2012-02-13

浄土

いかなる自力のはからいも捨てよ、とその男は言った。

平日夜、ホテルの人工温泉。私は、湯船の縁に腰を下ろしている。扉が開いて、二人の中年男が入ってくる。私は、ぼんやりとそれを見ている。兄弟だろうか、顔が似ている。がらんとした浴場には、私と兄弟しかいない。時間はすでに午前零時を過ぎている。

女のこと、子供のこと、金のこと、本のことが頭をよぎる。様々なことが、湯の中に溶けて消えていく。ふと見ると、そこに立つ兄弟は奇妙なことをやり始めている。兄が弟の尻に片手を突っ込み、洗い始めたのだ。肛門から性器に何度も指を滑らせ、そして湯で洗い流す。

洗われている弟は、立ち尽くしたまま虚空を見つめている。弟の表情には、見覚えがあった。子供を連れていった病院で、よく見かけたものだった。知的障害者なのだ。ひとがほとんどいない時間帯に、その兄弟がやってきた理由がよくわかった。

三度目のデートの時だったか、やがて妻になる女が、弟が障害児なの、と私に言った。私は曖昧に頷いた。私の親族には外道や悪党はいたが、障害をもった人間はいなかった。そして障害者に対する私のイメージは乏しかった。

小学校の頃、同級生だった障害児が、いじめられ排除されていた。田舎で、全裸で奇声を上げながら町を走り回る男がいた。そういう曖昧なイメージしかなかった。女と私の間には、テーブルがあった。アイスコーヒーが並んでいた。言葉を探した。しかし見つからなかった。この光景を、なぜかいまでも覚えている。

兄は弟の身体をまさぐっている。弟の陰部は、やせ細った身体に不釣り合いなほど巨大だった。兄が無表情に全身を洗ってやる間、その睾丸がずっと揺れていた。精力が強いのかもしれない、と思う。自慰はどうしているのだろう、と思う。

一生、結婚なんて出来ないんだろ、と私は妻に言っている。弟が、私を見た。両手をだらりと倒し、私をじっと見る。男の口が、少し開いて、とうさん、という声が聞こえたような気がする。兄は、弟の背中を流し始める。湯の温度が、少し下がったような気がする。

ことばも覚えられないんだ、と私は言った。まともな仕事だってできやしない、と私は言った。胸が苦しい。怒りで身体が焼けるように熱い。妻が泣いている。その脇で、子供はクレヨンで絵を床に描いている。湯船に、蛍光灯の静かな光が反射している。私は男を見る。

役立たずの巨大な性器が、その股間にぶらさがっている。何度も何度もセックスをし、何度も何度も女を買い、何度も何度も愛人を替えた、そして不能になった性器のことを思う。兄は、弟の身体を洗い終わると、湯船へと弟を促した。私は湯船の縁で、身体を凍り付かせている。動悸が、ふいに激しくなった。

弟が、湯船の中で性器をいじり始めた。兄は、背を向けていてそれに気がつかない。弟は、小さく口を開いている。あ、の形に開かれた口と二つの眼が、私を射貫いている。性器はみるみるうちに膨張し、湯の中で凶悪でいびつな形をとった。それを、弟が両手でしごき始める。

わかっているのだ。それが悪いことだと。わかっているのだ。それがいけないことだと。弟の顔には、笑みすら浮かんでいる。むき出された歯が、黄色く染まっている。自力とは何か。それは愛することだ。愛することを捨てねば、この世は生きることすらままならぬ。兄は、疲れた顔で眼を閉じている。

やめてよ、やめてよ、と妻がいっている。私は、振り上げた手を見ている。私は、割れたガラスを見つめている。弟の手の動きが、さらに激しくなる。兄が、ゆっくりと弟を振り返る。すみません、ごめんなさい、この子のせいじゃないんです、この子は、仕方なく、やってしまうんです、こうしてしまうんです。やめろ、やめてくれ。

兄は、私に頭を下げると、弟を連れて外へと出て行った。放出されたらしき精液は、湯に溶けてすぐに見えなくなった。静かだった。喉が、凍り付いていた。声を無理矢理絞り出すと、自分の声とは思えなかった。浴場に声が反響する。それはまるで、死にゆく獣の声のようだった。捨てよ、と声が言った。それ以外のことばは、見つからなかった。