2011-10-14

風景(3)

窓のない部屋。あらゆる場所に繋がる窓をもたらしたPCとネットの爆発的な普及によって、世界は一見、より平等になり、様々な価値体系がフラットになり、ひとはより自由になったかのようにみえた。違った言い方をすれば、世界は様々な意味で、より幸福な場所にみえた。その偽の幸福を支える理念は、ひとはもう孤独ではないという錯誤だった。時間と空間を越えて誰とでも即時的なやりとりをすることを可能にしたネットの掲示板、チャット、IRC、メッセンジャーといったシステムが、ひととひととの間に横たわっていた絶望的な距離を、まるで埋めたかのような錯覚をもたらした。もちろん、そのフィクションがもたらしたものは、ひとのさらなる孤独でしかなかった。

情報と名付けられた、それ自体なにも意味しない無価値な差異が、貴重なものであるかのように祭り上げられ、値札がつけられ、それが疫病のように世界中を覆い尽くしていった。否応なしにその中に組み込まれた個人は、こころの動き、理性、倫理などが屠殺され、解体され、ばらばらになり、それがコピー&ペーストによって増殖していくネットの中で、お互いを真に理解するすべを少しずつ失っていった。ネットの誘惑とは、つまり会ったことのない他人を理解するすべをもたらし、ネットのあちら側には、貌を持たないたくさんの友人がいると信じさせる、巨大な詐術にほかならなかった。偽りの交流が、そもそもひととひととの間にある断絶という痛みを隠蔽し、その痛みを半永久的に和らげることに成功した。この麻薬生成システムこそがインターネットの姿であり、こういってよければ、まさにこれは二十世紀最大の発明だった。

こうして、私たちは窓のない部屋に閉じこめられる。窓からは、うつくしい風景が見えると信じ込み、ひとりぼっちの部屋のただ中で、作り物の人形を相手に、いつまでも独り言を語り続けられるような、薄ら寒い生活を送らざるを得なくなったのだ。しかし私たちは、これをいやいや受け入れたのではない。いや、むしろ感動の涙にむせびながら、インターネットがもたらした、愚かで、偉大で、貧しい新世界を、ひざまずいてうやうやしく受け入れたのである。私たちの密かな不幸は、こうして始まった。この動きを、誰にも止めることはできない。なぜならひとは嘘を求める生き物であり、苛烈な真実よりも、粉砂糖をまぶした嘘八百を、何よりも必要としているからである。

ひとの生きる諸条件はなにひとつ変わらなかった。何ひとつ変えられなかった。かつての技術大国であり、先進国であり、G8の一角であるところの私たちの国の現状を鑑みれば、貧困と差別は隠微なかたちで至るところに蔓延し、しかもそれを私たちは困難として認識することすらできず、テンプレート化した「格差社会」や「リテラシー」などのわかりやすいタームについてのみ、ブログやTwitterを通して毎日数分ずつ考え、すぐにそれを忘れる、という便利な精神にとらわれているのである。ひとの幸せと充足を踏みにじるものの恐ろしさを、私たちは今日ついに見ることができなくなった。ネットはもはや麻薬である。