2011-12-31

糞神礼賛

"Or rather, it is only then that people will, for the first time, truly be able to live."

2011年3月16日、「震災と日本」ーー柄谷行人

真に生きるということを、私たちが普段用いることばに引き寄せて考える。それはどういう意味になるか。私たちは、もちろん震災とは何の関係もなく、個別に繰り返される不幸に引き裂かれ、ひとりぼっちで、この情報社会の中で孤立を強いられている。大人たちだけではなく、いまは子供たちも、ひとりひとりが与えられた携帯端末を通して、無料で、自由で、開放的なネットを享受し、そこにいる限りにおいてはあまりにも快楽的な箱庭世界のゲームに興じている。そこから出ることは難しい。不毛であるとわかっていてもさえ、そこから出ることは、あまりにも難しい。

それぞれの家庭に目を向けてみよう。家族は崩壊し、虐待とネグレクトが横行し、離婚した片親は社会の軋轢に疲れ果て、自分より弱い子供を叩いている。放棄された育児の結果、子供は暗い家でひとりぼっちで、PCの画面に貼り付いて、ツイッターで、2ちゃんねるで、まとめサイトで、垂れ流される無料の動画を楽しみ、ひとりでげらげら笑いながら、全世界を呪い続けている。親はそれに対して何一つできない。親類縁者は何もしない。遠くに住み、うなるほどの年金と退職金を与えられながら何もしない、何もできない。子育てを支援する仕組みは機能不全であり、保育所は常に満杯で、学校はといえば、あたらしい社会の桎梏になにひとつ応えられない、無能きわまりない仕組みであり続ける。

だから本当は、老齢者と若者がじっくり話し合って、どういう社会を望むのか、その為には何をすればいいのかを話し合うべき時なんだが、「老」があの説教好きな団塊で、「若」があの「老害」と言いさえすれば全部片付くと思ってる餓鬼どもではどうしようもない。(2011年12月31日——ある作家の投稿)

世代間格差は広がり続けている。カネではない。制度ではない。それはことばの断絶だ。機能不全のまずしいことばを用いる若年層に、まがりなりにも、それなりの戦いを経て、いいかえれば、徹底的な敗北の後にインポテンツになった悲しい身体を引きずって生きている老齢者のことばは届かず、若者はそれを単に軽侮するだけで、その後ろに潜む老齢者たちの体験の重み、かなしみ、くるしみ、そしてそこでしか得られなかった知見を理解することなどできるはずもなく、「自らの失敗」を経ていない無能で愚かでまずしい若者たち、つまり私たちは、彼らを継承することすらできず、使い潰している。これが状況だ。

子どもと回転寿司に行ったが、トンカツというのが新しくふえていて、握りの上にカツが一切れのって回っていた。食べている人は見かけなかったが、以前、留学生が団体で回転寿司屋に入ってきて、ハンバーグとか生ハムとかそういうのばかり頼んでいる光景を見たことがある。寿司を食べました、とか、実家にメールでもするのだろう。(2011年12月30日——井上瑞貴)

あらゆるものが利便性にとらわれている。私たちは、食事の席で携帯で写真を撮り、それをフェイスブックに、ツイッターに、G+に、その他ありとあらゆるSNSにアップロードし、楽しかったね、おいしかったね、と、世界の裏側にいる人間とやりとりをする。世界は狭くなった。それは事実か。むしろ遠ざかった。むしろ断絶させられた。米国が、イギリスが、フランスが、ロシアが、韓国が、中国が、どれだけ日本から遠ざかったか。どれだけ日本が、いや世界中の国が、ネットによって分断されたか。伝えることの絶望的な困難が覆い隠された場において、コミュニケーションは死んだのだ。埋葬されたのだ。くたばったのだ。糞みたいなネットによって私たちは殺されているのだ。Googleとはいわばその糞の神である。

もう一度問わなければならない。真に生きるとはどういうことか。真に生きるとは、私たちから、人間らしさを奪うものとたたかうことだ。非人間的な生活を強いるものとたたかうことだ。私たちから、家族を、連帯を、ともに生きることの喜びを奪うものと、徹底的にたたかうことだ。人間らしさはカネでは買えない。人間らしさは愛では手に入らない。人間らしさは民主主義によって実現しない。人間らしさは民主党が、自民党が、公明党が、共産党が、幸福の科学が与えられるものではない。制度が、社会が、存在していないと見なされる国境が、資本主義が、ありとあらゆるものが、私たちの敵だ。滅べ、と叫ぶことは誰にでもできる。死ね、と書くことは誰にでもできる。しかし生きることだけは困難だ。いつもそうだった。これからもそうだった。明日もそうだった。生きよう、この糞のなかで。