2011-10-29

強姦者の相貌

高橋源一郎氏が、鶴見俊輔の以下のようなことばを紹介している。
君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。
男には、自分より肉体的に弱いものに暴力をふるい、その身体を自由にする能力が、予め備わっている。
このことを考える時、男は不愉快にならざるを得ない。

強姦について考えるということは、自分は果たして人間なのか、それとも、それ以外の何かなのか、とみずからに問うことだ。

それはまた、自分の知りあいの女を強姦できるかどうか、そう問うことに等しい。

公衆の面前で、「自分は、強姦ができる人間である」と言う男はいない。
「下半身がなければ、ひとは自分を神だと信じ込むことができた」などとうそぶくことが、この世に生きる処世術であるのかもしれない。

男同士の会話というのは、しばしば買春に関するものであることが多い。
それはもちろん、自慢話として語られる。
しかし、その中でもタブーであるのは、女にふるったことのある暴力の来歴である。

しばしば、男というものは、自分は暴力など振るわない、と主張する。
まるでそうしないことが、努力や意志で可能であるかのような言い方である。

男は暴力をふるうことができる生き物であり、強姦者であるほかない。

性に対する強迫的な衝動を抑えられないからこそ、社会のありとあらゆる場所に、女の裸が貼り付けられてあるのである。
社会が提供した安全弁だけでは抑えられないからこそ、きょうもどこかで虐待が、強姦が、暴行が行われているのである。

それはありふれた光景であり、それを見るのに努力を必要としない。

だから私たちは、まず告白することから始めなければならない。

暴力が楽しいことを。
暴力をふるいながらそれを笑えることを。
暴力をあめ玉のように味わえることを。
そして暴力がきわめて男らしいものであることを。

強姦者はみずからの横顔をさらしているかもしれない。
しかしその反対側の顔を見ることはできない。

なぜならそれは、つねに、どのような場においても、注意深く隠されているからである。