2011-11-27

料理のできない男

子供時代を海外で過ごし、日本に帰国したのは十八歳の頃だった。その一部屋しかないアパートで、五年間ほど暮らした。一人がやっと立てる、小さな台所に加えて、一部屋だけがある住居だ。ただ、窓だけは大きかった。窓を開けると、目の前には隣の家のトタン屋根が見えた。そしてひしめき合う建物の隙間からは、近くを走る大通りを行き来する歩行者と車の喧騒が漏れてきていた。

古い二階建てのアパートは、全体的に水はけが悪かった。雨が降ると、道には大きな水たまりが残された。夜になると、銀色の街灯の光が、まるで星のように水面に映っていた。その狭い路上を、長靴を履いた子供らが通っていくのをよく見かけた。どこの子供だったのかはわからない。だが子供らは、いつも何かを歌いながら歩いていて、とても楽しそうに見えた。

窓から見る東京の空は、いつもどこか曇っているように感じられた。それは私が港街育ちだったせいもあるかもしれない。夜になると、どこかで雨が降っているような、そんな気がしていた。もっとも、単に記憶が修正されているだけかもしれない。よく思い出せない。憶えていることもある。のちに、私の妻になった女が部屋に遊びに来た夜も、やはり雨が降っていた。激しい雨だった。屋根が震えるほどの。

それは何度目のことだったのか。小さな台所の前で、私は夜食代わりのホットケーキを焼いていた。大粒のぬるい雨が、壁に、屋根に、扉に叩き付けられる音が響いてきていた。女は、本棚の前に座りこんで、毛布を身体に巻き付けて、窓の外を眺めていた。ガラスの表面に、いくつもの水流が出来ていた。多少の肌寒さがあった。私はフライパンの前で、火を眺めていた。女が何か、私に言ったような気がした。

いつか、あなたの育った国に、一緒に行ってみたいのよ。女は、そう言った。雨はあがっていた。静かだった。音がまるでなかった。女は、近くの駅まで送っていく、という私の反論を封じて、玄関で私に抱きついてきた。いいのよ、ここで、と女は言った。ケーキ、おいしかったよ、と女は言って、私の顔を見上げた。私は、女を抱きとめながら思った。それが、けして叶わぬ夢だと。二人で旅に行くことは、きっとできないだろうと。私は、腕に力を込めた。しかし、ことばはそこからこぼれ落ちていった。

料理、は、単なる趣味だった。実家に、誰も料理をする人間がいなかった。だから子供の頃から、ひとりで色々なレシピを試してきた。たいした腕ではない、と自覚していた。女に、料理を作るようになったのは、その自分の下手さを、笑ってほしかったからだ、といま思う。結婚をして、同居をするようになって、私はいつしか料理をしなくなった。なぜだかよくわからない。妻と息子に作らなかった料理を、いま、別の誰かのために作っている。料理のできる私は、じつに滑稽だと思う。そう考えながら、今日も皿を洗った。

2011-11-25

ネットが必要としているもの

インターネットのひとびとは皆とても親切だ。

東に間違いがあるとすぐに指摘をし。
西に犯罪があればすぐに通報をし。
南にうまいものがあれば写真をアップロードし。
北に知らないひとがいればWikipediaをソースに色々講釈をしてくれる。

誰の顔も善意でかがやいている。満面の笑顔だ。

そんなインターネットでは、みながおもしろい記事を紹介したがっている。
たとえばFacebookの「イイネ!」ボタン、Google+の「+1」ボタンは、そんな善意が形になったものだ。

誰もが気軽な共感を求めている。

「猫が可愛かった」
「このランチが美味しかった」
「今日の仕事がたいへんだった」

そんな書き込みに、多くの同意のレスが返される。
かわいいね、おいしそうだね、たいへんだったね。

インターネットがいま必要としているものは、そういう善意だ。

それは善意であるから、別に理解されなくともよい。
それは善意であるから、別に誤解されてもよい。
それは善意であるから、別に正しくなくともよい。
それは善意であるから、別に語られなくともよい。

私たちはネットで笑顔ですれちがう。
それはもう作り笑いではない。こころからの笑顔である。

しかしそもそも笑顔というのは、空っぽなものではなかったか。
親切で清潔なインターネットが教えてくれるのは、どこにもほんとうの笑顔などなかったということである。

その笑顔に感謝しなければならない。ここが、私たちの。

2011-11-16

日常的なもの

努力という日本語は、勤勉そのものを自己目的化したテーゼを潜ませた、危険なことばだ。それは結果を出すことよりもその過程そのものを重視する国民性と言ってよい。
「夢は必ずかなう」。そんな言葉をよく耳にします。「願えばかなう、だから夢を持ちなさい」というのは、1つの考え方としては理解できます。ただ現実の世界では、夢はいつもいつも、かなうものではありません。かなわない夢だってある。そんな現実を、子どもたちに早く教えた方がいいと思います。

弘兼憲史インタビュー(日本経済新聞Web版)
高校生の頃読んでいた山本七平の本に、いまでもたまに思い出す逸話がある。子供の頃、かれは数学がどうしても苦手だったそうだ。かれの友人に、数学がものすごく得意な生徒がいた。「どうしたら数学ができるようになるか」とかれは友人にたずねた。

友人の答は、「予習せず、頭をからっぽにして授業に出れば、問題がすっと理解できる」というものだった。かれはそれを早速真似して、授業に挑んだ。その結果はひどいもので、前よりもずっとわからなくなった。かれはこう結論づけていた。「天才のマネをすべきではない」

友人がほんとうのことを伝えたのかどうかはわからないわけだが、こう考えてみてはどうだろうか。「数学が得意な友人」は、自分が普段やっている努力を、誰でもやっている当たり前のことだと思っていて、勉強とは思っていなかった。だからかれには、「頭をからっぽにすればいい」という的外れの説明しかできなかった。

私の知る第一線のひとびとは、クマが水を飲むように本を読み、常軌を逸した大量の作業を毎日ふつうにこなしている。しかしそれはかれらにとって苦痛ではない。それは自然なことで、あたりまえのことだ。かれらに「どうしたらそんなにがんばれるんですか」と聞いてみればよい。頭をからっぽにすればきみにもできるよ、という回答が返ってくるだろう。

努力ということばが本来意味する姿勢とは、そういうあたりまえのことをどれだけ持つか、ということだ。

才能は努力しない。なぜならそれは日常だからである。

2011-11-15

アニメーションの現代

先日、G+で「アニメーション」についての話になり、私は回答を留保した。それについて書いてみたい。

アニメーションについて何か言う時には、政治的な配慮をしなければならない。もちろん、これは実際の投票や政党の話ではなく、その発言がどのように受容されるか、自分の立ち位置を示さなければならない、程度の意味だ。特にいまのように、アニメーションがありとあらゆる場に浸透し、愛されている時代では、そうした配慮をしていかなければならない。

私は、一応、もの書き、ということになっている。そう呼ばれているし、そう自認している。文学が何かはわからないが、そうした系譜に連なる書き手だという自覚はある。そしてそれが、いま忘れ去られ、読者が減少し、滅びつつあるジャンルであるという認識でいる。それは構造的なもので、個人がそれを変えることはできない。

アニメーション、漫画、ゲーム、そしてその発展系としてのライトノベルの圧倒的な浸透を見ていて、そしてそれが批評の存在しない世界でただ愛されていることを横目に見ていて、複雑な感情を抱かない書き手はいないと思う。それは苛立ちとしてもあらわれるし、ある時には一方的な侮蔑としてあらわれている。よくある光景だ。

人気があるもの、影響力があるものを馬鹿にし、軽侮することは、専門性の高い職業に特有の傾向で、それをやめることはむずかしい。それはたとえば村上春樹の話題をすることを忌避する傾向にも見られるし、アニメーションに携わる批評家や作家を「存在しない」と見なす空気にもあらわれている。そしてこの「壁」は、もう個人には越えられないほど大きくなってしまった。

そして書き手はますますストイックになり、高度に専門的で閉鎖的な空間に閉じこもるようになり、その外では、圧倒的多数のひとびとが、毎日のように大量生産され、愛されるアニメーション作品を楽しんでいる。そこには大きな断絶があるが、これは、私が子供の頃にはなかったものだ。いつの間にか切り離されてしまった。たとえば、伝統芸能化した歌舞伎や能の価値は、今後も残り続けるだろう。ただそれが一般社会に影響力を持ちうることはない、このことを受け入れることからはじめなければならない。

表現のジャンルの間につくられた壁のことを見ていて、それがたとえばそれぞれの個と個の間にできた断絶、ひとりひとりが切り離され、連帯を失ってきたこの二十年間の流れと、無関係ではないことに気がつく。おそらく、ここには共通する原因がある。まずこの透明な壁の存在、それが堅固かつ壊れないものであることを知らしめねばならない、と思う。いいかえれば、それは、私たちがどれほど孤独になりつつあるか、そういうシンプルなことを、あらためて書いていくことだ。

楽しいことはまずしいことだ。その空しさに取り組むためには、残念ながら、そうした楽しさに背を向けなければならないだろう。しかしそれは批評家の仕事ではなく、小説家の仕事だ。いいかえれば、いま生きている人間について書ける作家にしか、いま私たちが閉じこめられている場所をあきらかにすることなどできるはずがないということだ。

それは誰にも理解されない仕事になるだろう。古い人間のつまらない懐古主義、と捉えられる危険が伴うだろう。だが考える、ということは、古いものを受け継ぐということなのだ。それは傍目には眠っているようにしか見えないのかもしれない。その侮蔑を受け入れようと思う。どちらにしろ、私たちはひとりぼっちなのだから。

2011-11-10

ことばの時差

つねに、間違えてから気がつく。この遅れをどうすることもできない。ひとはそれぞれ個別の壁、何よりも越えたいものをもっている。そしてそれを形成したプライベートな動機をもっている。それは「できなかったこと」を、できることに変えるためにひとが持つものだ。しかし、できなかったことは取り戻せない。私たちがたたかうべきものは、この遅れだ。

子供の頃、英語がほとんどわからない状態で国際校に転入した時、A氏というドイツ系アメリカ人の担任と親しくなった。A先生は、英語支援クラスという、あちらではESLと呼ばれる、英語を母国語としない外国人子女を教えるクラスの担任だった。もっとも、こちらは英語どころか、日本語すらままならない状態だ。学業は困難を極めた。

先生のクラスに一年ほど在籍した頃、何とか、日常会話が成立するようになった。そのとき、先生がドイツに帰国するという話を聞いた。放課後、職員室近くのロビーでそれを先生から聞いた時、私は驚いてことばを失った。そして、特に何も言えないまま、先生と別れた。そのときの自分の焦燥、ことばが出ないことの苛立ちを、よく憶えている。

先生がドイツに帰国してから、思った。もし、外国語をきちんとマスターできていれば、先生に何かことばをかけられたのではないか。単なる感謝のことばではなく、自分の、自分にしか言えぬことばで、何かを伝えることができたのではないか、と思った。その日から、私にとって、外国語を学ぶことは、単なる学業以上のもの、何があっても越えなければならない壁となった。

後になってから、気がついたこともある。それは、私が当時流暢に英語を喋れていたとしても、おそらく、私は、伝え損なったのではないか、ということだ。私が失敗したのは、外国語を十分に使えなかったからではない。たとえ、相手が日本語を解する日本人教師であったとしても、私は、おそらく言えなかっただろう。伝えることはできなかっただろう。越えるべき壁は、別にあった。

失ってから気付くことは、まさにその喪失を経なければ立ち現れない。ここに矛盾がある。これを努力や意志の力で越えることはできない。たとえば、家族、子供のかけがえのなさを知る契機は、それをないがしろにし、軽侮し、捨て去ったものにしか与えられない。しかしそれを、失っていないひとびとに説明することなどできるはずもない。いや、違う。たとえわかっていても、事前にそれを知ることはできないのだ。

2011-11-02

おもしろきことのない世

皿を洗うと手許が狂い、シンクに落として砕いてしまう。破片で指から血が流れ、コンロではカレーが焦げている。

ベランダに出て空を眺めると、いつものように晴れている。この夏から秋にかけて、このベランダは私の指定席だった。反対側の団地の住民の目には、さぞかし奇異に映っていることだろう、と思いながら煙を宙へ吐き出す。空を、鳥が舞っている。おもしろきことのない世、と思う。家の中で付けっぱなしになっている、誰も見ないテレビ画面からは、福島原発が再臨界した、というニュースが流れてきている。それはきわめてどうでもよいニュースのように思えた。

財布の中の小銭をかき集めると、ちょうど410円だった。空っぽになった財布を手の中でもてあそびながら、夜道をひとりで歩いて自宅へと戻る。節電はいつまでも続いている。女子供にとっては、出歩きにくい街になった。男の私でも、夜の闇には恐怖をおぼえることがある。もちろん、一番こわいのは、そこに住む暴力をふるうひとびとであることは間違いなかった。道を、ゆっくりと警察署の車が走っていく。座席に、顔見知りの警官が座っている。私が会釈すると、かれも目で返した。

先日の某雑誌主催のパーティであったひとびとに手紙を書いた。ワードの原稿を印刷し、編集長宛の手紙を同封して、切手を貼る。友人から届いていた手紙を、十日間も読まずに放置していた。そのお詫びの手紙を書かなければならない。万年筆の調子はいい。そういえば、先日、子供に会ってから、元妻からの連絡はない。おそらく、二度と会わせるつもりはないのだろう。それは予想済みだった。子供に買ったプログラムの本は、活用されているだろうか。そのことを思い、唇の端を笑みのかたちに歪める。

窓から見える外の夜空に、多くの星がまたたいている。携帯で女へメールを書いた。送信せずに削除して、TwitterやG+の画面を眺める。ネットは相変わらず乾いている。誰とでもつながるネットの茫漠とした孤独に、いつか誰もが耐えられなくなる日がくるだろう。その延命のために、ありとあらゆるWebサービスが退屈しのぎとして製作されている。私の仕事は、その日をやがては迎えるひとびとのためのものだ。窓際で振り返ると、暗闇のなかでMacのディスプレイが輝いている。おもしろくないもの、目を背けたくなるもの。ことばを与えなければならない。そこで待つ私自身へ。

2011-11-01

楽観的ノート

現代は、ひととひとがつながりやすい、それは事実だろうか。
―好きなもの、近しいもの同士で、コミュニティを作っていくと他者に対する想像力がなくなるという批判もありますが。

じゃあ昔は逆にあったんですか?と聞きたいですね。昔だって企業戦士は、その会社のコミュニティがすべてだったわけですし、専業主婦は子どもの通う学校のPTAとかが、その人の社会のすべてだったかもしれない。それが可視化されただけにように思うんです。
逆に、今の方が想像力は広がりやすくなってると思います。本来であれば、つながりえなかったマイナーな趣味の人同士で集まるというのは、現代の方がはるかに容易です。人と人は、昔よりもずっと、つながりやすくなっています。

若者はもっと「自己中」になって社会を変えろ——「絶望の国の幸福な若者たち」古市憲寿インタビュー

この著者と同世代のひとびとと話していて、たとえば「人と人は、昔よりもずっと、つながりやすくなっています」という楽観的な見方に、しばしば驚くことがある。

彼らは、まったく文字通りの意味で、ひとがつながりやすくなった、と、何の迷いもなくそう信じているのだ。

この楽観は、何だろうか。

そこには、たとえば私との十年の世代間格差がある、と単純に書いてみてもよい。
より具体的には、インターネットの登場以前に成人したか、していないか。そこにまず大きな断絶があるように思われる。

つながり、とは何だろうか。

それは、Facebook、Twitter、G+で、夕食の内容を写真でアップロードし、美味しかったと書くことだろうか。
「おはようございます」と投稿し、それに何十ものリプライがつく光景を、微笑みながら眺めることだろうか。
自分の悩みを吐き出して、それを顔も知らず、ほんとうの名前も知らない他人に慰めてもらうことだろうか。

つながり、とは利便性だろうか。

それは、つるつるとした板のような携帯電話を用いて、近くにいるらしき誰かと一緒に夕食をとることだろうか。
GoogleやWikipediaを用いて、親切な第三者が蓄積した知識を用いて、はてしない議論をすることだろうか。
出会い系サイトやSNSを用いて、一晩をともにする女や男を探すことだろうか。

そのどれもが、砂漠のように乾いている。
昔と比べて、失われているものがあるとすれば、それは手応えのある持続的な関係性だ。
昔よりもつながりやすくなったことが、ひととひとの間に、大きな距離をもたらしている。

もちろん、「ほんとうのつながり」が昔はあったのか、という問いは不毛だ。
そんなものはどこにもなかった、と上の著者のようにうそぶきたくもなる。

インターネットによって変わった社会の利便性があきらかにしてしまったのは、まさにそのつながることの難しさだ。
ひとはどんどんばらばらにさせられ、関係性は希薄になり、つながりはどんどん薄められていく。

人生において、人に愛されたことがないものは、いかにひとりぼっちであったとしても、自分が孤独であるということを知り得ない。
世代間格差とは、つまりそのようなものである。
いくらことばをつくしたところで、それを伝える方法などない。

昔はよかったね、と微笑みながら生きる楽観的な人生があってもよい。
しかし、けして取り戻せないもののために、たたかわなければいけないときもあるのである。