2012-02-07

女はうつくしく女はいとおしく女は嘘でできている

私がそのことを考え始めたのは、小さなテレクラボックスの中だった。
狭く、臭く、窓のない部屋、そこに置かれた、脂ぎった小型の専用電話。

ベニヤ板でつくれた机の上に置かれた、フケと埃だらけのキーボード。

唾液とも精液ともつかぬ飛沫にまみれた、PCのディスプレイ。

利用料金一時間数千円のテレフォンクラブ。

テレクラとは、そのような閉ざされた部屋に、カネを払ってこもる遊びである。


テレクラは、何かに似ていた、たとえば私たちの目の前にある、Microsoft社謹製のWindows PCである。
未払いの請求書が、家庭裁判所からの内容証明が、別れた妻から自分をなじる手紙が散乱する部屋に住まう私たち。
現実とは、大なり小なり、そのようななまなましいうっとうしさをもって、私たちを取り囲んでいる。
PCのディスプレイの向こうには、何か、自由があるような気がする。
この「窓」のあちら側に、自分たちが求めてやまない何かがあるような気がする。
そう思ってしまう、自分たちはどこにも行けないのに、そう考えることを強いられてしまう。

どこにでも行ける、と思う、部屋の扉を開けさえすれば、外がそこにある、と思っている。

だがはたしてそれは本当だろうか。

テレクラは端的に言えば買春斡旋ツールであり、それはいまもかわっていない。
電話をかけてくる女は、小遣いが欲しいガキと、性欲をもてあました人妻、仕事にあぶれた売春婦たちである。
女らを駆動するのは資本主義であり、ブランド品であり、時間つぶしであり、孤独を癒すための何かである。
テレクラの受話器の前には、さもしくさみしい男たちが座って、アダルトビデオで自慰をしながら、電話をひたすら待っている。
自慰の対象は、実際の名前も、生活も、考えていることも、何一つわからない匿名の女たちである。
マリ、ヨーコ、ユリ、チハル……どれもが嘘の名前であり、ほんとうのことなどなにひとつない。
いやしかしだからこそ男たちはそれに欲情する。
なぜなら男たちが求めているものは<女>などではないからである。

Twitterで、G+で、ありとあらゆるSNSで、匿名の貌を被った<女>たちがこころの裸体をさらしている。
男たちを挑発し、男たちをからかい、男たちをもてあそんでいる。
それに群がるハエのような男たちの姿はあさましくさもしく、女たちはそんな男を軽蔑しきっている。
男と女の距離はいまだかつてないほどに広がり、それぞれが小さな部屋にこもって自慰をするだけの人生を送っている。
窓のない部屋、PCだけが置かれた小さく狭い閉鎖空間。
私たちが自らを閉じこめたところの部屋の窓には、うつくしい光景が常に映し出されている。
そこにはいやしが、やさしさが、いつくしみが、ゆるしが、私たちが望んだなにもかもがあるような気さえする。

つらく、くるしく、せつない現実において、不能性をイヤというほど味わった私たち。
いくらセックスを繰り返しても、誰とつきあっても、どんな快楽を追求しても、どこまでも癒やしようがない傷をかかえた私たち。
誰しもがそうなのであり、誰しもがそれを強いられている現代において、紛い物の人工甘味料で乾きを癒すことは喫緊の課題だった。
それに応えるために、全世界のIT屋はサービスを展開し、その中で「クリエィテビティ」なるものを競っている。
それはすでに仮面であることをやめ、肉と一体化した<貌>のようなものである。
誰しもが仮面を被っている世界において、それを剥がすことは愚かな行為であるばかりか自殺行為である。

だがしかし、私たちはこれを続けられるのだろうか。いつまで続けられるのだろうか。

なぜなら、女はうつくしい、女はいとおしい。
たとえ、女が、男性器のない自分自身の投影にすぎないとしても、やはりそれでも女ほど必要なものなどこの世にあるはずもない。
女の身体は嘘と虚飾とごまかしでできている、そんなことはわかりきったことである。
女のこころは嫉妬と強欲と愛欲でできている、そんなことはわかりきったことである。
だがそれでも女が好きなのである。

嘘をつかれても、騙されても、踏みにじられても、浮気されても、傷つけられても、それでも、女がいちばんいいのである。