2011-11-15

アニメーションの現代

先日、G+で「アニメーション」についての話になり、私は回答を留保した。それについて書いてみたい。

アニメーションについて何か言う時には、政治的な配慮をしなければならない。もちろん、これは実際の投票や政党の話ではなく、その発言がどのように受容されるか、自分の立ち位置を示さなければならない、程度の意味だ。特にいまのように、アニメーションがありとあらゆる場に浸透し、愛されている時代では、そうした配慮をしていかなければならない。

私は、一応、もの書き、ということになっている。そう呼ばれているし、そう自認している。文学が何かはわからないが、そうした系譜に連なる書き手だという自覚はある。そしてそれが、いま忘れ去られ、読者が減少し、滅びつつあるジャンルであるという認識でいる。それは構造的なもので、個人がそれを変えることはできない。

アニメーション、漫画、ゲーム、そしてその発展系としてのライトノベルの圧倒的な浸透を見ていて、そしてそれが批評の存在しない世界でただ愛されていることを横目に見ていて、複雑な感情を抱かない書き手はいないと思う。それは苛立ちとしてもあらわれるし、ある時には一方的な侮蔑としてあらわれている。よくある光景だ。

人気があるもの、影響力があるものを馬鹿にし、軽侮することは、専門性の高い職業に特有の傾向で、それをやめることはむずかしい。それはたとえば村上春樹の話題をすることを忌避する傾向にも見られるし、アニメーションに携わる批評家や作家を「存在しない」と見なす空気にもあらわれている。そしてこの「壁」は、もう個人には越えられないほど大きくなってしまった。

そして書き手はますますストイックになり、高度に専門的で閉鎖的な空間に閉じこもるようになり、その外では、圧倒的多数のひとびとが、毎日のように大量生産され、愛されるアニメーション作品を楽しんでいる。そこには大きな断絶があるが、これは、私が子供の頃にはなかったものだ。いつの間にか切り離されてしまった。たとえば、伝統芸能化した歌舞伎や能の価値は、今後も残り続けるだろう。ただそれが一般社会に影響力を持ちうることはない、このことを受け入れることからはじめなければならない。

表現のジャンルの間につくられた壁のことを見ていて、それがたとえばそれぞれの個と個の間にできた断絶、ひとりひとりが切り離され、連帯を失ってきたこの二十年間の流れと、無関係ではないことに気がつく。おそらく、ここには共通する原因がある。まずこの透明な壁の存在、それが堅固かつ壊れないものであることを知らしめねばならない、と思う。いいかえれば、それは、私たちがどれほど孤独になりつつあるか、そういうシンプルなことを、あらためて書いていくことだ。

楽しいことはまずしいことだ。その空しさに取り組むためには、残念ながら、そうした楽しさに背を向けなければならないだろう。しかしそれは批評家の仕事ではなく、小説家の仕事だ。いいかえれば、いま生きている人間について書ける作家にしか、いま私たちが閉じこめられている場所をあきらかにすることなどできるはずがないということだ。

それは誰にも理解されない仕事になるだろう。古い人間のつまらない懐古主義、と捉えられる危険が伴うだろう。だが考える、ということは、古いものを受け継ぐということなのだ。それは傍目には眠っているようにしか見えないのかもしれない。その侮蔑を受け入れようと思う。どちらにしろ、私たちはひとりぼっちなのだから。