2011-11-01

楽観的ノート

現代は、ひととひとがつながりやすい、それは事実だろうか。
―好きなもの、近しいもの同士で、コミュニティを作っていくと他者に対する想像力がなくなるという批判もありますが。

じゃあ昔は逆にあったんですか?と聞きたいですね。昔だって企業戦士は、その会社のコミュニティがすべてだったわけですし、専業主婦は子どもの通う学校のPTAとかが、その人の社会のすべてだったかもしれない。それが可視化されただけにように思うんです。
逆に、今の方が想像力は広がりやすくなってると思います。本来であれば、つながりえなかったマイナーな趣味の人同士で集まるというのは、現代の方がはるかに容易です。人と人は、昔よりもずっと、つながりやすくなっています。

若者はもっと「自己中」になって社会を変えろ——「絶望の国の幸福な若者たち」古市憲寿インタビュー

この著者と同世代のひとびとと話していて、たとえば「人と人は、昔よりもずっと、つながりやすくなっています」という楽観的な見方に、しばしば驚くことがある。

彼らは、まったく文字通りの意味で、ひとがつながりやすくなった、と、何の迷いもなくそう信じているのだ。

この楽観は、何だろうか。

そこには、たとえば私との十年の世代間格差がある、と単純に書いてみてもよい。
より具体的には、インターネットの登場以前に成人したか、していないか。そこにまず大きな断絶があるように思われる。

つながり、とは何だろうか。

それは、Facebook、Twitter、G+で、夕食の内容を写真でアップロードし、美味しかったと書くことだろうか。
「おはようございます」と投稿し、それに何十ものリプライがつく光景を、微笑みながら眺めることだろうか。
自分の悩みを吐き出して、それを顔も知らず、ほんとうの名前も知らない他人に慰めてもらうことだろうか。

つながり、とは利便性だろうか。

それは、つるつるとした板のような携帯電話を用いて、近くにいるらしき誰かと一緒に夕食をとることだろうか。
GoogleやWikipediaを用いて、親切な第三者が蓄積した知識を用いて、はてしない議論をすることだろうか。
出会い系サイトやSNSを用いて、一晩をともにする女や男を探すことだろうか。

そのどれもが、砂漠のように乾いている。
昔と比べて、失われているものがあるとすれば、それは手応えのある持続的な関係性だ。
昔よりもつながりやすくなったことが、ひととひとの間に、大きな距離をもたらしている。

もちろん、「ほんとうのつながり」が昔はあったのか、という問いは不毛だ。
そんなものはどこにもなかった、と上の著者のようにうそぶきたくもなる。

インターネットによって変わった社会の利便性があきらかにしてしまったのは、まさにそのつながることの難しさだ。
ひとはどんどんばらばらにさせられ、関係性は希薄になり、つながりはどんどん薄められていく。

人生において、人に愛されたことがないものは、いかにひとりぼっちであったとしても、自分が孤独であるということを知り得ない。
世代間格差とは、つまりそのようなものである。
いくらことばをつくしたところで、それを伝える方法などない。

昔はよかったね、と微笑みながら生きる楽観的な人生があってもよい。
しかし、けして取り戻せないもののために、たたかわなければいけないときもあるのである。