2011-10-13

風景(2)

何一つ信頼できる情報がないネットでは、噂はすでに真実だった。人に対する根拠のない誹謗中傷は、誰かによって削除されることもなく、いつまでも澱のようにその海を漂い続け、真実と非真実のはざまに存在しながらも、それを読むひと、その流布に参加したひとを、いつまでも損ね続けていた。誰かのほら話がまことしとやかに広まっていく中で、事実であるところの出来事は損ねられ、失われていった。幾億千万の独立した端末によって構成され、駆動されるネットにおいて、絶対的な管理者は存在しえず、広まった事象の修正や訂正は偶然の手に任せられた。

みずからを呑み込んでいく蛇のように、逃げ場のない自閉を繰り返しながら、死ぬ事が許されないネット。それはことばによって構成される世界だった。ネットが誕生したときに送信されたわずか数バイトの文字列は、誕生から数十年たったいま、石ころから銀河の大きさまで爆発的に増殖し、現実世界の隙間を埋め尽くしている。貌のないネットでは悪意、憎悪、嫌悪が増幅され、純化され、結晶化され、まるで目に見えることのない公害の毒のように、ひとのこころにしみわたっていった。情報化社会、という無害な化粧が施され、それがもたらした閉塞感は忘れさられた。

それはまた、あらゆるひとを取り込む球体にも似ていた。その壁の内側に立てば、どこまでも平板で無味乾燥な白く清潔な壁が広がっているようにも見えた。そこではあらゆるひと、国家、民族、経済、政治が均質化され、誰しもが平等な権利を与えられているかのようにみえた。後ろを向けば、そこには国境のあちら側のひとびとがいた。いつでも手をとりあうことができるかのように思えた。優れた通信装置としての役割を持つネットの利便性が、その夢物語をさらに補強する役割を果たしていた。その結果、私たちの間の距離はさらに広がり、分断され、疎外されていった。

ネットという出口のない部屋。現実において、私たちは自由を制限され、相対的に貧しくなり、無能な政治家たちに統治され、この社会の貧しく狭苦しい現実のなかで生きることを強いられた。社会がネットによって豊かになった、そこには絆があり私たちは繋がっている、という絵空事と、偽りのブラザーフッドにすがるしかなかった。それは入ることはできても出ることが許されない巨大な部屋のようだった。部屋には窓がなく、本物の窓の代用品として、壁に貼り付けられたまがいものの窓枠には、どこか遠い国の、美しい映像がいつまでも表示され続けていた。

あらゆる場所へ繋がっている。どこにでも行ける。窓に映るものを見ていれば、そう信じることさえできた。そうした夢をついに実現したネットを構成する端末のほとんどにインストールされたOSの名前がWindowsであるという皮肉を、私たちはもう笑うことすらできない。ネットは、ひとを縛り付け、他者から隔絶し、孤立させ、ひとりぼっちにするために作られた、巨大な詐欺システムだという事実が、私たちがほんとうに生きるということを、どこまでも踏みにじっていた。