2012-04-04

大人とはなにか

大人とは何か、そんなことを質問しなければならぬ精神がある。
大人とは何か、そんなことを尋ねなければならぬこころがある。
大人とは何か、そんなことを真顔で聞いてしまう魂がある。

全裸の女を撮影したビデオを見返していた。服を脱いだ女に興奮するのではない。そんなものはありふれており、どこでも手に入るものである。私たちを興奮させるもの、それは羞恥心を耐え忍ぶ姿である。

大人とは何か。むろんそれは性行為の多寡ではない。

街を見よ、ネットを見よ。大人のふりをした子供ばかりである。いわく大人とはカネである。いわく大人とは社会的地位である。いわく大人とは責任である。

そのすべてが虚しく、嘘だらけである。

子供と大人を隔てるものは何か。それは年齢ではない。それはカネの有無ではない。それは職業の違いでもない。それは年収の違いでもない。それは結婚経験でもない。それは処女でも童貞でもない。それは避妊具でもない。それは販売中止となったネオサンプーンでもない。

どんな子供でも性行為はできる。携帯を持てば援助交際は誰でも可能である。誰でも容易なのに見てみぬふりをしている。一晩七万円でスーツを着た中年に抱かれている。まったく簡単である。どんな子供でも、口と性器の値段が違うことぐらいはわかる。それはまったく自明のことである。裸で写真を撮らせればカネをむしれる。動画を撮らせればさらにカネをもらえる。笑顔で別れれば後腐れすらない。この子供は大人だろうか。

大人は我慢しているという。大人は耐え忍んでいるという。頭を叩かれながら屈従の中で仕事をしているという。こうした困難に立ち向かう大人たちの姿は私たちを少しも感動させない。そこには疲労と諦念しかない。彼らのセリフはいつも同じである。大人はたいへんだ。そう嘯きながら、ストレスという名前の糖衣錠を飲み下し、今日もモバゲーで、Greeで、Mixiで、何もかもが無料なネットで時間つぶしをするしかないのである。それが大人の嗜みであるとみなされる。

セックスは安価で、いつでも、誰とでもすることができる、最高の娯楽のひとつである。これ以外に楽しみがない人生こそが貧しく、私たちはみな貧しさの中で生きることを強いられている。頭だけは巨大なのに、下半身だけはどうにもならない。下半身だけは別の生き物である。男は誰とでも何とでも寝たがり、女は隙あらば子供をつくろうとする。異性の相手が見つからぬ代わりにマスターベーションの道具だけが進化していく。まがい物ばかりであり、どうにもならぬ夜だけが数を重ねる。

星の数ほどあるポルノ動画が、Tumblrの裸写真が、出会い系Twitterが、スーツ社交場のFacebookが、猫画像のG+が、強姦と暴行と陵辱だけが売りの漫画群が、ありとあらゆるものがまがいものであり、そこにあるのは幼稚な好奇心によって作られたもうひとつの世界の光景である。しかしそこにあるのは影だけである。そこにあるのは蜃気楼だけである。そこに触れても何もなく、現実は砂のように乾いている。そしてそれを作っている何かに恐怖したとしても、その機械仕掛けの歯車はあまりに巨大すぎて、個人はひき潰されるだけである。

その恐ろしさにふと慄然としながら、カメラの前で裸になった女の顔を見つめる。
大人とは何か、それはセックスである。