2012-04-11

五十人の女たち(2)

「知的」な職業に、誰しもが憧れている。「華やか」な職業に、誰しもがなりたがる。その汚さを知らないものだけが、ゴミだらけの楽園に行きたがる。つまり翻訳家とはそのような職業でもある。当時私がはまっていたのはヤフーチャットだった。子供に業界の説明をしたり顔でする自分にうんざりしていたが、妻と息子が一階で遊ぶ声を聞きながら、ひとり二階の書斎で自分が何がしかの人間であるようにふるまうことには快楽がないわけでもなかった。その女とはそこで知り合った。正午さんは、おもしろいひとだね、と女は言った。ほんとうは、何を考えてるの?

俺はバカとガキが嫌いなんだよ、と新橋で女に会ったときに言った。なぜ新橋にしたか、よく覚えていない。女の身体は細く、顔は平板だったが可愛らしさがあった。女は駆け出しの翻訳家で、大学の先生のどうしようもない英文の推敲をしたりして小金を稼いでいた。正午さんも駆け出しなんだ、と女は言って笑った。まあね、と私も答えた。当時私はまだ独立したばかりで、職場でのキャリアはあったがまだまだ仕事は少なかった。毎日営業の電話をし、あらゆるコネを使ってそれを拡大していた。

女とは三回会った。抱いたのは三回目。新宿のラブホテルだった。女の桜色の乳首には小さな穴の跡があった。その話は、女とのチャットで聞いていた。昔ね、と女は言っていた。結婚を誓い合ってた彼氏がいたんだけど、事故で死んじゃったんだ。私は、それ以上聞かなかった。誰でも、喪失を抱えている。誰でも、かなしみを抱いて生きている。それは俺も同じだ、と思った。女の性器は乾いていて、終わった後女は泣き出した。私はベッドの脇の椅子に座って、それを眺めていた。妻からメールが届いていて、それに返事を書いた。いまから帰ります、夕食はいりません。

女とはチャットで別れた。ほんとうは、結婚していたんだね。と、女は言った。そうだな、と私は答えた。指輪の跡に、女は最初から気づいていた。そしてそれを隠すつもりもなかった。ね、ほんとうは、何か別のことがしたいんでしょ、と女は言った。教えてよ、最後に。あんな立派な会社辞めてまで、何がしたかったのさ。一階から、妻が私を呼ぶ声がした。夕食の時間だったのだ。私は、さようなら、と書いて、画面を閉じる。窓の外に、月が見えた。何をしたかったのか、むろん、女の身体が欲しかっただけである。他に、何もあるものか。何があるものか。夕食は、きわめてまずかった。