2011-10-07

想像力ゼロの時代・再

想像力の欠如が、この社会を覆い尽くしている。
現在妊娠7ヶ月で、会社勤めをしています。
時間短縮で働いていますが、通勤電車は座れないことが多く優先席でマタニティマークを付けていても譲ってもらえないことも多いです。
今日も座れず立っていたら、近くに立っていた女性が優先席に座っていた方に「譲ってあげてもらえますか?」と言ってくれて、譲っていただけました。(中略)
今まで、妊婦だからと言って譲ってもらうのは心苦しいし譲ってもらえなくても仕方ないと思っていたのですが、この頃お腹も出てきて立っているのは危ないので譲っていただけるようお願いしてみようかなと思ったのです。

via 生活・身近な話題 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
そしてそれに対する応答は、「辛いなら電車に乗るのを辞めろ」や「自分が努力すべき」の合唱であった。
もちろん、これはよくあるネットの風景である。

この事例を取り上げて、いまの日本の社会では、子供を持つことは無理だろう、と結論づけることもできるし、またこうした悪意だらけの空間において、肉体的な弱者がどのような嘲笑・冷笑を浴びているか、そうした現実に絶望するポーズをとって、所詮この社会はこのようなもの、とニヒリズムに走ることもまた容易である。

しかし一番恐るべきなのは、このような悪意を発する人々が、そのことばの持つ暴力にまったく無自覚なことである。

こうしたひとびとは、子供であり、ひとを傷つけることの重さ、痛み、そのとりかえしのつかなさを、うまれてから一度も学ぶ機会を得なかったひとびとである。むろん、そこには社会的にはすでに成年した「大人」も含まれる。

たとえば、G+でもTwitterでも、訃報に接したとき、不幸なニュースに接したとき、そこには必ずそれを嘲笑する投稿が行われる。それはしばしば「w」や「笑」を伴い、書き込んだ本人とまったく無関係な他人の苦しみを、彼ら=私たちがエンターテイメントとして楽しめることをあきらかにしている。

ここで、さらに問わなければならない。われわれは、無関係な他人の苦しみを、楽しむことができる生き物なのか。

こたえは残念ながら是である。私たちは、身近なものにしか同情したり、共感したりすることができないのである。目の前に血を流して苦しんでいるものがいてはじめて、痛そうだな、かわいそうだな、なんとかしてあげたいな、という衝動を持つことが可能になるものなのである。

そうした真実のひとつが、ひとから想像力と距離をうばうネットによって、さらに醜く露呈している、というのが、2011年、私たちが生きるこの社会である。

遠くの誰かのことなど、現実のしがらみの中に捕らわれた私たち生活者にとって、余計な出来事である。
ひとの不幸を揶揄して、一時的にその場を盛り上げ、弱者を馬鹿にして楽しむことは、良質のエンターテイメントである。

しかし、その現実を、私たちは黙って耐えるべきか。

もはや耐えられないではないか。いつまで続くのか、この想像力の欠如した、弱者のことを顧みない、自分たちだけが正義で、それ以外のすべての人間が間違っているかのような、傲慢で、尊大で、腐敗しきった精神の蔓延を、私たちは許せるのか、許すべきなのか。

こうした光景に耐えられない、と思うひとびとは、すでに沈黙している。
自分たちが踏みにじっているもの、それを自覚する想像力なしに、私たちが人間らしさを取り戻せないことは自明である。

どうしたらよいか、と問うてはならない。なぜならこたえはないからだ。
こうしたひとびとをネットもろとも焼き尽くしたいと思うとき、私たちは自らの足元に火をつけているからである。

想像することから始めなければならない。
貌と、来歴と、個性と、それぞれの困難な人生を抱えた人間がいること。

匿名の人間など存在しない。私たちは、そんなシンプルなことを、いまこの瞬間に、なによりも重く考えなければならない時代に生きているのである。