2011-10-30

ブロゴスフィアの死

ブロゴスフィアが死んだとするならば、それはかつて生きていたのか。そういう問いをG+でもらった。

生きている、ということを、仮にひとびとがそれに熱狂し、その可能性を信じ、何かしら新しいことが始まるような予感を抱きながら読みふけることと定義し、そしてそれには一定以上の数、つまり、アクセスと社会的影響力が伴うと考えた時、たしかに、ブログには生きていた短い時間があった。

具体的には、それは2005年から2008年ぐらいの短い時期だったように感じる。そしてこの見解には統計的根拠はない。なぜなら場の空気とは、そのように主体的にしか感受できないもので、数値化を拒むものだからだ。

当時、ブログを書いていたものたちが共有していた理念には、いくつかのポイントがあったように思われる。

ひとつ、ブログは匿名の人間が書くものであること。
ひとつ、ブログは告発のために用いられるものであること。
ひとつ、ブログは公共のために書かれるものであること。

なぜ匿名でなければならないか、の答はあきらかだった。多くの一般的な書き手は、そもそも実生活において何ら力を行使できる存在ではなかった。そして彼らは顔をさらして告発する勇気を持ち得なかったからだ。

そして、この社会のアンフェアネス、不平等を告発するときのみ、匿名性という「卑怯さ」は公共のものとして機能したのだ。

それが多くの読み手からも受け入れられたのは、多くのひとびとが、その個別の現実の中で、踏みつけられ、苦しめられ、この社会のさまざまな軋轢の中で、くるしみ、かなしみ、いかりを覚えていたからだった。

何も大上段に構える必要はない。恋愛、職場、結婚、生活……この社会にはありとあらゆる不公平があふれている。しかもそれをどうすることもできない。それは誰にとっても身近なもので、いまもそれは何もかわっていない。

話を戻そう。

ブログの時代が終焉したのは、ブログの中から、その影響力を利用し、自らの個人的な利益のために動こうとしたひとびとがいたからである。それはあるかたちでは商業主義になり、あるかたちではデマゴーグになって現れた。

ブログはやがて単なる、「自分の不幸」を語るだけの場になり、読者は離れていき、新しい場へと移動していった。

匿名であったひとびとは、匿名であり続けるべきだった。

告発のフェアネスが失われたのは、たとえば組織に所属した瞬間、そのひとは告発者である資格を失い、「ご指導ご鞭撻をお願いします」と、いう社交辞令のみを口にするようになってしまうからだ。

ブログの匿名性は、「ほんとうのこと」を書ける場をもたらした。

それは、顔のある個人として組織やコミュニティに属してしまえば、けして得られることのない、不自由の中での自由だった、と断定してしまってよいだろう。

もちろん、ある場が陳腐化し、劣化し、その可能性が潰えること自体は、ありふれたことだ。

ひとは顔をもっていても告発することができる。
もちろん、それは、けしてありふれたことではない。

ブログの死が教えてくれることは、ネットで繋がっているはずの私たちが、どうしようもなくひとりぼっちであるということ、そして、そのたたかいを支えてくれるものは、ディスプレイのあちら側にいる、匿名のひとびとではないということである。

場は必ず滅ぶ。
だから私たちは、この巨大な墓碑の前で、自らの顔を取り戻さなければならない。

2011-10-29

強姦者の相貌

高橋源一郎氏が、鶴見俊輔の以下のようなことばを紹介している。
君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。
男には、自分より肉体的に弱いものに暴力をふるい、その身体を自由にする能力が、予め備わっている。
このことを考える時、男は不愉快にならざるを得ない。

強姦について考えるということは、自分は果たして人間なのか、それとも、それ以外の何かなのか、とみずからに問うことだ。

それはまた、自分の知りあいの女を強姦できるかどうか、そう問うことに等しい。

公衆の面前で、「自分は、強姦ができる人間である」と言う男はいない。
「下半身がなければ、ひとは自分を神だと信じ込むことができた」などとうそぶくことが、この世に生きる処世術であるのかもしれない。

男同士の会話というのは、しばしば買春に関するものであることが多い。
それはもちろん、自慢話として語られる。
しかし、その中でもタブーであるのは、女にふるったことのある暴力の来歴である。

しばしば、男というものは、自分は暴力など振るわない、と主張する。
まるでそうしないことが、努力や意志で可能であるかのような言い方である。

男は暴力をふるうことができる生き物であり、強姦者であるほかない。

性に対する強迫的な衝動を抑えられないからこそ、社会のありとあらゆる場所に、女の裸が貼り付けられてあるのである。
社会が提供した安全弁だけでは抑えられないからこそ、きょうもどこかで虐待が、強姦が、暴行が行われているのである。

それはありふれた光景であり、それを見るのに努力を必要としない。

だから私たちは、まず告白することから始めなければならない。

暴力が楽しいことを。
暴力をふるいながらそれを笑えることを。
暴力をあめ玉のように味わえることを。
そして暴力がきわめて男らしいものであることを。

強姦者はみずからの横顔をさらしているかもしれない。
しかしその反対側の顔を見ることはできない。

なぜならそれは、つねに、どのような場においても、注意深く隠されているからである。

2011-10-21

すれちがうものたち

娘の合唱コンクールの受付で、教師らしき女に挨拶をする。その態度の冷たさに、自分が置かれている立場の微妙さを感じながら、二階の保護者席へと向かった。保護者か、と、思いながら、わき上がる違和感を噛み殺す。久々に着たスーツは、まったく似合っていないように感じられた。頭にタオル、胸にエプロンを巻き、フライパンを磨いている主夫姿のほうが、ずっと自分らしい、と思う。すれちがう母親たちに会釈をする。顔に貼り付けた笑顔を、崩さないようにしなければならない。母親たちは、すぐに私から離れていく。子供が歌う舞台には、笑顔がふさわしいはずだった。

郊外の道は、どこも広かった。やや冷たさが混じる風が吹き、森の梢を揺らし、土埃をまき散らしていた。タンクローリーが、歩道をゆく私を通り過ぎていく。娘のクラスは、優秀賞を勝ち取っていた。拍手をしながら、席で立ち上がって娘の姿を探した。見つからなかった。なぜか、おめでとうと伝えることが、できないような気がした。伝えるべきことを、タイミングを逃し、そして伝えられたときには、すでに遅すぎるのだ。娘と別れ、ひとりで歩いて家まで帰ることになったのは、娘が、学校の用意したバスでクラスメイトと一緒に戻っていったからだった。たばこを探した。しかしパッケージは空だった。

結婚を申込みながら、もの書きとは結婚できない、という理由で別れた女と、明日会うことになっている。窓の側でたばこを吸いながら、母親にメールを打つ。一緒に児童相談所に足を運んでから、私だけが東京へと旅立つ手はずになっている。合唱祭、よかったよ、とメールを書くと、きっと、うれしかったでしょうね、と返事があった。そんなはずはない、とふいに思い、腹立たしくなる。携帯を机の上に放り投げ、床に寝転がって天井を眺める。ほんとうの娘ではない子供たちのために、やることは山積みだった。女に書いた手紙は捨てた。そしてそのことに何の感慨も持てない自分に気がつき、少し笑った。

2011-10-19

風景(4)

床の上に残飯が散らばり、ゴミが散乱し、その隙間を虫が這い回る小さな部屋で、Aは苛立っていた。

ゴミ捨て場から無断でもってきた机の上に置かれたPCは、その部屋でゆいいつ光を放っている。Aは悪態をつきながら壁を蹴り、手許にあったペットボトルを床へ投げつける。ネットの有名人を殺したい、そうAが掲示板へ書き込んだのに、それが誰からも無視されたからだった。なぜ誰もかまってくれないのか、なぜ自分は無視されるのか、なぜ自分は無なのか、腹立たしくて仕方がなかった。机に拳を叩き付けると、薄い壁がぶるぶると震える。あちら側にいるらしき両親は、静かだった。怒ることもなく、声を上げることもない。まるでAが存在しないかのように、はじめからいなかったかのように振るまっていた。それも、たまらなく不愉快だった。

外は、奇妙なまでに静かだった。夜になれば、誰しもが寝静まる。週末になると走り回るバイクは、Aの嫌悪の対象だった。一度、窓から瓶をを投げつけたことがある。もちろん、空き瓶は彼らには届かず、家の真下にある物置の天井に砕け散った。近所に住む身寄りの無い老人が警察へと通報し、家にも警官がやってきたが、Aは無視した。親が何とかしてくれる、と思った。そして実際にその通りになった。Aは、自分の部屋では王様だった。ネットのあちら側には、Aが望むものすべてが揃っていた。某有名大学に通っているSという男が、Aの架空のペルソナだった。

Mixiで、Twitterで、G+で、Aはその架空の人格を用いて、ひとびとと楽しい交流を行っていた。空気を読まずに、くだらないコメントをしてくる連中は、サブアカウントを使って荒らしてやった。慌てて日記を非公開にしたり、コメントを削除して逃亡する人間をみて、Aはディスプレイの前で笑い声をあげ、彼らを嘲笑して溜飲を下げた。実際に会える友達は、すでにいなくなっていた。携帯はあったが、バッテリを外し、ベッドの下に放り投げてあった。誰かから連絡があったのかもしれない。しかしそれに出ることには耐えられなかった。一番不愉快だったのは、心配顔をして電話をかけてくる自称友人だったからだ。

ゴミ箱の中で、先日食べたバナナが腐っていた。ネットは快適だった。どんなにきれい事を書いても、自分のいるこの小さく汚い部屋を明かす必要はなかった。どんな惨めな服をきて、どんな汚い格好をして、どんな髪型をしていても、一度うつくしく輝くディスプレイとキーボードを通せば、それはすべて浄化され、まるで自分がなにがしかの人間になれたかのような幻想を味わうことができた。快適だった。格好のいい自分、学歴のある自分、お金をもっていて、週末はどこかに女の子と遊びにいく自分、そのどれもがあめ玉のように甘いつくりごとだった。ほんとうは、無職なんだろ、という匿名のコメントに耐えられなかったのは、それを嘘だと見抜かれたような気がしたからだった。

サブアカウントで荒らすだけでは怒りを抑えることができず、XXは死ね、俺が殺す、と掲示板へ書き込んだ。ネット・リテラシーが高いと自認する、ネットの王であるAにとって、それが自暴自棄で無謀な行為であることはわかっていた。だが、耐えられなかった。何かにこの苛立ちを、誰かにこのいかりを、どこかにいる無関係な第三者を、めちゃくちゃに傷つけてやらなければ、どうしてもおさまらなかった。なんで、自分には何もないんだ、なんで、自分はここにいるんだ、俺のそばには誰もいない、俺のことを誰もわかってくれない、どうしてだ、なんでだ、なぜ俺はここにいなけりゃならないんだ。Aはうめいた。死ね、みんな死ね、とAはつぶやいた。俺を見ないお前達は、みんな死ねばいい、そう思った。Aが部屋でひとりで笑うと、部屋が一緒に笑ったような気がした。

2011-10-15

平凡な秋の一日

気がつけば朝がきていた。六時に起きて、まずすることは決まって洗い物だった。淀んだ水に浸かった食器を洗い、沈んでいる生ゴミを手で掴んで捨てる。汚れを拭き取り、それから朝食の準備をするのだった。一息ついてベランダに出ると、そこには巨大な木が立ちつくし、その梢には色が変わり始めた木の葉が生い茂っていた。もう、秋を通り越して冬だった。少し前、私はこのベランダで汗と泥にまみれ、セミの叫び声を聞きながら床を磨いていた。戦いは、一時的に終わったのだ、と思う。「平和とは、戦争と戦争の間の、短い期間のことである」と、言ったある軍人のことばが頭をよぎる。

健康福祉祭、という、市が開催している催しものに足を運んだ。認知症、身体障害者、児童虐待、それぞれの対処法、自助への方策、虐待の予防法を記したパンフレットをもらい、それを読む。外では、雨がぱらぱらと降り続けていた。会館裏の広場では、障害者の家族たちが集まり、フリーマーケットを開いていた。ダウン症のこどもたちが売り子をしている店に行き、そこでヒーターを見つけて買った。子供たちは、笑顔だった。母親も笑顔だった。空を見上げると、灰色の雲が広がっていた。なぜか、腹立たしかった。こどもを守る母親が、まさにその思いが故に暴力を振るう、その構図が耐えがたかった。

郊外の空は、いつでも澄み渡っていた。車を走らせると、そこにはヤコブのはしごと呼ばれる、雲の切れ目から落ちる光の柱が地面に斜めに突き刺さっていた。どこにも行くことができないまま、ひとに暴力をふるい、自分の身体を傷つけ、窃盗を繰り返す子供たちの姿を目の当たりにして、車の中で動けなくなるとき、窓の外に見えるものは、どこまでも静謐で、まるで何もかもが赦されているような気がした。警察への電話も、出頭も、任意の聞き取りも、叱責も、いつかそのはしごを昇るという事実の前では、些細なことのように思えた。かなしみといかりの大きさは、愛の大きさに比例すると思いたかった。しかしそれが嘘であることを、私はよく知っている。

夜、窓の外から、大きな爆発の音が響いてきて、部屋の壁を揺らした。窓に向かうと、街の彼方に、巨大な光の輪がみえた。かすかに雨が降る天候の中、季節外れの花火大会が決行されたのだ、と思う。窓の側に立ったまま、娘の住む近くの家に電話をする。誰も出なかった。もちろん、誰もいないことはわかっていた。電話を十回鳴らして、携帯を切る。花火は、繰り返しあがっていった。空が火を噴くように燃え上がり、雲を炎が切り裂いていた。それは花火というよりも、航空機によって爆撃され、燃え上がる街の上に広がる、戦いの狼煙のようにもみえた。ちいさな家族のなかでも、戦いは続いていた。火は燃え続けていた。ひとが焼かれていた。棟の住民が上げる歓声が聞こえる。思わず、耳をふさいだ。

2011-10-14

風景(3)

窓のない部屋。あらゆる場所に繋がる窓をもたらしたPCとネットの爆発的な普及によって、世界は一見、より平等になり、様々な価値体系がフラットになり、ひとはより自由になったかのようにみえた。違った言い方をすれば、世界は様々な意味で、より幸福な場所にみえた。その偽の幸福を支える理念は、ひとはもう孤独ではないという錯誤だった。時間と空間を越えて誰とでも即時的なやりとりをすることを可能にしたネットの掲示板、チャット、IRC、メッセンジャーといったシステムが、ひととひととの間に横たわっていた絶望的な距離を、まるで埋めたかのような錯覚をもたらした。もちろん、そのフィクションがもたらしたものは、ひとのさらなる孤独でしかなかった。

情報と名付けられた、それ自体なにも意味しない無価値な差異が、貴重なものであるかのように祭り上げられ、値札がつけられ、それが疫病のように世界中を覆い尽くしていった。否応なしにその中に組み込まれた個人は、こころの動き、理性、倫理などが屠殺され、解体され、ばらばらになり、それがコピー&ペーストによって増殖していくネットの中で、お互いを真に理解するすべを少しずつ失っていった。ネットの誘惑とは、つまり会ったことのない他人を理解するすべをもたらし、ネットのあちら側には、貌を持たないたくさんの友人がいると信じさせる、巨大な詐術にほかならなかった。偽りの交流が、そもそもひととひととの間にある断絶という痛みを隠蔽し、その痛みを半永久的に和らげることに成功した。この麻薬生成システムこそがインターネットの姿であり、こういってよければ、まさにこれは二十世紀最大の発明だった。

こうして、私たちは窓のない部屋に閉じこめられる。窓からは、うつくしい風景が見えると信じ込み、ひとりぼっちの部屋のただ中で、作り物の人形を相手に、いつまでも独り言を語り続けられるような、薄ら寒い生活を送らざるを得なくなったのだ。しかし私たちは、これをいやいや受け入れたのではない。いや、むしろ感動の涙にむせびながら、インターネットがもたらした、愚かで、偉大で、貧しい新世界を、ひざまずいてうやうやしく受け入れたのである。私たちの密かな不幸は、こうして始まった。この動きを、誰にも止めることはできない。なぜならひとは嘘を求める生き物であり、苛烈な真実よりも、粉砂糖をまぶした嘘八百を、何よりも必要としているからである。

ひとの生きる諸条件はなにひとつ変わらなかった。何ひとつ変えられなかった。かつての技術大国であり、先進国であり、G8の一角であるところの私たちの国の現状を鑑みれば、貧困と差別は隠微なかたちで至るところに蔓延し、しかもそれを私たちは困難として認識することすらできず、テンプレート化した「格差社会」や「リテラシー」などのわかりやすいタームについてのみ、ブログやTwitterを通して毎日数分ずつ考え、すぐにそれを忘れる、という便利な精神にとらわれているのである。ひとの幸せと充足を踏みにじるものの恐ろしさを、私たちは今日ついに見ることができなくなった。ネットはもはや麻薬である。

2011-10-13

風景(2)

何一つ信頼できる情報がないネットでは、噂はすでに真実だった。人に対する根拠のない誹謗中傷は、誰かによって削除されることもなく、いつまでも澱のようにその海を漂い続け、真実と非真実のはざまに存在しながらも、それを読むひと、その流布に参加したひとを、いつまでも損ね続けていた。誰かのほら話がまことしとやかに広まっていく中で、事実であるところの出来事は損ねられ、失われていった。幾億千万の独立した端末によって構成され、駆動されるネットにおいて、絶対的な管理者は存在しえず、広まった事象の修正や訂正は偶然の手に任せられた。

みずからを呑み込んでいく蛇のように、逃げ場のない自閉を繰り返しながら、死ぬ事が許されないネット。それはことばによって構成される世界だった。ネットが誕生したときに送信されたわずか数バイトの文字列は、誕生から数十年たったいま、石ころから銀河の大きさまで爆発的に増殖し、現実世界の隙間を埋め尽くしている。貌のないネットでは悪意、憎悪、嫌悪が増幅され、純化され、結晶化され、まるで目に見えることのない公害の毒のように、ひとのこころにしみわたっていった。情報化社会、という無害な化粧が施され、それがもたらした閉塞感は忘れさられた。

それはまた、あらゆるひとを取り込む球体にも似ていた。その壁の内側に立てば、どこまでも平板で無味乾燥な白く清潔な壁が広がっているようにも見えた。そこではあらゆるひと、国家、民族、経済、政治が均質化され、誰しもが平等な権利を与えられているかのようにみえた。後ろを向けば、そこには国境のあちら側のひとびとがいた。いつでも手をとりあうことができるかのように思えた。優れた通信装置としての役割を持つネットの利便性が、その夢物語をさらに補強する役割を果たしていた。その結果、私たちの間の距離はさらに広がり、分断され、疎外されていった。

ネットという出口のない部屋。現実において、私たちは自由を制限され、相対的に貧しくなり、無能な政治家たちに統治され、この社会の貧しく狭苦しい現実のなかで生きることを強いられた。社会がネットによって豊かになった、そこには絆があり私たちは繋がっている、という絵空事と、偽りのブラザーフッドにすがるしかなかった。それは入ることはできても出ることが許されない巨大な部屋のようだった。部屋には窓がなく、本物の窓の代用品として、壁に貼り付けられたまがいものの窓枠には、どこか遠い国の、美しい映像がいつまでも表示され続けていた。

あらゆる場所へ繋がっている。どこにでも行ける。窓に映るものを見ていれば、そう信じることさえできた。そうした夢をついに実現したネットを構成する端末のほとんどにインストールされたOSの名前がWindowsであるという皮肉を、私たちはもう笑うことすらできない。ネットは、ひとを縛り付け、他者から隔絶し、孤立させ、ひとりぼっちにするために作られた、巨大な詐欺システムだという事実が、私たちがほんとうに生きるということを、どこまでも踏みにじっていた。

2011-10-09

風景(1)

のっぺりとした、無個性なディスプレイに映し出されるインターネットの掲示板があった。

次々に新しい投稿が書き込まれるその場所には、貌のない数多くの匿名のひとびとが集まり、終わりのない無駄話に興じていた。ネットのあちら側、PCの前に座ってそれを見ているとされる、何千、何万を越えるひとびとは、声を使わず、相手の貌を知り得ないまま、指先のごくわずかな動きだけを用いて、キーボードで文字を入力し、当たり障りのない会話を行っているように見えたが、実のところ、そのほとんどはモノローグに過ぎなかった。

ことばを交わしている相手が、現実に存在しているのかどうか、それは意味を持たない問いだった。私の、ひとびとのしていることは、まるで真っ白な壁に向かって、自分だけが理解できる文字をひたすら刻み込んでゆく、そうした孤独な営為のようにも見えた。

街に、空に、網の目のように張り巡らされた通信回線を通して繋がっている幾千万、幾億の端末によって構成されるネットの中で、多くの人が集いながらも、とても孤独な掲示板に、何かの事件のようにぽつりと置かれた殺害予告があった。床に無造作に置かれた剥き身のナイフのようなその宣言は、その場の住民にとって、むろん真面目に受け取られるべきものではなかったし、そこに書かれた内容を信じるものは、いつものように誰もいなかった。

ネット・リテラシーという横文字が意味するものは、ネットに書かれた事象があらゆる意味で無価値であり、ノイズであり、悪口雑言に充ち満ちた空間でしかないという、開き直りにも似た世界認識であり、そしてそのドグマに基づき、そこに存在する一切を信じないという、積極的かつ後ろ向きな、ニヒリズムの姿勢のことだった。

その啓示に基づけば、たとえば犯行予告の一般的な解読は、ネットの掲示板でしか強がることのできない、さみしく、よわく、おさない人間の独り言以外のなにものでもないということを、ネットに生きるひとびとのすべてが理解していたと推察することは容易だった。また誰かが気まぐれで警察に通報すれば、度が過ぎる悪ふざけを書き込んだ個人は、そのうちどこかで書類送検されるであろうという、何一つ驚くことのない、日常的な光景が広がっているだけだということも、自明のことであった。

その晩、掲示板にリアルタイムで参加していたひとびとが見つけたそのポストは、あらゆる新聞、週刊誌などといった紙媒体からコピー&ペーストされた記事のテキストを、どこかにいるネットユーザーたちの無償の善意の結実として、全文無料で読むことができる場にあった。インターネットに神がいるとするならば、神はまずすべてを無料にせよ、と言ったことは疑いようがなく、国内外のニュースが満遍なく貼り付けられているその場所で、その住民が自由気ままに、言論の自由というスローガンに守られながら、自由闊達に感想を述べることが、世界に突如現れたユートピアであるネットの適切な楽しみ方であったことは間違いようのない事実だった。

犯行予告は、その会話の流れを断ち切るようにして、どこかの誰かの手によって書き込まれていた。もちろん、語尾に(笑)や「w」をつけることが、会話のマナーであり、礼儀作法であり、たしなみであると見なされる場において、そのような宣言は書き込みは住民から嘲笑され、馬鹿にされ、ネタとしてひとしきり愛された後、忘れ去られる運命にあった。

2011-10-07

想像力ゼロの時代・再

想像力の欠如が、この社会を覆い尽くしている。
現在妊娠7ヶ月で、会社勤めをしています。
時間短縮で働いていますが、通勤電車は座れないことが多く優先席でマタニティマークを付けていても譲ってもらえないことも多いです。
今日も座れず立っていたら、近くに立っていた女性が優先席に座っていた方に「譲ってあげてもらえますか?」と言ってくれて、譲っていただけました。(中略)
今まで、妊婦だからと言って譲ってもらうのは心苦しいし譲ってもらえなくても仕方ないと思っていたのですが、この頃お腹も出てきて立っているのは危ないので譲っていただけるようお願いしてみようかなと思ったのです。

via 生活・身近な話題 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
そしてそれに対する応答は、「辛いなら電車に乗るのを辞めろ」や「自分が努力すべき」の合唱であった。
もちろん、これはよくあるネットの風景である。

この事例を取り上げて、いまの日本の社会では、子供を持つことは無理だろう、と結論づけることもできるし、またこうした悪意だらけの空間において、肉体的な弱者がどのような嘲笑・冷笑を浴びているか、そうした現実に絶望するポーズをとって、所詮この社会はこのようなもの、とニヒリズムに走ることもまた容易である。

しかし一番恐るべきなのは、このような悪意を発する人々が、そのことばの持つ暴力にまったく無自覚なことである。

こうしたひとびとは、子供であり、ひとを傷つけることの重さ、痛み、そのとりかえしのつかなさを、うまれてから一度も学ぶ機会を得なかったひとびとである。むろん、そこには社会的にはすでに成年した「大人」も含まれる。

たとえば、G+でもTwitterでも、訃報に接したとき、不幸なニュースに接したとき、そこには必ずそれを嘲笑する投稿が行われる。それはしばしば「w」や「笑」を伴い、書き込んだ本人とまったく無関係な他人の苦しみを、彼ら=私たちがエンターテイメントとして楽しめることをあきらかにしている。

ここで、さらに問わなければならない。われわれは、無関係な他人の苦しみを、楽しむことができる生き物なのか。

こたえは残念ながら是である。私たちは、身近なものにしか同情したり、共感したりすることができないのである。目の前に血を流して苦しんでいるものがいてはじめて、痛そうだな、かわいそうだな、なんとかしてあげたいな、という衝動を持つことが可能になるものなのである。

そうした真実のひとつが、ひとから想像力と距離をうばうネットによって、さらに醜く露呈している、というのが、2011年、私たちが生きるこの社会である。

遠くの誰かのことなど、現実のしがらみの中に捕らわれた私たち生活者にとって、余計な出来事である。
ひとの不幸を揶揄して、一時的にその場を盛り上げ、弱者を馬鹿にして楽しむことは、良質のエンターテイメントである。

しかし、その現実を、私たちは黙って耐えるべきか。

もはや耐えられないではないか。いつまで続くのか、この想像力の欠如した、弱者のことを顧みない、自分たちだけが正義で、それ以外のすべての人間が間違っているかのような、傲慢で、尊大で、腐敗しきった精神の蔓延を、私たちは許せるのか、許すべきなのか。

こうした光景に耐えられない、と思うひとびとは、すでに沈黙している。
自分たちが踏みにじっているもの、それを自覚する想像力なしに、私たちが人間らしさを取り戻せないことは自明である。

どうしたらよいか、と問うてはならない。なぜならこたえはないからだ。
こうしたひとびとをネットもろとも焼き尽くしたいと思うとき、私たちは自らの足元に火をつけているからである。

想像することから始めなければならない。
貌と、来歴と、個性と、それぞれの困難な人生を抱えた人間がいること。

匿名の人間など存在しない。私たちは、そんなシンプルなことを、いまこの瞬間に、なによりも重く考えなければならない時代に生きているのである。