2012-04-05

喪失前夜

桜が、咲きかけている。娘を空港で見送り、車を路肩に停めた。お前みたいな淫売を愛せるのは俺だけだ、という自分の出したメールを読み返しながら、木々の梢で膨らむつぼみを眺める。開花前の桜は、異様な雰囲気をたたえている。それはいまにも崩壊しそうな、溶鉱炉のように見える。あちこちから火と煙が吹出し、近寄ることも触れることもできないのだ。車を再び走らせると、遠くから正午の時報が聞こえてきていた。

群れなければ何もできないひとびとを眺めていた。誰かに同意してもらわねば意見ひとつ言えぬひとびとの姿を眺めていた。うん、や、わかる、と言われなければ、不安でたまらないひとびとの相貌。Favを、RTを、+1をされるためだけになにかを書き、そのためだけに食事をし、性交をし、仕事をし、時間つぶしをし、漫画を読む、そのとてつもない空しさのことを思う。それしかないのか、という言葉は、もちろん自分にも向いている。それしかあるはずもない。

ひとのエントリをコピーペーストし、自分が書いたように見せかけた<女>の投稿群を眺めている。うつろでうつくしい笑顔に、可愛らしい猫の写真。それはおなじみのG+の光景だった。かわいいもの、おもしろいもの、たのしいもの、そうしたものだけがG+では称揚されていた。そうしたものだけが、読むべきものとされていた。それ以外のものは、許可されていなかった。それ以外のものは、なかったものとされていた。

セルフのスタンドでガソリンをいれながら、ぼんやりと空を眺め、性行為のことを考えている。男と女を隔てるものはセックスであり、それをつなぐものもまたセックスだった。私たちは両刃のカミソリを与えられた、下半身に駆動されるみじめな生き物である。社会が求める綺麗事は、その傷を覆い隠すためにだけ機能している。包帯の下で流れる血も痛みも、どこにも存在していない。なぜならそれは見えないからである。ガソリンを入れ終わると、風が、吹き始めていた。


群れなければ何もできない。そういうひとびとが、ネットにはあふれていた。いや現実にもあふれていた。誰しもが同意を求めていた。誰しもが理解を求めていた。しかしそれはかなわなかった。しかしそれは不可能だった。なぜなら彼らが求めているのは同意などではなかった。なぜなら彼らが求めているのは理解などではなかった。彼らが求めているのは<つながり>であった。ほんものがないからネットにすがった。どこにも見当たらないからまがい物で満足した。それがTwitterでありG+でありFacebookであった。

つながることこそが不可能である。そしてつながることだけが可能である。この矛盾を超えるすべを私に与えよ。この相克を超える方法を私たちに示せ。私たちはこれからどんどん孤独になるだろう。これが底などと思ってはならない。私たちはますます貧しく、ひとりぼっちに、相手のことを見失っていくだろう。これが喪失の始まりである。桜は毎年咲くだろう。だが私たちはついに咲くことなど許されぬまま、群れなければ生きてゆけぬまま、ここでひとりで死んでいくだろう。それを記さねばならぬ、なぜなら。