2011-12-17

午前一時の散歩

深夜一時の東京駅前。長距離バスを逃した私は、歩道に立って煙草を吸っている。半分に欠けた月が夜空に浮かび、人気のない大通りを照らしているように見える。終電を逃したのは、忘年会で編集者と議論になったからだった。きみは、私小説的なものを書いて、過去を受け入れたいのか、それとも、そこから逃避するために書くのか。そう編集者は私に訊ねた。それは一見、とても失礼な質問にも思えた。しかし、こころのどこかで、その質問に答えることを恐れる自分がいた。それはおそらく、書くということが、私にとっては、逃避から始まったからだった。

駅前繁華街に、冷たく透明な風が吹いていた。けばけばしいネオンをまき散らす歓楽街の残骸のそこかしこに、客待ちの売春婦たちがいた。彼女たちは全員アジアから来ていた。ほとんどが中国から来た女たちだ。一晩どこで過ごそうか、と私は考えながら、道を歩いていた。寒かったが、とくに不快ではなかった。角に立ち止まって煙草に火をつけると、そこには無言で立ちつくす女がひとりいた。誰にでも声をかける女たちと違い、その女は顔を上げることなく、無言で灰色のアスファルトをじっと見つめていた。声をかけようかと思い、何語を用いるべきか自問した。女は、誰かに似ている。

酔っぱらって怒鳴り声を上げる、ネクタイをしめた会社員たちが道路でもみ合っている。そばの花壇で、老婆らしき女がうずくまっている。老婆は吐瀉物の上に屈み込んでいる。何をしているのかはわからない。どこかで学生たちが、何かの歌を歌っている。男たちは皆一様に疲れた顔をしている。私は道を歩いている。風がさらに強くなった。女たちが私に次々に声をかけてくる。一晩あたためてあげる、と女が言っている。たったの三千円だよ、と女が言っている。マッサージ気持ちいいよ、と女が言っている。誰しもが目をきらきらと輝かせていた。男たちは殴り合いを始めた。バカにしやがって、バカにしやがって、バカにしやがって!

繁華街を離れると、突然静かになった。日本橋を抜けて、さらに北へと向かった。巨大な高速の高架の下で、黒く冷たい水面を眺める。ホームレスが、ビニールシートにくるまって眠っている。立ち止まると、ドブの臭いに身体が包まれる。道路には車の姿はない。静かだった。誰もいなかった。私とホームレスだけがこの東京の住民であるような気がした。オレンジ色の街灯が、アスファルトを照らしていた。誰かに呼ばれたような気がして、振り返る。そこには誰もいなかった。ただ眠り続けるホームレスがいるだけだった。もしこのまま宿が見つからなければ、私もまた駅前で新聞紙にくるまって、かれのように眠るだろう。誰にも顧みられず、狭く、小さな閉じられた世界で、ひとりぼっちの寒さから身を守りながら。眠れ、眠れ、夢もみることなく。