2012-01-09

やがて大人になるお前たち

本日は成人の日らしく、朝日新聞社説(ウェブ版)を読んで微笑みながら過ごした。

社説は、尾崎豊という歌手の「社会への反発」の姿勢をうつくしいもの、若者の共感を呼んだスターであると褒め称え、しかる後に「でもね」と説教するといういつものパターンだ。

それはいつも通りの、インポテンツになった老人たちが、若者へ説教する際のテンプレートであり、とりたてて驚くことではない。

そもそも新聞の論説に何か期待するほうが間違っているのであり、何一つ有意味なことを人生に見いださなかった連中が、安楽椅子にふんぞりかえって、今日もまたくだらない記事を書き散らしている、と思えば良いだけの話である。

懇親会で、パーティで、名刺交換会で、異業種交流会で、ありとあらゆる場で、このような微笑ましい醜悪さを目にすることができる。

それはむしろ笑うところである。

しかし、世の中のひとびとは違うようだ。

思ったよりも多くのひとびとが、この記事について怒っていることを目にした。私はむしろそれを腹立たしく思った。
論説委員さんが心配しなくても、今年の新成人が日本の言論を担う頃には、紙の新聞も記者クラブも再販制度もクロスオーナーシップも原発擁護メディアもなくなってるだろうから、おせっかいなこと言わないで、朝日新聞は自分のところを心配したほうがいい。via Tumblr
どういうことだろうか。何を心配しているのだろうか。何をおせっかいしているのだろうか。
噴飯モノ。毎年恒例の成人の日の社説。「社会への反発、不信、抵抗」を駄々っ子のように言いふらし、「恵まれていないわけじゃないのに、ここではない、どこか」を賛美し、あげくは母校の窓ガラスを割るような行為を煽ったのは、「尾崎豊」ではなく、朝日新聞さん。via G+
何を怒っているのだろうか。何に腹を立てているのだろうか。まったくわからない。わからないことだらけだ。頭痛がひどくなる。

怒るべきはそこではない。引き裂くべきはそこではない。叩きつぶしたいのはそこではない。

成人の日に、きれいごとを書き、説教をする。何が悪いのか。成人の日に、カネがたんまり入った財布をもって銀座に飲みにいき、酔いが残った頭で原稿を書く。何が悪いのか。愛人へメールして、妻には今日も遅いよ愛してるとメールを書いて、また愛人にメールして、娘からのメールにパパ遅くなるよご飯はママと食べてねと返事をして、また愛人にメールして、ラブホテルを選んで、セブンイレブンのATMでカネを下ろして、鼻歌を歌いながらタクシーに乗って、何が悪いのか。

何が悪いのか。

そもそもくだらない連中、つまり私たちが、きれいごとを書いて何が悪いのか。

公器に何を期待するのか。そもそも新聞は公器なのか。あんなものが公器なのか。そもそも読むに値しないものに何を期待しているのか。学校に、政府に、市役所に、警察に、組織である以上、しがらみと、権益と、対面と、世間体と、カネと、権力欲にどろどろに縛られ、何一つ人間的なことができなくなっている連中に、つまり私たちに、何を期待するのか。

きれいごとでいいのである。きれいごとしかないのである。ちっぽけでくだらないからしょうもない新聞が必要なのである。しみったれていて狭苦しい現実しかないから新聞が読みたいのである。横っ面をはたかれているのに頭を下げている負け犬の人生だから新聞をとるのである。マスメディアと戦わなければならないのである。古いものと戦わなければならないのである。若者の味方をしなければならないのである。

いくらでも説教をすればよい。いくらでも上から目線で叩けばよい。いくらでも誰かのせいにすればよい。何をしたところで自らの現実のまずしさを糊塗することなどできぬ。そればかりかむしろどんどん露呈するだけである。薄ら寒くなるだけである。鏡に映る自分の姿に気がつかぬだけである。やがて大人になるお前たち、すでに大人になってしまったお前たち、そして大人になるすべすら失ったお前たちへ告ぐ、私が。