2012-04-09

静謐

街に夜がやってきていた。明るい駅前から少しだけ離れると、壊れかけた廃ビルが立ち並ぶ灰色の区画があった。ビルの一階部分にはゴミが山と積まれ、まともな人間は、それを見ないようにして通りすぎていった。その区画を挟んで、小奇麗な居酒屋のチェーン店が設置されていた。夜は、無視されていた。この社会のどこにおいてもそうであるように、存在せず、見えないものとされていた。

その二階に、店はあった。受付の男は、親しくなると自分は台湾出身だと教えてくれた。県警は、見てみぬふりをしている腰抜けですよ、と言っていた。実際にそうなのだろうと思った。恣意的な「自由」によって、この社会は成り立っていた。外国人は、それを一番よく知っていた。店の入口には、真っ赤なマットが置かれていた。ガラス扉をくぐると、生暖かい風が、そこから吹き出してきた。

女は、色々な国から来ていた。中国、台湾、そして韓国。その晩、私が選んだのは、どことなく、前の愛人を思わせる、韓国人の女だった。その手の店には珍しく、部屋はしっかりとした個室で、そのうちのひとつに案内された。隅に、ひとり入れるぐらいのシャワーがあった。服を脱いでそこに入ろうとすると、女が笑いながら私に抱きついた。サービスよ、と言って、萎えた性器を口に含んだ。ひさしぶりに勃起した。

女は、どことなく冷たく見え、それが愛人のことを思い出させた。笑えば可愛いのではないか、そう思えた。小さな身体に、大きな胸。股間に女がへばりつき、その姿を見ているうちに、突然萎えた。女の広い背中に、シャワーが雨のように降り注いでいた。背中に水着の日焼けの跡が残り、水流が小川のようにそこを流れ落ちていった。水音が大きくなる。女は、困ったように私を見上げた。女の顔は、誰にも似ていない。似ていると思ったことが間違いだったのだ。

やや広いベッドの上で、女は全裸で寝転がった。足を広げてみせた。女に、代わりなどいない。女は、ひとりしかいない。それを忘れるためにだけ、買春があった。どこにも出口のない射精があった。女の性器だけが、別の生き物のようにうごめいていた。それを見つめていた。萎えたまま見つめていた。興奮が潮のように引いていき、そこには一対の目が残った。愛している、とつぶやいた。おまえしかいないのだ、とつぶやいた。韓国女は、こないの、と笑って、性器をひらいてみせた。死にたいんだ、と言った。殺してくれ、と言った。韓国女は、時計を指さして、時間ないよ、と言った。

時間はどこにもなかった。私はバスタオルをはだけて、ベッドに乗った。ベッドがきしみ、沈む。それは船を思わせた。まわりは海に囲まれていた。塩水だらけで、水を飲むことができないのだった。他の男に抱かれた女のことを考えていた。他の男に飽きるほど抱かれて、そして捨てられた女のことを考えていた。胸が張り裂けそうだった。痛くてのたうちまわりたかった。汝らのうち、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい、と誰かが言っていた。性器に、血が集まらなかった。苛立っていた。なぜ愛がなければいけないのか。なぜ愛さなければ勃起しないのか。萎えた性器に付けたコンドームはすぐに外れ、韓国女は煙草を吸い始めた。

店を出る。ほしい女は、この世にひとりしかいなかった。軽くなった財布を、ポケットに入れる。寒かった。しかし雨は降っていなかった。雪も降っていなかった。桜が咲いていた。夜桜は風に震えていた。身体が震えて、その前でかがみこんで吐いた。何も出てこなかった。胃液しか出てこなかった。女はいくらでも抱けた。女の代わりはいくらでもいた。そういう人生があった。そういう過去があった。だがしかし、ほんとうは何が欲しかったのか。ほんとうは何を求めていたのか。答はなかった。自明だった。月が、見ていた。