をしていたら、わたしのブログのエントリをすべて印刷してもっている、という話を聞いて驚いたことがある。だがその読者はいっさいコメントもせずに黙ってずっと読んでくれていたということを知った。わたしはそれ以来、インターネットや手紙の上にあらわれる読者の意見というものに反応したり応答しないようになった。

読むとは、場合によっては書くことよりもほんらいずっと孤独な行為なのだ。それを尊重したいと思っている。

* * *

とあるインターネットの活動家がいっていたことを、次のように翻案し書きのこしておきたい。

百の悪意あるコメントの背後に一人の投稿者。
一つの肯定的コメントの背後に百人の善意ある沈黙の読者。

そしてこれはコメントに限らず、人生におけるさまざまな困難にあてはまる。
善意はいつだって可視化されにくいものなのだ。

2017-12-07

穴に落ちる

昔とある小説家が、小説とは「ひとが穴に落ちる小説」と「ひとが穴からはい上がる小説」の二種類に大別できると書いていた。

わたしは思うが、ひとはひとが穴に落ちるのを見るのが好きだ。ひとが汚れて、夢がこわれて、希望をうしなって、首を吊って木から揺れているのを酒でも飲みながら笑いあうことができる生き物だ。そのことはインターネットにあふれる悪意をみればだれにでもわかる。

だが、それと同じぐらい、ひとはひとが立ち直るのを見るのが好きだと思う。あまり可視化はされないが、ひとはひとが立ち直る様、ひとがあきらめない様、そしてひとが目標を達成した様をみて、自分とはなんの関係もないはずのことに、ひそかに勇気づけられたりするものなのだ。

2017年もあらゆる場所で、ひとがひとを攻撃し、それをエンターテイメントにしてさらし上げる営利活動が行われている。かつてはテレビや大衆週刊誌だけがやっていたことを、いまはインターネット上で匿名個人やブロガーが「悪を成敗」する看板を掲げてこれを行っている。

そうした光景を24時間365日みていれば「ひとはひとが穴に落ちるのをみるのが好きでたまらない」といいたくもなる。だが、わたしはそれは一面的な見方だと思う。こうしたことを一度書いておきたかった。

2017-12-06

無題(承前25)

半日子供の面倒を見る。基本的に育児は家内に任せていて、一方炊事はほぼわたしがやっている。掃除などの家事はできるだけやるが、掃除はこだわるとものすごく丁寧にやりたくなる。道具などもいいものが欲しくなる……ので適当にやることにしている。家内が帰宅してからは職務。机の前で悩みながら手紙などを書く。やることは山ほどあるが、毎日やってもまったく終わらない。悪夢だ。

他、インターネットはほとんどみない。そこにわたしが必要なものはなにもない、と思うが、日記的なものを書くことだけは何年も続けている。なぜか。自分でもよくわからない。よくわからないものを続けている。「誰かが読んでいる」というのは当たりもしない宝くじをいつか当たると思って買っている人間がいだく夢物語だが、一方、読まれていないと思っているわけでもない。その程度にはわたしは楽観的な人間なのである。

今日もインターネットには被害者ばかりがあふれている。
加害者はどこにいったのだろう?

「自分はこんなひどいことをされた」ではなく、「自分はこんなにひどいことをした」という口が、どうしてこのインターネットには存在しないのだろう?

2017-12-05

傷をみとめないひとびと

ツイッターが攻撃的なレトリックを規制する方向に大きく舵を切ったことを横目に見ている。過去そして現在にかけて、さまざまなIT企業が攻撃的な書き込みを「表現の自由」という建前のもと放置し続けてきたことを思い出し、それによって傷ついてインターネットから消えていったひとびとの横顔を思い出す。それによって失われたものは数字には出ない。だがわたしはおぼえている。読者もおぼえているだろう。

作家はどんな規制があろうが語りたいことを語り、かれらを黙らせたければ殺すしかない。そういう意味では「表現の自由」はむしろ作家に与えられるべきものではなく、ごくごくふつうの人々に対してひろく解放されるべきものなのだ、ということを思う。

だがその理念を悪用して好き勝手にひとを傷つけることに用いるのであれば、それはやはり規制される他ないだろう。

傷つく、ということを、ほとんどのひとはナメている。傷つくということを、「大人」は軽侮している。それは傷があることを認めてしまうのが怖いひとびとが「大人」を構成しているからである。

いくつになっても、ひとは痛みを恐れる。あるいは理解されることを恐れる。それを糊塗するために高級なスーツやブランド品を着用したりするのだった。

* * *

他、通常の職務。

2017-12-04