2012-04-25

売春婦の良人

いつでも「前の男」が気になっている。女が、どんな顔をして他の男と寝たのか。女が、どんな声で他の男の前で裸をさらしたのか。それが気になってたまらないのである。

女が言っている。前の男のことを思い出しながら性交をしていた。女が語っている。前の男の精液はうまかった。女がなじっている。前の男とは気持ちがよかった。女が嘲笑している。前の男よりあなたのものが小さい。新しい男たる私たちにとって、これに耐えることは難しい。

男は常に競争にさらされている。学校で、大学で、社会で。ありとあらゆる場所で<女>を奪い合っている。すべての時代で<力>を奪い合っている。それが滑稽なことは誰でも知っている。だが辞められない。だが止められない。それが理性で超えられると思うことこそ滑稽である。いや、こう言い換えよう。滑稽であることを知ることだけが人間らしい行為だった。たとえ、一秒たりともそれがやめられないとしても、それだけが人間に至る道であるはずだった。

女の身体は、いつも複数の男たちに開かれている。売春婦はカネで身体を売る。カネで身体を自由にさせる権利を売る。ほんの少しだけ身体を自由にさせているだけ、という免罪符を売春婦たちは胸にぶら下げている。どこかで見た光景だった。男は女に飯をおごり、その身体を自由にする。男は妻にカネを与え、身体を自由にする。しかり、売春はもっとも古い職業である。そして男女の交歓の中核にあるのは、与えそして与えられる構図に他ならなかった。

同じ光景を見ていた。ネットでは男たちが、うつくしい女に群がっていた。手に入らない女に群がって、自分の居場所を確保しようとしていた。彼らは女の処女性の有無について議論をしていた。詮索していた。ストーキングをしていた。行動履歴をチェックしていた。ブログを保存して調査をしていた。あさましかった。醜かった。しかし笑えなかった。それをあざ笑うことは誰にでもできなかった。女だけがそれを笑う権利を持っていた。男は自らの愚かしさを笑うことなど許されなかった。

男たちは女の性交履歴を知りたがった。どんな声でよがったか、どんな体位が好きだったか、男とどんな性交写真を撮ったか、一番気持ちよかった性交とは何か。女の過去を聞きたがらない男は、はたして人間らしいのか。はたして「男らしい」のか。間違っている。何もかもが間違っている。男は我慢ならない。男は女が他の男に抱かれたことが我慢ならない。あさましくも苦しいのである。醜くとも傷が痛むのである。どんなに女と性交をしたところで、その小ささは超えられない。

売春婦を娶らなければならない。誰にでも股を開いた女こそを娶らねばならない。なぜか。なぜそうか。女には過去がある。奪われた過去がある。取り戻せない関係性がある。他の男に抱かれたこと、そして、あるいはこれから抱かれてしまうこと、そのような関係性を、男は受け入れねばならない。誰しもがそうなのである。誰でもそうなのである。生きることにつきまとう痛苦を、なかったことにしてはならない。女を知るとはそういうことである。女を見るとはそういうことである。男は奪うのではない。男は与えねばならぬ。女は奪われるのではない。女もまた与えねばならぬ。

売春婦のごとき人生。娼婦のごとき生活。淫売のごとき毎日。男は嫉妬のあさましさを知るがいい。女は自らの弱さと愚かさを知るがいい。女も男もひとりぼっちである。相互不信と誤解でがんじがらめである。どこに道があるか。どこに人間に至る道があるか。女が雌犬であり男が性器のついた虫であるならば、どこに人間らしさがあるか。姦淫を止めることはできぬ。浮気を止めることもできぬ。たとえそれがどれほど苦しかろうと、お互いの姿を見て目を焼かれぬことなしに、愛などという戯言を成就することはできぬ。

見ることは傷つくこと。知ることは血を流すこと。盲いた両眼をもって、この世の売春婦どもに告げねばならない。お前の良人は、この私だ。