2011-10-09

風景(1)

のっぺりとした、無個性なディスプレイに映し出されるインターネットの掲示板があった。

次々に新しい投稿が書き込まれるその場所には、貌のない数多くの匿名のひとびとが集まり、終わりのない無駄話に興じていた。ネットのあちら側、PCの前に座ってそれを見ているとされる、何千、何万を越えるひとびとは、声を使わず、相手の貌を知り得ないまま、指先のごくわずかな動きだけを用いて、キーボードで文字を入力し、当たり障りのない会話を行っているように見えたが、実のところ、そのほとんどはモノローグに過ぎなかった。

ことばを交わしている相手が、現実に存在しているのかどうか、それは意味を持たない問いだった。私の、ひとびとのしていることは、まるで真っ白な壁に向かって、自分だけが理解できる文字をひたすら刻み込んでゆく、そうした孤独な営為のようにも見えた。

街に、空に、網の目のように張り巡らされた通信回線を通して繋がっている幾千万、幾億の端末によって構成されるネットの中で、多くの人が集いながらも、とても孤独な掲示板に、何かの事件のようにぽつりと置かれた殺害予告があった。床に無造作に置かれた剥き身のナイフのようなその宣言は、その場の住民にとって、むろん真面目に受け取られるべきものではなかったし、そこに書かれた内容を信じるものは、いつものように誰もいなかった。

ネット・リテラシーという横文字が意味するものは、ネットに書かれた事象があらゆる意味で無価値であり、ノイズであり、悪口雑言に充ち満ちた空間でしかないという、開き直りにも似た世界認識であり、そしてそのドグマに基づき、そこに存在する一切を信じないという、積極的かつ後ろ向きな、ニヒリズムの姿勢のことだった。

その啓示に基づけば、たとえば犯行予告の一般的な解読は、ネットの掲示板でしか強がることのできない、さみしく、よわく、おさない人間の独り言以外のなにものでもないということを、ネットに生きるひとびとのすべてが理解していたと推察することは容易だった。また誰かが気まぐれで警察に通報すれば、度が過ぎる悪ふざけを書き込んだ個人は、そのうちどこかで書類送検されるであろうという、何一つ驚くことのない、日常的な光景が広がっているだけだということも、自明のことであった。

その晩、掲示板にリアルタイムで参加していたひとびとが見つけたそのポストは、あらゆる新聞、週刊誌などといった紙媒体からコピー&ペーストされた記事のテキストを、どこかにいるネットユーザーたちの無償の善意の結実として、全文無料で読むことができる場にあった。インターネットに神がいるとするならば、神はまずすべてを無料にせよ、と言ったことは疑いようがなく、国内外のニュースが満遍なく貼り付けられているその場所で、その住民が自由気ままに、言論の自由というスローガンに守られながら、自由闊達に感想を述べることが、世界に突如現れたユートピアであるネットの適切な楽しみ方であったことは間違いようのない事実だった。

犯行予告は、その会話の流れを断ち切るようにして、どこかの誰かの手によって書き込まれていた。もちろん、語尾に(笑)や「w」をつけることが、会話のマナーであり、礼儀作法であり、たしなみであると見なされる場において、そのような宣言は書き込みは住民から嘲笑され、馬鹿にされ、ネタとしてひとしきり愛された後、忘れ去られる運命にあった。