2011-11-16

日常的なもの

努力という日本語は、勤勉そのものを自己目的化したテーゼを潜ませた、危険なことばだ。それは結果を出すことよりもその過程そのものを重視する国民性と言ってよい。
「夢は必ずかなう」。そんな言葉をよく耳にします。「願えばかなう、だから夢を持ちなさい」というのは、1つの考え方としては理解できます。ただ現実の世界では、夢はいつもいつも、かなうものではありません。かなわない夢だってある。そんな現実を、子どもたちに早く教えた方がいいと思います。

弘兼憲史インタビュー(日本経済新聞Web版)
高校生の頃読んでいた山本七平の本に、いまでもたまに思い出す逸話がある。子供の頃、かれは数学がどうしても苦手だったそうだ。かれの友人に、数学がものすごく得意な生徒がいた。「どうしたら数学ができるようになるか」とかれは友人にたずねた。

友人の答は、「予習せず、頭をからっぽにして授業に出れば、問題がすっと理解できる」というものだった。かれはそれを早速真似して、授業に挑んだ。その結果はひどいもので、前よりもずっとわからなくなった。かれはこう結論づけていた。「天才のマネをすべきではない」

友人がほんとうのことを伝えたのかどうかはわからないわけだが、こう考えてみてはどうだろうか。「数学が得意な友人」は、自分が普段やっている努力を、誰でもやっている当たり前のことだと思っていて、勉強とは思っていなかった。だからかれには、「頭をからっぽにすればいい」という的外れの説明しかできなかった。

私の知る第一線のひとびとは、クマが水を飲むように本を読み、常軌を逸した大量の作業を毎日ふつうにこなしている。しかしそれはかれらにとって苦痛ではない。それは自然なことで、あたりまえのことだ。かれらに「どうしたらそんなにがんばれるんですか」と聞いてみればよい。頭をからっぽにすればきみにもできるよ、という回答が返ってくるだろう。

努力ということばが本来意味する姿勢とは、そういうあたりまえのことをどれだけ持つか、ということだ。

才能は努力しない。なぜならそれは日常だからである。