2011-12-31

糞神礼賛

"Or rather, it is only then that people will, for the first time, truly be able to live."

2011年3月16日、「震災と日本」ーー柄谷行人

真に生きるということを、私たちが普段用いることばに引き寄せて考える。それはどういう意味になるか。私たちは、もちろん震災とは何の関係もなく、個別に繰り返される不幸に引き裂かれ、ひとりぼっちで、この情報社会の中で孤立を強いられている。大人たちだけではなく、いまは子供たちも、ひとりひとりが与えられた携帯端末を通して、無料で、自由で、開放的なネットを享受し、そこにいる限りにおいてはあまりにも快楽的な箱庭世界のゲームに興じている。そこから出ることは難しい。不毛であるとわかっていてもさえ、そこから出ることは、あまりにも難しい。

それぞれの家庭に目を向けてみよう。家族は崩壊し、虐待とネグレクトが横行し、離婚した片親は社会の軋轢に疲れ果て、自分より弱い子供を叩いている。放棄された育児の結果、子供は暗い家でひとりぼっちで、PCの画面に貼り付いて、ツイッターで、2ちゃんねるで、まとめサイトで、垂れ流される無料の動画を楽しみ、ひとりでげらげら笑いながら、全世界を呪い続けている。親はそれに対して何一つできない。親類縁者は何もしない。遠くに住み、うなるほどの年金と退職金を与えられながら何もしない、何もできない。子育てを支援する仕組みは機能不全であり、保育所は常に満杯で、学校はといえば、あたらしい社会の桎梏になにひとつ応えられない、無能きわまりない仕組みであり続ける。

だから本当は、老齢者と若者がじっくり話し合って、どういう社会を望むのか、その為には何をすればいいのかを話し合うべき時なんだが、「老」があの説教好きな団塊で、「若」があの「老害」と言いさえすれば全部片付くと思ってる餓鬼どもではどうしようもない。(2011年12月31日——ある作家の投稿)

世代間格差は広がり続けている。カネではない。制度ではない。それはことばの断絶だ。機能不全のまずしいことばを用いる若年層に、まがりなりにも、それなりの戦いを経て、いいかえれば、徹底的な敗北の後にインポテンツになった悲しい身体を引きずって生きている老齢者のことばは届かず、若者はそれを単に軽侮するだけで、その後ろに潜む老齢者たちの体験の重み、かなしみ、くるしみ、そしてそこでしか得られなかった知見を理解することなどできるはずもなく、「自らの失敗」を経ていない無能で愚かでまずしい若者たち、つまり私たちは、彼らを継承することすらできず、使い潰している。これが状況だ。

子どもと回転寿司に行ったが、トンカツというのが新しくふえていて、握りの上にカツが一切れのって回っていた。食べている人は見かけなかったが、以前、留学生が団体で回転寿司屋に入ってきて、ハンバーグとか生ハムとかそういうのばかり頼んでいる光景を見たことがある。寿司を食べました、とか、実家にメールでもするのだろう。(2011年12月30日——井上瑞貴)

あらゆるものが利便性にとらわれている。私たちは、食事の席で携帯で写真を撮り、それをフェイスブックに、ツイッターに、G+に、その他ありとあらゆるSNSにアップロードし、楽しかったね、おいしかったね、と、世界の裏側にいる人間とやりとりをする。世界は狭くなった。それは事実か。むしろ遠ざかった。むしろ断絶させられた。米国が、イギリスが、フランスが、ロシアが、韓国が、中国が、どれだけ日本から遠ざかったか。どれだけ日本が、いや世界中の国が、ネットによって分断されたか。伝えることの絶望的な困難が覆い隠された場において、コミュニケーションは死んだのだ。埋葬されたのだ。くたばったのだ。糞みたいなネットによって私たちは殺されているのだ。Googleとはいわばその糞の神である。

もう一度問わなければならない。真に生きるとはどういうことか。真に生きるとは、私たちから、人間らしさを奪うものとたたかうことだ。非人間的な生活を強いるものとたたかうことだ。私たちから、家族を、連帯を、ともに生きることの喜びを奪うものと、徹底的にたたかうことだ。人間らしさはカネでは買えない。人間らしさは愛では手に入らない。人間らしさは民主主義によって実現しない。人間らしさは民主党が、自民党が、公明党が、共産党が、幸福の科学が与えられるものではない。制度が、社会が、存在していないと見なされる国境が、資本主義が、ありとあらゆるものが、私たちの敵だ。滅べ、と叫ぶことは誰にでもできる。死ね、と書くことは誰にでもできる。しかし生きることだけは困難だ。いつもそうだった。これからもそうだった。明日もそうだった。生きよう、この糞のなかで。

2011-12-29

傷がなければ書けないのではない。書くことが傷をもたらすのである。

手を繋いでいる。流れる河は深く暗い。なめらかな、水銀のような水面に、星と雲が映っている。しかし空には何も無い。光も何もかも吸い込まれたような、黒い黒い闇だけが広がっている。水は、西から東へと流れていくように見える。手は繋いでいたが、それを遠く感じる。ね、と女がつぶやいた。私は答えられない。ね、私たち、どこへ帰ればいいのかしら。足元に生い茂る野草が、冷たい風に揺れている。

雨が降っていた。傘を差しながら酒場へと入る。すでに全員が着席し、私が最後の参加者だった。真ん中に用意されていた席に座りながら、皆の顔を眺め渡す。すでに旧知の間柄のひとびとに混ざって、今回、初めて会うひとびとが混ざっている。そして一様に凝視されている。こんにちは、はじめまして、私が根本正午です、と口を開く。そのうちのひとりを指さして、お前の書くものはつまらない、と私は着席をする。

あなたの書くものは面白いわ、と女は言った。小さな事業所だった。女は私の仕事を手伝いに来ていた。後ろから、PCのディスプレイを覗き込んでいた。シャンプーの香りがした。どこがおもしろいんだい、と私はたずねる。ぜんぶ、と女は言う。こんなひどい話が? ええ、と女は微笑む。いや、微笑む気配がある。短い文章で、捨てるつもりだった。新橋で見たアジア人の売春婦の話だ。雨の気配があった。ディスプレイが、青白い光を瞬かせる。

苦しみなさいよ、と女は言っていた。都心のスタジアムで、私は撮影スタッフの後ろで、空を眺めている。カメラはまわっている。グラウンドには、ボールを蹴り合う小柄な選手たち。私の仕事はすでに終わっている。巨大な塔のような照明に照らされ、薄く低い雲が燃え上がっている。女からのメールは、五年前の日付だ。パーティ楽しかったね、と女が書いてきている。どこにも行けないけれど、と答える。身体に亀裂が入るような気がして、私は、手のひらを空にかかげ、そこに、星が。

2011-12-27

年の瀬

奧さんと私、どっちが好きなのよ、と愛人から質問をされるとする。質問された時点で、男は負けている。

年の瀬が迫っている。今年は何をしていたか。生きていた。そして皿をよく洗った。小説は少し書いた。社会に対して何の貢献もしなかった。色々なひとに「いいひと」だと言われた。嘘ばかりの人生がさらに嘘まみれになった。

朝から電話をしていた。児童相談所だ。ひとに押しつけるばかりの人生でした、と私は懺悔した。いやこれは教会だった。娘に、きらわれたくないんです、と私は自白した。みんなそうですよ、と担当はわらった。窓に自分の顔が映っている。それはほんとうに醜い。

雪が降るかと思うぐらい寒い。車を出すと、道はすいている。夜空にオリオンが瞬いている。ラジオは「告白の失敗談」を流している。女の子に告白しようとして、彼女が三階に住んでいて、ベランダをよじ登ったら、警察に通報されて——私はスイッチを切った。

ドライブインに入ると、奥の席でカップルが口論していた。女は泣いている。男はうつむいている。男を応援したい気持ちになった。がんばれ、男、と思う。泣いている女に勝てる男はいない。悲しんでいる女の前で男は無力だ。なによ、どうせ私のこときらいになったんでしょ、と女が言った。

違う、と私は答える。しかしことばと身体は分離している。口が言っていることを身体が裏切っている。どこからかラジオが聞こえる。最上階のレストランの窓から、都心の灯りが見える。冬の東京は荒涼としている。寒い、と私は思う。女は、じっと黙っている。ウェイターが巨大なケーキを持ってきた。

女に渡すはずだった指輪は、新宿駅のゴミ箱に捨てた。

2011-12-24

クリスマス・キャロル

お前なんかが、なんで親みたいなツラしてるんだよ、カネもないくせに、定職もないくせに、お前みたいなクズが、家族みたいな顔をして、どうして家に入ってくるんだよ、どっかいってくれよ、もう、私たちのことを、ほおっておいてくれよ。

自分の娘を暴行し、「妻と間違えた」と言い訳をした宣教師の話を聞いていた。空は曇っていて、窓の向こう側には灰色の雲が広がっている。安物のスピーカーから流れてくるクリスマスソングが、肌に貼り付くような気がする。ファミレスのこの席からは、いつも同じ風景が見えた。道路と森と、道を挟んで反対側にあるアメリカ資本のショッピングモール。道を、手を繋いだ親子連れが歩いていく。その顔には笑顔が浮かんでいる。窓のこちら側から見ると、それはとても遠い風景のように感じられる。

四階のベランダ、静かな深夜。向かい側の団地の窓はすべて消灯されている。団地には市長が住んでいる、と、以前警察の誰かが言っていた。団地の駐車場には、定期的に覆面がやってきて、パトロールをして帰っていく。黒塗りのワゴンが、静かに走り去っていくのが見えた。娘たちと、その母親はもう眠っている。私は寒さにジャケットの前を合わせ、空を見上げようとする。どこかに疲労があった。霞んだ夜空に、流れ星がひとつ落ちたような気がした。ゴミだらけのベランダで、空き缶を拾う。クリスマス特価、80円。

深夜に近いスーパーの特価コーナーの前で、何を買って帰ろうか考えている。寿司、刺身、ピザ。どこにいってもクリスマスにつきまとわれている。先ほどケーキを買って持って帰った時、家には誰もいなかった。テーブルの上に書き置きをして、ケーキを置く。部屋には、兎の糞の臭いがある。脇から老婆が割り込んできて、食材をさらっていく。老婆の背中は曲がっている。じゃまなんだよ、と老婆はつぶやく。煙草が切れている、と私は思う。何もかもが、売り切れているような気がする。

流星雨を見に行きたい、と娘は言っていた。結局、扁桃腺炎で動けなくなった娘の代わりに、近くの公園まで足を運んだ。夏になると、毎年暴行事件が起こるという夜の公園。巨大な野球場が、森の中にひっそりと横たわっている。息が白い。たぶんもう会えないよね、と女は言っている。野球場のフェンスの前に立って、グラウンドを眺める。夏頃には、そこで試合に興じる少年たちの姿があった。荒涼としたグラウンドに、冷たい風が吹いている。夜空を見上げるが、何も見えない。薄い雲が、すべてを覆い隠している。星も見えない。よいクリスマスを。

2011-12-20

深夜の旅立ち前

お前なんて、死んでしまえばいいんだ、どうしてはやく死んで、親を楽にさせてくれないんだ、葬式は立派なものを出してやるよ、どうして親に迷惑ばっかりかけるんだい、どうして親を裏切ることができるんだい、なぜまだ生きているんだい?

道は空いていた。後部座席で、いたいよお、いたいよお、と娘がうめいている。私は震える手に力を入れて、ハンドルをまっすぐ保つ。深夜のドライブは危険だった。体調も万全とは言えず、夜は冷たく残酷に感じられた。ヘッドライトに切り裂かれる路面には霧が薄くかかり、視界は最悪だった。だいじょうぶだ、と私は言った。根拠などなかった。だいじょうぶだ、と私はもう一度つぶやいた。それは声にならなかった。

アメリカ人の若者は、中国を四ヶ月旅してきたんだ、と嬉しそうに私に語った。かれは私が吸っている煙草に顔をしかめ、アメリカでは下層階級だけが煙草を吸うんだよ、と私にしたり顔で説教をはじめた。私は苦笑して、吸わないと死んでしまうんだ、と手を震わせてみせる。そして握手をして名乗りあった。かれはミネソタの出身で、両親はアリゾナにいるのだという。私は、シンガポール育ちの日本人だ、と自己紹介する。きみと同じ、ガイジンだよ。

飲ませて、と娘は布団に横になったまま口を開けた。私はその口に粉薬を流し込み、上半身を起こさせ、水を手渡した。娘は軽く咳き込みながら、薬を飲み下していく。少しすると、娘は眠りに落ちた。ベランダに出ると、三日月が光っていた。星が瞬いていた。部屋は静かだった。あなたと一緒に居たい、と女は言ったはずだった。私も一緒に居たい、と信じたはずだった。くるしいよお、と娘がつぶやいたような気がした。お父さん、と息子が言ったような気がした。私はどこにいるのか、と思った。

若者は眠そうに、マクドナルドの椅子の上でうつらうつらしている。私はメールを書き終えて、肩を叩いて起こす。空港への始発までは、あと二時間だ。がんばって起きてろよ、家族に会うんだろ? 若者は笑顔で、ああ、と答える。ホーム。ホームへ、帰るんだ、ほんとうに楽しみなんだ。私はかれの肩を叩き、握手をして別れる。外へ出ると、凍り付くような大気に、全身が覆われる。どこに家族がいるのか、と思う。何かを犠牲にしなければ成り立たない幸せの果て、誰かを踏みつけにしなければ実現できない関係。なんで死なないんだよ、とつぶやく。答はなかった。

2011-12-17

午前一時の散歩

深夜一時の東京駅前。長距離バスを逃した私は、歩道に立って煙草を吸っている。半分に欠けた月が夜空に浮かび、人気のない大通りを照らしているように見える。終電を逃したのは、忘年会で編集者と議論になったからだった。きみは、私小説的なものを書いて、過去を受け入れたいのか、それとも、そこから逃避するために書くのか。そう編集者は私に訊ねた。それは一見、とても失礼な質問にも思えた。しかし、こころのどこかで、その質問に答えることを恐れる自分がいた。それはおそらく、書くということが、私にとっては、逃避から始まったからだった。

駅前繁華街に、冷たく透明な風が吹いていた。けばけばしいネオンをまき散らす歓楽街の残骸のそこかしこに、客待ちの売春婦たちがいた。彼女たちは全員アジアから来ていた。ほとんどが中国から来た女たちだ。一晩どこで過ごそうか、と私は考えながら、道を歩いていた。寒かったが、とくに不快ではなかった。角に立ち止まって煙草に火をつけると、そこには無言で立ちつくす女がひとりいた。誰にでも声をかける女たちと違い、その女は顔を上げることなく、無言で灰色のアスファルトをじっと見つめていた。声をかけようかと思い、何語を用いるべきか自問した。女は、誰かに似ている。

酔っぱらって怒鳴り声を上げる、ネクタイをしめた会社員たちが道路でもみ合っている。そばの花壇で、老婆らしき女がうずくまっている。老婆は吐瀉物の上に屈み込んでいる。何をしているのかはわからない。どこかで学生たちが、何かの歌を歌っている。男たちは皆一様に疲れた顔をしている。私は道を歩いている。風がさらに強くなった。女たちが私に次々に声をかけてくる。一晩あたためてあげる、と女が言っている。たったの三千円だよ、と女が言っている。マッサージ気持ちいいよ、と女が言っている。誰しもが目をきらきらと輝かせていた。男たちは殴り合いを始めた。バカにしやがって、バカにしやがって、バカにしやがって!

繁華街を離れると、突然静かになった。日本橋を抜けて、さらに北へと向かった。巨大な高速の高架の下で、黒く冷たい水面を眺める。ホームレスが、ビニールシートにくるまって眠っている。立ち止まると、ドブの臭いに身体が包まれる。道路には車の姿はない。静かだった。誰もいなかった。私とホームレスだけがこの東京の住民であるような気がした。オレンジ色の街灯が、アスファルトを照らしていた。誰かに呼ばれたような気がして、振り返る。そこには誰もいなかった。ただ眠り続けるホームレスがいるだけだった。もしこのまま宿が見つからなければ、私もまた駅前で新聞紙にくるまって、かれのように眠るだろう。誰にも顧みられず、狭く、小さな閉じられた世界で、ひとりぼっちの寒さから身を守りながら。眠れ、眠れ、夢もみることなく。

2011-12-15

あたたかい午後の光

十年ほど前のこと、インドのとある地方都市で、死体の山を見てしまったことがあった。具体的には、草原に囲まれた医科大学のキャンパス内、解剖実習が終わった後の部屋だ。私は知人の学校見学にたまたま同行していて、その部屋に偶然入ってしまったのだ。

鮮明に覚えているのは、掃除婦が青いホースで水を床にまいていたこと。女が床にこぼれた体液を洗い流している。テーブルの上には、大量に積み上げられた手足に内蔵に胴体。その色と形状が、なぜか目に焼きついている。それは単なる廃棄物だった。

死者は一般的には尊厳を持って取り扱われる。そこには所定の作法があり、儀礼がある。テーブルの上に置かれていたそれは、とある崇高な目的のもと、提供され、腑分けされた肉体の末路だ。それは世界のあちこちで行われていることで、別にそこに何らおかしなことはない。

私がそこで立ちつくした時、何かが腑に落ちた気がした。土塊と、死体の違いは何か。そういうことだった。何が違うのか、と私は自問した。ホースから水がぽたぽたとこぼれている。奇妙な静けさがあった。窓から午後の光が射し込んでいた。

意味が剥ぎとられた人間は、虫けらと何も変わることはない。それは残酷な光景であるはずだったが、斜めに射し込む日光を、奇妙に、あたたかく感じた。私もまた、ここに積み上げられた屍と同じなのだ。そのことに、吐き気と安らぎを同時に覚えた。外に出る。草原が光っていた。

2011-11-27

料理のできない男

子供時代を海外で過ごし、日本に帰国したのは十八歳の頃だった。その一部屋しかないアパートで、五年間ほど暮らした。一人がやっと立てる、小さな台所に加えて、一部屋だけがある住居だ。ただ、窓だけは大きかった。窓を開けると、目の前には隣の家のトタン屋根が見えた。そしてひしめき合う建物の隙間からは、近くを走る大通りを行き来する歩行者と車の喧騒が漏れてきていた。

古い二階建てのアパートは、全体的に水はけが悪かった。雨が降ると、道には大きな水たまりが残された。夜になると、銀色の街灯の光が、まるで星のように水面に映っていた。その狭い路上を、長靴を履いた子供らが通っていくのをよく見かけた。どこの子供だったのかはわからない。だが子供らは、いつも何かを歌いながら歩いていて、とても楽しそうに見えた。

窓から見る東京の空は、いつもどこか曇っているように感じられた。それは私が港街育ちだったせいもあるかもしれない。夜になると、どこかで雨が降っているような、そんな気がしていた。もっとも、単に記憶が修正されているだけかもしれない。よく思い出せない。憶えていることもある。のちに、私の妻になった女が部屋に遊びに来た夜も、やはり雨が降っていた。激しい雨だった。屋根が震えるほどの。

それは何度目のことだったのか。小さな台所の前で、私は夜食代わりのホットケーキを焼いていた。大粒のぬるい雨が、壁に、屋根に、扉に叩き付けられる音が響いてきていた。女は、本棚の前に座りこんで、毛布を身体に巻き付けて、窓の外を眺めていた。ガラスの表面に、いくつもの水流が出来ていた。多少の肌寒さがあった。私はフライパンの前で、火を眺めていた。女が何か、私に言ったような気がした。

いつか、あなたの育った国に、一緒に行ってみたいのよ。女は、そう言った。雨はあがっていた。静かだった。音がまるでなかった。女は、近くの駅まで送っていく、という私の反論を封じて、玄関で私に抱きついてきた。いいのよ、ここで、と女は言った。ケーキ、おいしかったよ、と女は言って、私の顔を見上げた。私は、女を抱きとめながら思った。それが、けして叶わぬ夢だと。二人で旅に行くことは、きっとできないだろうと。私は、腕に力を込めた。しかし、ことばはそこからこぼれ落ちていった。

料理、は、単なる趣味だった。実家に、誰も料理をする人間がいなかった。だから子供の頃から、ひとりで色々なレシピを試してきた。たいした腕ではない、と自覚していた。女に、料理を作るようになったのは、その自分の下手さを、笑ってほしかったからだ、といま思う。結婚をして、同居をするようになって、私はいつしか料理をしなくなった。なぜだかよくわからない。妻と息子に作らなかった料理を、いま、別の誰かのために作っている。料理のできる私は、じつに滑稽だと思う。そう考えながら、今日も皿を洗った。

2011-11-25

ネットが必要としているもの

インターネットのひとびとは皆とても親切だ。

東に間違いがあるとすぐに指摘をし。
西に犯罪があればすぐに通報をし。
南にうまいものがあれば写真をアップロードし。
北に知らないひとがいればWikipediaをソースに色々講釈をしてくれる。

誰の顔も善意でかがやいている。満面の笑顔だ。

そんなインターネットでは、みながおもしろい記事を紹介したがっている。
たとえばFacebookの「イイネ!」ボタン、Google+の「+1」ボタンは、そんな善意が形になったものだ。

誰もが気軽な共感を求めている。

「猫が可愛かった」
「このランチが美味しかった」
「今日の仕事がたいへんだった」

そんな書き込みに、多くの同意のレスが返される。
かわいいね、おいしそうだね、たいへんだったね。

インターネットがいま必要としているものは、そういう善意だ。

それは善意であるから、別に理解されなくともよい。
それは善意であるから、別に誤解されてもよい。
それは善意であるから、別に正しくなくともよい。
それは善意であるから、別に語られなくともよい。

私たちはネットで笑顔ですれちがう。
それはもう作り笑いではない。こころからの笑顔である。

しかしそもそも笑顔というのは、空っぽなものではなかったか。
親切で清潔なインターネットが教えてくれるのは、どこにもほんとうの笑顔などなかったということである。

その笑顔に感謝しなければならない。ここが、私たちの。

2011-11-16

日常的なもの

努力という日本語は、勤勉そのものを自己目的化したテーゼを潜ませた、危険なことばだ。それは結果を出すことよりもその過程そのものを重視する国民性と言ってよい。
「夢は必ずかなう」。そんな言葉をよく耳にします。「願えばかなう、だから夢を持ちなさい」というのは、1つの考え方としては理解できます。ただ現実の世界では、夢はいつもいつも、かなうものではありません。かなわない夢だってある。そんな現実を、子どもたちに早く教えた方がいいと思います。

弘兼憲史インタビュー(日本経済新聞Web版)
高校生の頃読んでいた山本七平の本に、いまでもたまに思い出す逸話がある。子供の頃、かれは数学がどうしても苦手だったそうだ。かれの友人に、数学がものすごく得意な生徒がいた。「どうしたら数学ができるようになるか」とかれは友人にたずねた。

友人の答は、「予習せず、頭をからっぽにして授業に出れば、問題がすっと理解できる」というものだった。かれはそれを早速真似して、授業に挑んだ。その結果はひどいもので、前よりもずっとわからなくなった。かれはこう結論づけていた。「天才のマネをすべきではない」

友人がほんとうのことを伝えたのかどうかはわからないわけだが、こう考えてみてはどうだろうか。「数学が得意な友人」は、自分が普段やっている努力を、誰でもやっている当たり前のことだと思っていて、勉強とは思っていなかった。だからかれには、「頭をからっぽにすればいい」という的外れの説明しかできなかった。

私の知る第一線のひとびとは、クマが水を飲むように本を読み、常軌を逸した大量の作業を毎日ふつうにこなしている。しかしそれはかれらにとって苦痛ではない。それは自然なことで、あたりまえのことだ。かれらに「どうしたらそんなにがんばれるんですか」と聞いてみればよい。頭をからっぽにすればきみにもできるよ、という回答が返ってくるだろう。

努力ということばが本来意味する姿勢とは、そういうあたりまえのことをどれだけ持つか、ということだ。

才能は努力しない。なぜならそれは日常だからである。

2011-11-15

アニメーションの現代

先日、G+で「アニメーション」についての話になり、私は回答を留保した。それについて書いてみたい。

アニメーションについて何か言う時には、政治的な配慮をしなければならない。もちろん、これは実際の投票や政党の話ではなく、その発言がどのように受容されるか、自分の立ち位置を示さなければならない、程度の意味だ。特にいまのように、アニメーションがありとあらゆる場に浸透し、愛されている時代では、そうした配慮をしていかなければならない。

私は、一応、もの書き、ということになっている。そう呼ばれているし、そう自認している。文学が何かはわからないが、そうした系譜に連なる書き手だという自覚はある。そしてそれが、いま忘れ去られ、読者が減少し、滅びつつあるジャンルであるという認識でいる。それは構造的なもので、個人がそれを変えることはできない。

アニメーション、漫画、ゲーム、そしてその発展系としてのライトノベルの圧倒的な浸透を見ていて、そしてそれが批評の存在しない世界でただ愛されていることを横目に見ていて、複雑な感情を抱かない書き手はいないと思う。それは苛立ちとしてもあらわれるし、ある時には一方的な侮蔑としてあらわれている。よくある光景だ。

人気があるもの、影響力があるものを馬鹿にし、軽侮することは、専門性の高い職業に特有の傾向で、それをやめることはむずかしい。それはたとえば村上春樹の話題をすることを忌避する傾向にも見られるし、アニメーションに携わる批評家や作家を「存在しない」と見なす空気にもあらわれている。そしてこの「壁」は、もう個人には越えられないほど大きくなってしまった。

そして書き手はますますストイックになり、高度に専門的で閉鎖的な空間に閉じこもるようになり、その外では、圧倒的多数のひとびとが、毎日のように大量生産され、愛されるアニメーション作品を楽しんでいる。そこには大きな断絶があるが、これは、私が子供の頃にはなかったものだ。いつの間にか切り離されてしまった。たとえば、伝統芸能化した歌舞伎や能の価値は、今後も残り続けるだろう。ただそれが一般社会に影響力を持ちうることはない、このことを受け入れることからはじめなければならない。

表現のジャンルの間につくられた壁のことを見ていて、それがたとえばそれぞれの個と個の間にできた断絶、ひとりひとりが切り離され、連帯を失ってきたこの二十年間の流れと、無関係ではないことに気がつく。おそらく、ここには共通する原因がある。まずこの透明な壁の存在、それが堅固かつ壊れないものであることを知らしめねばならない、と思う。いいかえれば、それは、私たちがどれほど孤独になりつつあるか、そういうシンプルなことを、あらためて書いていくことだ。

楽しいことはまずしいことだ。その空しさに取り組むためには、残念ながら、そうした楽しさに背を向けなければならないだろう。しかしそれは批評家の仕事ではなく、小説家の仕事だ。いいかえれば、いま生きている人間について書ける作家にしか、いま私たちが閉じこめられている場所をあきらかにすることなどできるはずがないということだ。

それは誰にも理解されない仕事になるだろう。古い人間のつまらない懐古主義、と捉えられる危険が伴うだろう。だが考える、ということは、古いものを受け継ぐということなのだ。それは傍目には眠っているようにしか見えないのかもしれない。その侮蔑を受け入れようと思う。どちらにしろ、私たちはひとりぼっちなのだから。

2011-11-10

ことばの時差

つねに、間違えてから気がつく。この遅れをどうすることもできない。ひとはそれぞれ個別の壁、何よりも越えたいものをもっている。そしてそれを形成したプライベートな動機をもっている。それは「できなかったこと」を、できることに変えるためにひとが持つものだ。しかし、できなかったことは取り戻せない。私たちがたたかうべきものは、この遅れだ。

子供の頃、英語がほとんどわからない状態で国際校に転入した時、A氏というドイツ系アメリカ人の担任と親しくなった。A先生は、英語支援クラスという、あちらではESLと呼ばれる、英語を母国語としない外国人子女を教えるクラスの担任だった。もっとも、こちらは英語どころか、日本語すらままならない状態だ。学業は困難を極めた。

先生のクラスに一年ほど在籍した頃、何とか、日常会話が成立するようになった。そのとき、先生がドイツに帰国するという話を聞いた。放課後、職員室近くのロビーでそれを先生から聞いた時、私は驚いてことばを失った。そして、特に何も言えないまま、先生と別れた。そのときの自分の焦燥、ことばが出ないことの苛立ちを、よく憶えている。

先生がドイツに帰国してから、思った。もし、外国語をきちんとマスターできていれば、先生に何かことばをかけられたのではないか。単なる感謝のことばではなく、自分の、自分にしか言えぬことばで、何かを伝えることができたのではないか、と思った。その日から、私にとって、外国語を学ぶことは、単なる学業以上のもの、何があっても越えなければならない壁となった。

後になってから、気がついたこともある。それは、私が当時流暢に英語を喋れていたとしても、おそらく、私は、伝え損なったのではないか、ということだ。私が失敗したのは、外国語を十分に使えなかったからではない。たとえ、相手が日本語を解する日本人教師であったとしても、私は、おそらく言えなかっただろう。伝えることはできなかっただろう。越えるべき壁は、別にあった。

失ってから気付くことは、まさにその喪失を経なければ立ち現れない。ここに矛盾がある。これを努力や意志の力で越えることはできない。たとえば、家族、子供のかけがえのなさを知る契機は、それをないがしろにし、軽侮し、捨て去ったものにしか与えられない。しかしそれを、失っていないひとびとに説明することなどできるはずもない。いや、違う。たとえわかっていても、事前にそれを知ることはできないのだ。

2011-11-02

おもしろきことのない世

皿を洗うと手許が狂い、シンクに落として砕いてしまう。破片で指から血が流れ、コンロではカレーが焦げている。

ベランダに出て空を眺めると、いつものように晴れている。この夏から秋にかけて、このベランダは私の指定席だった。反対側の団地の住民の目には、さぞかし奇異に映っていることだろう、と思いながら煙を宙へ吐き出す。空を、鳥が舞っている。おもしろきことのない世、と思う。家の中で付けっぱなしになっている、誰も見ないテレビ画面からは、福島原発が再臨界した、というニュースが流れてきている。それはきわめてどうでもよいニュースのように思えた。

財布の中の小銭をかき集めると、ちょうど410円だった。空っぽになった財布を手の中でもてあそびながら、夜道をひとりで歩いて自宅へと戻る。節電はいつまでも続いている。女子供にとっては、出歩きにくい街になった。男の私でも、夜の闇には恐怖をおぼえることがある。もちろん、一番こわいのは、そこに住む暴力をふるうひとびとであることは間違いなかった。道を、ゆっくりと警察署の車が走っていく。座席に、顔見知りの警官が座っている。私が会釈すると、かれも目で返した。

先日の某雑誌主催のパーティであったひとびとに手紙を書いた。ワードの原稿を印刷し、編集長宛の手紙を同封して、切手を貼る。友人から届いていた手紙を、十日間も読まずに放置していた。そのお詫びの手紙を書かなければならない。万年筆の調子はいい。そういえば、先日、子供に会ってから、元妻からの連絡はない。おそらく、二度と会わせるつもりはないのだろう。それは予想済みだった。子供に買ったプログラムの本は、活用されているだろうか。そのことを思い、唇の端を笑みのかたちに歪める。

窓から見える外の夜空に、多くの星がまたたいている。携帯で女へメールを書いた。送信せずに削除して、TwitterやG+の画面を眺める。ネットは相変わらず乾いている。誰とでもつながるネットの茫漠とした孤独に、いつか誰もが耐えられなくなる日がくるだろう。その延命のために、ありとあらゆるWebサービスが退屈しのぎとして製作されている。私の仕事は、その日をやがては迎えるひとびとのためのものだ。窓際で振り返ると、暗闇のなかでMacのディスプレイが輝いている。おもしろくないもの、目を背けたくなるもの。ことばを与えなければならない。そこで待つ私自身へ。

2011-11-01

楽観的ノート

現代は、ひととひとがつながりやすい、それは事実だろうか。
―好きなもの、近しいもの同士で、コミュニティを作っていくと他者に対する想像力がなくなるという批判もありますが。

じゃあ昔は逆にあったんですか?と聞きたいですね。昔だって企業戦士は、その会社のコミュニティがすべてだったわけですし、専業主婦は子どもの通う学校のPTAとかが、その人の社会のすべてだったかもしれない。それが可視化されただけにように思うんです。
逆に、今の方が想像力は広がりやすくなってると思います。本来であれば、つながりえなかったマイナーな趣味の人同士で集まるというのは、現代の方がはるかに容易です。人と人は、昔よりもずっと、つながりやすくなっています。

若者はもっと「自己中」になって社会を変えろ——「絶望の国の幸福な若者たち」古市憲寿インタビュー

この著者と同世代のひとびとと話していて、たとえば「人と人は、昔よりもずっと、つながりやすくなっています」という楽観的な見方に、しばしば驚くことがある。

彼らは、まったく文字通りの意味で、ひとがつながりやすくなった、と、何の迷いもなくそう信じているのだ。

この楽観は、何だろうか。

そこには、たとえば私との十年の世代間格差がある、と単純に書いてみてもよい。
より具体的には、インターネットの登場以前に成人したか、していないか。そこにまず大きな断絶があるように思われる。

つながり、とは何だろうか。

それは、Facebook、Twitter、G+で、夕食の内容を写真でアップロードし、美味しかったと書くことだろうか。
「おはようございます」と投稿し、それに何十ものリプライがつく光景を、微笑みながら眺めることだろうか。
自分の悩みを吐き出して、それを顔も知らず、ほんとうの名前も知らない他人に慰めてもらうことだろうか。

つながり、とは利便性だろうか。

それは、つるつるとした板のような携帯電話を用いて、近くにいるらしき誰かと一緒に夕食をとることだろうか。
GoogleやWikipediaを用いて、親切な第三者が蓄積した知識を用いて、はてしない議論をすることだろうか。
出会い系サイトやSNSを用いて、一晩をともにする女や男を探すことだろうか。

そのどれもが、砂漠のように乾いている。
昔と比べて、失われているものがあるとすれば、それは手応えのある持続的な関係性だ。
昔よりもつながりやすくなったことが、ひととひとの間に、大きな距離をもたらしている。

もちろん、「ほんとうのつながり」が昔はあったのか、という問いは不毛だ。
そんなものはどこにもなかった、と上の著者のようにうそぶきたくもなる。

インターネットによって変わった社会の利便性があきらかにしてしまったのは、まさにそのつながることの難しさだ。
ひとはどんどんばらばらにさせられ、関係性は希薄になり、つながりはどんどん薄められていく。

人生において、人に愛されたことがないものは、いかにひとりぼっちであったとしても、自分が孤独であるということを知り得ない。
世代間格差とは、つまりそのようなものである。
いくらことばをつくしたところで、それを伝える方法などない。

昔はよかったね、と微笑みながら生きる楽観的な人生があってもよい。
しかし、けして取り戻せないもののために、たたかわなければいけないときもあるのである。

2011-10-30

ブロゴスフィアの死

ブロゴスフィアが死んだとするならば、それはかつて生きていたのか。そういう問いをG+でもらった。

生きている、ということを、仮にひとびとがそれに熱狂し、その可能性を信じ、何かしら新しいことが始まるような予感を抱きながら読みふけることと定義し、そしてそれには一定以上の数、つまり、アクセスと社会的影響力が伴うと考えた時、たしかに、ブログには生きていた短い時間があった。

具体的には、それは2005年から2008年ぐらいの短い時期だったように感じる。そしてこの見解には統計的根拠はない。なぜなら場の空気とは、そのように主体的にしか感受できないもので、数値化を拒むものだからだ。

当時、ブログを書いていたものたちが共有していた理念には、いくつかのポイントがあったように思われる。

ひとつ、ブログは匿名の人間が書くものであること。
ひとつ、ブログは告発のために用いられるものであること。
ひとつ、ブログは公共のために書かれるものであること。

なぜ匿名でなければならないか、の答はあきらかだった。多くの一般的な書き手は、そもそも実生活において何ら力を行使できる存在ではなかった。そして彼らは顔をさらして告発する勇気を持ち得なかったからだ。

そして、この社会のアンフェアネス、不平等を告発するときのみ、匿名性という「卑怯さ」は公共のものとして機能したのだ。

それが多くの読み手からも受け入れられたのは、多くのひとびとが、その個別の現実の中で、踏みつけられ、苦しめられ、この社会のさまざまな軋轢の中で、くるしみ、かなしみ、いかりを覚えていたからだった。

何も大上段に構える必要はない。恋愛、職場、結婚、生活……この社会にはありとあらゆる不公平があふれている。しかもそれをどうすることもできない。それは誰にとっても身近なもので、いまもそれは何もかわっていない。

話を戻そう。

ブログの時代が終焉したのは、ブログの中から、その影響力を利用し、自らの個人的な利益のために動こうとしたひとびとがいたからである。それはあるかたちでは商業主義になり、あるかたちではデマゴーグになって現れた。

ブログはやがて単なる、「自分の不幸」を語るだけの場になり、読者は離れていき、新しい場へと移動していった。

匿名であったひとびとは、匿名であり続けるべきだった。

告発のフェアネスが失われたのは、たとえば組織に所属した瞬間、そのひとは告発者である資格を失い、「ご指導ご鞭撻をお願いします」と、いう社交辞令のみを口にするようになってしまうからだ。

ブログの匿名性は、「ほんとうのこと」を書ける場をもたらした。

それは、顔のある個人として組織やコミュニティに属してしまえば、けして得られることのない、不自由の中での自由だった、と断定してしまってよいだろう。

もちろん、ある場が陳腐化し、劣化し、その可能性が潰えること自体は、ありふれたことだ。

ひとは顔をもっていても告発することができる。
もちろん、それは、けしてありふれたことではない。

ブログの死が教えてくれることは、ネットで繋がっているはずの私たちが、どうしようもなくひとりぼっちであるということ、そして、そのたたかいを支えてくれるものは、ディスプレイのあちら側にいる、匿名のひとびとではないということである。

場は必ず滅ぶ。
だから私たちは、この巨大な墓碑の前で、自らの顔を取り戻さなければならない。

2011-10-29

強姦者の相貌

高橋源一郎氏が、鶴見俊輔の以下のようなことばを紹介している。
君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。
男には、自分より肉体的に弱いものに暴力をふるい、その身体を自由にする能力が、予め備わっている。
このことを考える時、男は不愉快にならざるを得ない。

強姦について考えるということは、自分は果たして人間なのか、それとも、それ以外の何かなのか、とみずからに問うことだ。

それはまた、自分の知りあいの女を強姦できるかどうか、そう問うことに等しい。

公衆の面前で、「自分は、強姦ができる人間である」と言う男はいない。
「下半身がなければ、ひとは自分を神だと信じ込むことができた」などとうそぶくことが、この世に生きる処世術であるのかもしれない。

男同士の会話というのは、しばしば買春に関するものであることが多い。
それはもちろん、自慢話として語られる。
しかし、その中でもタブーであるのは、女にふるったことのある暴力の来歴である。

しばしば、男というものは、自分は暴力など振るわない、と主張する。
まるでそうしないことが、努力や意志で可能であるかのような言い方である。

男は暴力をふるうことができる生き物であり、強姦者であるほかない。

性に対する強迫的な衝動を抑えられないからこそ、社会のありとあらゆる場所に、女の裸が貼り付けられてあるのである。
社会が提供した安全弁だけでは抑えられないからこそ、きょうもどこかで虐待が、強姦が、暴行が行われているのである。

それはありふれた光景であり、それを見るのに努力を必要としない。

だから私たちは、まず告白することから始めなければならない。

暴力が楽しいことを。
暴力をふるいながらそれを笑えることを。
暴力をあめ玉のように味わえることを。
そして暴力がきわめて男らしいものであることを。

強姦者はみずからの横顔をさらしているかもしれない。
しかしその反対側の顔を見ることはできない。

なぜならそれは、つねに、どのような場においても、注意深く隠されているからである。

2011-10-21

すれちがうものたち

娘の合唱コンクールの受付で、教師らしき女に挨拶をする。その態度の冷たさに、自分が置かれている立場の微妙さを感じながら、二階の保護者席へと向かった。保護者か、と、思いながら、わき上がる違和感を噛み殺す。久々に着たスーツは、まったく似合っていないように感じられた。頭にタオル、胸にエプロンを巻き、フライパンを磨いている主夫姿のほうが、ずっと自分らしい、と思う。すれちがう母親たちに会釈をする。顔に貼り付けた笑顔を、崩さないようにしなければならない。母親たちは、すぐに私から離れていく。子供が歌う舞台には、笑顔がふさわしいはずだった。

郊外の道は、どこも広かった。やや冷たさが混じる風が吹き、森の梢を揺らし、土埃をまき散らしていた。タンクローリーが、歩道をゆく私を通り過ぎていく。娘のクラスは、優秀賞を勝ち取っていた。拍手をしながら、席で立ち上がって娘の姿を探した。見つからなかった。なぜか、おめでとうと伝えることが、できないような気がした。伝えるべきことを、タイミングを逃し、そして伝えられたときには、すでに遅すぎるのだ。娘と別れ、ひとりで歩いて家まで帰ることになったのは、娘が、学校の用意したバスでクラスメイトと一緒に戻っていったからだった。たばこを探した。しかしパッケージは空だった。

結婚を申込みながら、もの書きとは結婚できない、という理由で別れた女と、明日会うことになっている。窓の側でたばこを吸いながら、母親にメールを打つ。一緒に児童相談所に足を運んでから、私だけが東京へと旅立つ手はずになっている。合唱祭、よかったよ、とメールを書くと、きっと、うれしかったでしょうね、と返事があった。そんなはずはない、とふいに思い、腹立たしくなる。携帯を机の上に放り投げ、床に寝転がって天井を眺める。ほんとうの娘ではない子供たちのために、やることは山積みだった。女に書いた手紙は捨てた。そしてそのことに何の感慨も持てない自分に気がつき、少し笑った。

2011-10-19

風景(4)

床の上に残飯が散らばり、ゴミが散乱し、その隙間を虫が這い回る小さな部屋で、Aは苛立っていた。

ゴミ捨て場から無断でもってきた机の上に置かれたPCは、その部屋でゆいいつ光を放っている。Aは悪態をつきながら壁を蹴り、手許にあったペットボトルを床へ投げつける。ネットの有名人を殺したい、そうAが掲示板へ書き込んだのに、それが誰からも無視されたからだった。なぜ誰もかまってくれないのか、なぜ自分は無視されるのか、なぜ自分は無なのか、腹立たしくて仕方がなかった。机に拳を叩き付けると、薄い壁がぶるぶると震える。あちら側にいるらしき両親は、静かだった。怒ることもなく、声を上げることもない。まるでAが存在しないかのように、はじめからいなかったかのように振るまっていた。それも、たまらなく不愉快だった。

外は、奇妙なまでに静かだった。夜になれば、誰しもが寝静まる。週末になると走り回るバイクは、Aの嫌悪の対象だった。一度、窓から瓶をを投げつけたことがある。もちろん、空き瓶は彼らには届かず、家の真下にある物置の天井に砕け散った。近所に住む身寄りの無い老人が警察へと通報し、家にも警官がやってきたが、Aは無視した。親が何とかしてくれる、と思った。そして実際にその通りになった。Aは、自分の部屋では王様だった。ネットのあちら側には、Aが望むものすべてが揃っていた。某有名大学に通っているSという男が、Aの架空のペルソナだった。

Mixiで、Twitterで、G+で、Aはその架空の人格を用いて、ひとびとと楽しい交流を行っていた。空気を読まずに、くだらないコメントをしてくる連中は、サブアカウントを使って荒らしてやった。慌てて日記を非公開にしたり、コメントを削除して逃亡する人間をみて、Aはディスプレイの前で笑い声をあげ、彼らを嘲笑して溜飲を下げた。実際に会える友達は、すでにいなくなっていた。携帯はあったが、バッテリを外し、ベッドの下に放り投げてあった。誰かから連絡があったのかもしれない。しかしそれに出ることには耐えられなかった。一番不愉快だったのは、心配顔をして電話をかけてくる自称友人だったからだ。

ゴミ箱の中で、先日食べたバナナが腐っていた。ネットは快適だった。どんなにきれい事を書いても、自分のいるこの小さく汚い部屋を明かす必要はなかった。どんな惨めな服をきて、どんな汚い格好をして、どんな髪型をしていても、一度うつくしく輝くディスプレイとキーボードを通せば、それはすべて浄化され、まるで自分がなにがしかの人間になれたかのような幻想を味わうことができた。快適だった。格好のいい自分、学歴のある自分、お金をもっていて、週末はどこかに女の子と遊びにいく自分、そのどれもがあめ玉のように甘いつくりごとだった。ほんとうは、無職なんだろ、という匿名のコメントに耐えられなかったのは、それを嘘だと見抜かれたような気がしたからだった。

サブアカウントで荒らすだけでは怒りを抑えることができず、XXは死ね、俺が殺す、と掲示板へ書き込んだ。ネット・リテラシーが高いと自認する、ネットの王であるAにとって、それが自暴自棄で無謀な行為であることはわかっていた。だが、耐えられなかった。何かにこの苛立ちを、誰かにこのいかりを、どこかにいる無関係な第三者を、めちゃくちゃに傷つけてやらなければ、どうしてもおさまらなかった。なんで、自分には何もないんだ、なんで、自分はここにいるんだ、俺のそばには誰もいない、俺のことを誰もわかってくれない、どうしてだ、なんでだ、なぜ俺はここにいなけりゃならないんだ。Aはうめいた。死ね、みんな死ね、とAはつぶやいた。俺を見ないお前達は、みんな死ねばいい、そう思った。Aが部屋でひとりで笑うと、部屋が一緒に笑ったような気がした。

2011-10-15

平凡な秋の一日

気がつけば朝がきていた。六時に起きて、まずすることは決まって洗い物だった。淀んだ水に浸かった食器を洗い、沈んでいる生ゴミを手で掴んで捨てる。汚れを拭き取り、それから朝食の準備をするのだった。一息ついてベランダに出ると、そこには巨大な木が立ちつくし、その梢には色が変わり始めた木の葉が生い茂っていた。もう、秋を通り越して冬だった。少し前、私はこのベランダで汗と泥にまみれ、セミの叫び声を聞きながら床を磨いていた。戦いは、一時的に終わったのだ、と思う。「平和とは、戦争と戦争の間の、短い期間のことである」と、言ったある軍人のことばが頭をよぎる。

健康福祉祭、という、市が開催している催しものに足を運んだ。認知症、身体障害者、児童虐待、それぞれの対処法、自助への方策、虐待の予防法を記したパンフレットをもらい、それを読む。外では、雨がぱらぱらと降り続けていた。会館裏の広場では、障害者の家族たちが集まり、フリーマーケットを開いていた。ダウン症のこどもたちが売り子をしている店に行き、そこでヒーターを見つけて買った。子供たちは、笑顔だった。母親も笑顔だった。空を見上げると、灰色の雲が広がっていた。なぜか、腹立たしかった。こどもを守る母親が、まさにその思いが故に暴力を振るう、その構図が耐えがたかった。

郊外の空は、いつでも澄み渡っていた。車を走らせると、そこにはヤコブのはしごと呼ばれる、雲の切れ目から落ちる光の柱が地面に斜めに突き刺さっていた。どこにも行くことができないまま、ひとに暴力をふるい、自分の身体を傷つけ、窃盗を繰り返す子供たちの姿を目の当たりにして、車の中で動けなくなるとき、窓の外に見えるものは、どこまでも静謐で、まるで何もかもが赦されているような気がした。警察への電話も、出頭も、任意の聞き取りも、叱責も、いつかそのはしごを昇るという事実の前では、些細なことのように思えた。かなしみといかりの大きさは、愛の大きさに比例すると思いたかった。しかしそれが嘘であることを、私はよく知っている。

夜、窓の外から、大きな爆発の音が響いてきて、部屋の壁を揺らした。窓に向かうと、街の彼方に、巨大な光の輪がみえた。かすかに雨が降る天候の中、季節外れの花火大会が決行されたのだ、と思う。窓の側に立ったまま、娘の住む近くの家に電話をする。誰も出なかった。もちろん、誰もいないことはわかっていた。電話を十回鳴らして、携帯を切る。花火は、繰り返しあがっていった。空が火を噴くように燃え上がり、雲を炎が切り裂いていた。それは花火というよりも、航空機によって爆撃され、燃え上がる街の上に広がる、戦いの狼煙のようにもみえた。ちいさな家族のなかでも、戦いは続いていた。火は燃え続けていた。ひとが焼かれていた。棟の住民が上げる歓声が聞こえる。思わず、耳をふさいだ。

2011-10-14

風景(3)

窓のない部屋。あらゆる場所に繋がる窓をもたらしたPCとネットの爆発的な普及によって、世界は一見、より平等になり、様々な価値体系がフラットになり、ひとはより自由になったかのようにみえた。違った言い方をすれば、世界は様々な意味で、より幸福な場所にみえた。その偽の幸福を支える理念は、ひとはもう孤独ではないという錯誤だった。時間と空間を越えて誰とでも即時的なやりとりをすることを可能にしたネットの掲示板、チャット、IRC、メッセンジャーといったシステムが、ひととひととの間に横たわっていた絶望的な距離を、まるで埋めたかのような錯覚をもたらした。もちろん、そのフィクションがもたらしたものは、ひとのさらなる孤独でしかなかった。

情報と名付けられた、それ自体なにも意味しない無価値な差異が、貴重なものであるかのように祭り上げられ、値札がつけられ、それが疫病のように世界中を覆い尽くしていった。否応なしにその中に組み込まれた個人は、こころの動き、理性、倫理などが屠殺され、解体され、ばらばらになり、それがコピー&ペーストによって増殖していくネットの中で、お互いを真に理解するすべを少しずつ失っていった。ネットの誘惑とは、つまり会ったことのない他人を理解するすべをもたらし、ネットのあちら側には、貌を持たないたくさんの友人がいると信じさせる、巨大な詐術にほかならなかった。偽りの交流が、そもそもひととひととの間にある断絶という痛みを隠蔽し、その痛みを半永久的に和らげることに成功した。この麻薬生成システムこそがインターネットの姿であり、こういってよければ、まさにこれは二十世紀最大の発明だった。

こうして、私たちは窓のない部屋に閉じこめられる。窓からは、うつくしい風景が見えると信じ込み、ひとりぼっちの部屋のただ中で、作り物の人形を相手に、いつまでも独り言を語り続けられるような、薄ら寒い生活を送らざるを得なくなったのだ。しかし私たちは、これをいやいや受け入れたのではない。いや、むしろ感動の涙にむせびながら、インターネットがもたらした、愚かで、偉大で、貧しい新世界を、ひざまずいてうやうやしく受け入れたのである。私たちの密かな不幸は、こうして始まった。この動きを、誰にも止めることはできない。なぜならひとは嘘を求める生き物であり、苛烈な真実よりも、粉砂糖をまぶした嘘八百を、何よりも必要としているからである。

ひとの生きる諸条件はなにひとつ変わらなかった。何ひとつ変えられなかった。かつての技術大国であり、先進国であり、G8の一角であるところの私たちの国の現状を鑑みれば、貧困と差別は隠微なかたちで至るところに蔓延し、しかもそれを私たちは困難として認識することすらできず、テンプレート化した「格差社会」や「リテラシー」などのわかりやすいタームについてのみ、ブログやTwitterを通して毎日数分ずつ考え、すぐにそれを忘れる、という便利な精神にとらわれているのである。ひとの幸せと充足を踏みにじるものの恐ろしさを、私たちは今日ついに見ることができなくなった。ネットはもはや麻薬である。

2011-10-13

風景(2)

何一つ信頼できる情報がないネットでは、噂はすでに真実だった。人に対する根拠のない誹謗中傷は、誰かによって削除されることもなく、いつまでも澱のようにその海を漂い続け、真実と非真実のはざまに存在しながらも、それを読むひと、その流布に参加したひとを、いつまでも損ね続けていた。誰かのほら話がまことしとやかに広まっていく中で、事実であるところの出来事は損ねられ、失われていった。幾億千万の独立した端末によって構成され、駆動されるネットにおいて、絶対的な管理者は存在しえず、広まった事象の修正や訂正は偶然の手に任せられた。

みずからを呑み込んでいく蛇のように、逃げ場のない自閉を繰り返しながら、死ぬ事が許されないネット。それはことばによって構成される世界だった。ネットが誕生したときに送信されたわずか数バイトの文字列は、誕生から数十年たったいま、石ころから銀河の大きさまで爆発的に増殖し、現実世界の隙間を埋め尽くしている。貌のないネットでは悪意、憎悪、嫌悪が増幅され、純化され、結晶化され、まるで目に見えることのない公害の毒のように、ひとのこころにしみわたっていった。情報化社会、という無害な化粧が施され、それがもたらした閉塞感は忘れさられた。

それはまた、あらゆるひとを取り込む球体にも似ていた。その壁の内側に立てば、どこまでも平板で無味乾燥な白く清潔な壁が広がっているようにも見えた。そこではあらゆるひと、国家、民族、経済、政治が均質化され、誰しもが平等な権利を与えられているかのようにみえた。後ろを向けば、そこには国境のあちら側のひとびとがいた。いつでも手をとりあうことができるかのように思えた。優れた通信装置としての役割を持つネットの利便性が、その夢物語をさらに補強する役割を果たしていた。その結果、私たちの間の距離はさらに広がり、分断され、疎外されていった。

ネットという出口のない部屋。現実において、私たちは自由を制限され、相対的に貧しくなり、無能な政治家たちに統治され、この社会の貧しく狭苦しい現実のなかで生きることを強いられた。社会がネットによって豊かになった、そこには絆があり私たちは繋がっている、という絵空事と、偽りのブラザーフッドにすがるしかなかった。それは入ることはできても出ることが許されない巨大な部屋のようだった。部屋には窓がなく、本物の窓の代用品として、壁に貼り付けられたまがいものの窓枠には、どこか遠い国の、美しい映像がいつまでも表示され続けていた。

あらゆる場所へ繋がっている。どこにでも行ける。窓に映るものを見ていれば、そう信じることさえできた。そうした夢をついに実現したネットを構成する端末のほとんどにインストールされたOSの名前がWindowsであるという皮肉を、私たちはもう笑うことすらできない。ネットは、ひとを縛り付け、他者から隔絶し、孤立させ、ひとりぼっちにするために作られた、巨大な詐欺システムだという事実が、私たちがほんとうに生きるということを、どこまでも踏みにじっていた。

2011-10-09

風景(1)

のっぺりとした、無個性なディスプレイに映し出されるインターネットの掲示板があった。

次々に新しい投稿が書き込まれるその場所には、貌のない数多くの匿名のひとびとが集まり、終わりのない無駄話に興じていた。ネットのあちら側、PCの前に座ってそれを見ているとされる、何千、何万を越えるひとびとは、声を使わず、相手の貌を知り得ないまま、指先のごくわずかな動きだけを用いて、キーボードで文字を入力し、当たり障りのない会話を行っているように見えたが、実のところ、そのほとんどはモノローグに過ぎなかった。

ことばを交わしている相手が、現実に存在しているのかどうか、それは意味を持たない問いだった。私の、ひとびとのしていることは、まるで真っ白な壁に向かって、自分だけが理解できる文字をひたすら刻み込んでゆく、そうした孤独な営為のようにも見えた。

街に、空に、網の目のように張り巡らされた通信回線を通して繋がっている幾千万、幾億の端末によって構成されるネットの中で、多くの人が集いながらも、とても孤独な掲示板に、何かの事件のようにぽつりと置かれた殺害予告があった。床に無造作に置かれた剥き身のナイフのようなその宣言は、その場の住民にとって、むろん真面目に受け取られるべきものではなかったし、そこに書かれた内容を信じるものは、いつものように誰もいなかった。

ネット・リテラシーという横文字が意味するものは、ネットに書かれた事象があらゆる意味で無価値であり、ノイズであり、悪口雑言に充ち満ちた空間でしかないという、開き直りにも似た世界認識であり、そしてそのドグマに基づき、そこに存在する一切を信じないという、積極的かつ後ろ向きな、ニヒリズムの姿勢のことだった。

その啓示に基づけば、たとえば犯行予告の一般的な解読は、ネットの掲示板でしか強がることのできない、さみしく、よわく、おさない人間の独り言以外のなにものでもないということを、ネットに生きるひとびとのすべてが理解していたと推察することは容易だった。また誰かが気まぐれで警察に通報すれば、度が過ぎる悪ふざけを書き込んだ個人は、そのうちどこかで書類送検されるであろうという、何一つ驚くことのない、日常的な光景が広がっているだけだということも、自明のことであった。

その晩、掲示板にリアルタイムで参加していたひとびとが見つけたそのポストは、あらゆる新聞、週刊誌などといった紙媒体からコピー&ペーストされた記事のテキストを、どこかにいるネットユーザーたちの無償の善意の結実として、全文無料で読むことができる場にあった。インターネットに神がいるとするならば、神はまずすべてを無料にせよ、と言ったことは疑いようがなく、国内外のニュースが満遍なく貼り付けられているその場所で、その住民が自由気ままに、言論の自由というスローガンに守られながら、自由闊達に感想を述べることが、世界に突如現れたユートピアであるネットの適切な楽しみ方であったことは間違いようのない事実だった。

犯行予告は、その会話の流れを断ち切るようにして、どこかの誰かの手によって書き込まれていた。もちろん、語尾に(笑)や「w」をつけることが、会話のマナーであり、礼儀作法であり、たしなみであると見なされる場において、そのような宣言は書き込みは住民から嘲笑され、馬鹿にされ、ネタとしてひとしきり愛された後、忘れ去られる運命にあった。

2011-10-07

想像力ゼロの時代・再

想像力の欠如が、この社会を覆い尽くしている。
現在妊娠7ヶ月で、会社勤めをしています。
時間短縮で働いていますが、通勤電車は座れないことが多く優先席でマタニティマークを付けていても譲ってもらえないことも多いです。
今日も座れず立っていたら、近くに立っていた女性が優先席に座っていた方に「譲ってあげてもらえますか?」と言ってくれて、譲っていただけました。(中略)
今まで、妊婦だからと言って譲ってもらうのは心苦しいし譲ってもらえなくても仕方ないと思っていたのですが、この頃お腹も出てきて立っているのは危ないので譲っていただけるようお願いしてみようかなと思ったのです。

via 生活・身近な話題 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
そしてそれに対する応答は、「辛いなら電車に乗るのを辞めろ」や「自分が努力すべき」の合唱であった。
もちろん、これはよくあるネットの風景である。

この事例を取り上げて、いまの日本の社会では、子供を持つことは無理だろう、と結論づけることもできるし、またこうした悪意だらけの空間において、肉体的な弱者がどのような嘲笑・冷笑を浴びているか、そうした現実に絶望するポーズをとって、所詮この社会はこのようなもの、とニヒリズムに走ることもまた容易である。

しかし一番恐るべきなのは、このような悪意を発する人々が、そのことばの持つ暴力にまったく無自覚なことである。

こうしたひとびとは、子供であり、ひとを傷つけることの重さ、痛み、そのとりかえしのつかなさを、うまれてから一度も学ぶ機会を得なかったひとびとである。むろん、そこには社会的にはすでに成年した「大人」も含まれる。

たとえば、G+でもTwitterでも、訃報に接したとき、不幸なニュースに接したとき、そこには必ずそれを嘲笑する投稿が行われる。それはしばしば「w」や「笑」を伴い、書き込んだ本人とまったく無関係な他人の苦しみを、彼ら=私たちがエンターテイメントとして楽しめることをあきらかにしている。

ここで、さらに問わなければならない。われわれは、無関係な他人の苦しみを、楽しむことができる生き物なのか。

こたえは残念ながら是である。私たちは、身近なものにしか同情したり、共感したりすることができないのである。目の前に血を流して苦しんでいるものがいてはじめて、痛そうだな、かわいそうだな、なんとかしてあげたいな、という衝動を持つことが可能になるものなのである。

そうした真実のひとつが、ひとから想像力と距離をうばうネットによって、さらに醜く露呈している、というのが、2011年、私たちが生きるこの社会である。

遠くの誰かのことなど、現実のしがらみの中に捕らわれた私たち生活者にとって、余計な出来事である。
ひとの不幸を揶揄して、一時的にその場を盛り上げ、弱者を馬鹿にして楽しむことは、良質のエンターテイメントである。

しかし、その現実を、私たちは黙って耐えるべきか。

もはや耐えられないではないか。いつまで続くのか、この想像力の欠如した、弱者のことを顧みない、自分たちだけが正義で、それ以外のすべての人間が間違っているかのような、傲慢で、尊大で、腐敗しきった精神の蔓延を、私たちは許せるのか、許すべきなのか。

こうした光景に耐えられない、と思うひとびとは、すでに沈黙している。
自分たちが踏みにじっているもの、それを自覚する想像力なしに、私たちが人間らしさを取り戻せないことは自明である。

どうしたらよいか、と問うてはならない。なぜならこたえはないからだ。
こうしたひとびとをネットもろとも焼き尽くしたいと思うとき、私たちは自らの足元に火をつけているからである。

想像することから始めなければならない。
貌と、来歴と、個性と、それぞれの困難な人生を抱えた人間がいること。

匿名の人間など存在しない。私たちは、そんなシンプルなことを、いまこの瞬間に、なによりも重く考えなければならない時代に生きているのである。