2011-11-10

ことばの時差

つねに、間違えてから気がつく。この遅れをどうすることもできない。ひとはそれぞれ個別の壁、何よりも越えたいものをもっている。そしてそれを形成したプライベートな動機をもっている。それは「できなかったこと」を、できることに変えるためにひとが持つものだ。しかし、できなかったことは取り戻せない。私たちがたたかうべきものは、この遅れだ。

子供の頃、英語がほとんどわからない状態で国際校に転入した時、A氏というドイツ系アメリカ人の担任と親しくなった。A先生は、英語支援クラスという、あちらではESLと呼ばれる、英語を母国語としない外国人子女を教えるクラスの担任だった。もっとも、こちらは英語どころか、日本語すらままならない状態だ。学業は困難を極めた。

先生のクラスに一年ほど在籍した頃、何とか、日常会話が成立するようになった。そのとき、先生がドイツに帰国するという話を聞いた。放課後、職員室近くのロビーでそれを先生から聞いた時、私は驚いてことばを失った。そして、特に何も言えないまま、先生と別れた。そのときの自分の焦燥、ことばが出ないことの苛立ちを、よく憶えている。

先生がドイツに帰国してから、思った。もし、外国語をきちんとマスターできていれば、先生に何かことばをかけられたのではないか。単なる感謝のことばではなく、自分の、自分にしか言えぬことばで、何かを伝えることができたのではないか、と思った。その日から、私にとって、外国語を学ぶことは、単なる学業以上のもの、何があっても越えなければならない壁となった。

後になってから、気がついたこともある。それは、私が当時流暢に英語を喋れていたとしても、おそらく、私は、伝え損なったのではないか、ということだ。私が失敗したのは、外国語を十分に使えなかったからではない。たとえ、相手が日本語を解する日本人教師であったとしても、私は、おそらく言えなかっただろう。伝えることはできなかっただろう。越えるべき壁は、別にあった。

失ってから気付くことは、まさにその喪失を経なければ立ち現れない。ここに矛盾がある。これを努力や意志の力で越えることはできない。たとえば、家族、子供のかけがえのなさを知る契機は、それをないがしろにし、軽侮し、捨て去ったものにしか与えられない。しかしそれを、失っていないひとびとに説明することなどできるはずもない。いや、違う。たとえわかっていても、事前にそれを知ることはできないのだ。