2012-05-25

埋葬者の午後

路上に、何かの動物の死骸があった。ぶちまけられた内蔵が、雨に流れていた。そしてどぶの臭いがあたりに満ちていた。頭上では、飛行機のエンジン音が響いていた。どこかで、誰かが死んだとしても、それを気にするものが誰もいないように、その動物もまた、あらゆるものに無視された死を謳歌していた。私は、交差点に立っている。ホテルでは女が待っているはずだった。風は冷たく、雨水が傘から落ちて肩を濡らしていた。

ネットでは、大人にカネをねだるガキの話でもちきりだった。女子供が、大人にカネをねだる仕組みを作って、それを吹聴していい気になっていた。まったくどうしようもなかった。ネットはもはや現実でしかなかった。大人の財布からカネを抜き取ることだけを考える女子供にあふれるこの現実と、ネットはもはや一ミリも変わらなかった。人間に価格を付けてラベリングをし、商品として棚に並べたくてたまらない連中がどこにでもいた。容姿が、学歴が、性別が、商品として活用されていた。

女と、森の中にある博物館へと向かった。去年と同じように、草木は生き生きとしていた。緑が、光が、みずみずしかった。福島で燃え続ける原発から漏洩した放射性降下物のせいなのか、誰もそれを知らなかった。しかし自然はやはり、事故前よりもずっとうつくしく感じられた。森に足を踏み入れると、小道に猫の死体が転がっていた。カラスが腐肉をついばんでいる。そしてそのすぐそばの地面に、青、赤、黄色の野草が咲き乱れていた。何もかもがうつくしく、そして腐っていた。

博物館は、とても静かだった。そもそも客が誰もいないのだった。女をひとり中に残して、外のベンチに座って空を眺めた。近くに公園が見えた。そこに妻と息子が遊んでいる姿を思い出した。私は同じベンチに座っていた。そしてその瞬間までそれを思いださなかったことを、奇妙な驚きを感じた。空を、巨大なジェット機が飛んでくるのが見えた。すぐ頭上を飛んでいくジェット機は、巨大な鋼鉄の棺桶のようだった。ベンチの足下に、何かが落ちている。それを拾おうとしたとき、女が戻ってきた。

女とはソウルで初めて会った。ソウルは、灰色の雲に包まれて見えた。飛行機で数時間、それはほとんど国内旅行と変わらない距離のように感じられた。私はウィルス性大腸炎を罹患したばかりの身体で、仁川国際空港のゲートをよろめきながら通過した。まったくひどい体調だった。ふりかえって考えてみれば、何もかもが中途半端で、体調のほうはといえば、自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらも不明なような状態と言えた。ゲートを出ると、女が待っていた。ふたりとも、眼をそらしてしばし立ち尽くした。そして私のほうから抱きしめた。

女たちは、いつも携帯のあちら側にいた。ディスプレイの向こう側にいた、と言っても同じことだった。現実にあるものはどれも味気なく、つまらなく感じられた。興奮、や、熱狂、は、知り得ないもの、見えないもののあちら側にあるような気がした。だから知ってしまえば、それはタネ明かしされた手品と同じで、何の魅力も感じられないものだった。遠くで、妻が私を呼んでいるような気がした。振り返ると、それは妻ではなかった。女だった。女は、知らずと、妻が私を呼んでいたものと、まったく同じ愛称を作って、私を呼ぶようになっていた。

道で死んでいた動物の名前はわからなかった。次の日、性行のしすぎで痛む腰をさすりながら道に戻ると、死骸はいつの間にか消えてなくなっていた。もちろん、ものはどこかに消えてなくなったりはしない。ひとの気持ちは常にあいまいで、確かだと思った愛情はいつでも滅びる。だから確かなのはものだけだ。私は財布を手で探り、カネの重さを確かめる。カネは、モノだろうか。違った。おそらくそれもまたフィクションの一種だった。道には、車が走っていた。死んでいた場所に、手を合わせたいような気がした。どこを見ても作善と偽善だらけだった。

2012-05-14

五十人の女たち(10)

深夜に車を走らせている。道には白い霧がかかっていた。ヘッドライトが濃霧を切り裂こうとするが、視界は最悪だった。街はまるで白く濁った液体に浸されているようだった。助手席には誰も座っていなかったが、誰かがそこにいるような気がしていた。街には誰もいないように思えた。いや、実際にはそこにはたくさんのひとびとが住まい、それぞれの住居で食事をし、会話をし、性交をしているはずだった。しかし霧の中では何一つ見えないのだった。

女は妻の後輩だった。たまに家まで遊びに来ていた。妻の所持していたよくわからないゲーム機を使って、ふたりが居間の巨大なテレビの前に座って遊んでいるのを眺めていた。子供が、その後ろでミニカーを走らせていた。私はキッチンで煙草を吸っていた。時間はすでに深夜に近かった。女はどこかの大学に通っていた。夕食のときに彼氏の話などを聞いた。退屈な話でしかなかった。私は別の女へのメールを携帯で書きながら、妻と女の話に適当に相槌をうっていた。つまらなかった。

二階の書斎に戻ると、猫がやってきた。一階の居間から、妻と女が笑う声が聞こえてきていた。猫を膝の上に乗せながら、ぼんやりと外を眺めた。東京には珍しく、霧が出ていた。白濁した精液のような濃霧だった。窓のすぐ外にあるはずの公園も、そのあちら側にある住宅も、まったく見えなかった。そこにぼんやりと街灯の光が浮かび、まるで怪物の目のように光っていた。しばらく、そうしてうとうとしていただろうか。隣に、誰かがいる気配を感じて目を開いた。そこには妻のパジャマを借りた女が立って、私を見ていた。どんな部屋なのかと思って、と女は言った。起こしちゃいました、根本さん?

子供は苦手なんです、と女は言っていた。私もそうだ、と思いながら、珈琲をすすった。女とはたまに二人で会う仲になっていた。新宿の珈琲店を、いろいろ紹介していた。それはいつも女たちを連れ込む喫茶店だった。話しているうちに、女がまだ処女であることがわかった。それは妻と同じだった。それに気がついて、珈琲の表面を見た。そこにはもうすぐ三十歳になろうという、老い始めた中年の疲れた顔が映っていた。それがまるで自分のものとは思えず、女の横顔を見た。女は携帯ゲーム機の話をしていて、それは私には世界のあちら側の天候の話のように聞こえた。作り笑いをしようとして、それができない自分に気がついた。根本さん、だいじょうぶですか、と女は言った。なぜか、動悸が激しくなった。

女からメールがたまに来るのを、楽しみにしている自分に気がついたのは少したってからだった。ほかの女たちと、メールをあまりしなくなっていった。チャット、SNS、二つの携帯でのやりとり。女たちはどこにでもおり、いくらでも探すことができた。しかし一度作り笑いに気がついてしまえば、そこに残るのは単なる疲労だった。女は、彼氏とは別れたという話をそのうちに聞いた。そしてそんなことでどこかしら喜ぶ自分を、苦々しく思っていた。妻は、ようやく子供を受け入れてくれる幼稚園を見つけて、忙しくしていた。障害を持つ子供を、大人たちが協力しあって育てる、というきれいごとをうたう幼稚園だった。どうしても興味が持てなかった。近いうちに、女をきちんと誘おう、と思っていた。

霧が出た次の日の朝は、快晴だった。女は居間に布団をしいて眠っていた。珈琲を飲むためにキッチンまで行くと、女の白く、なめらかな肌があらわになっていた。床に、斜めに太陽が差し込み、女のむき出しになった腹にあたっていた。公園から、子供が遊ぶ声が聞こえてきていた。私は珈琲を持って二階に戻り、ベランダに出て、煙草に火をつけた。日の光が、あたたかかった。昨晩怪物のように見えた街灯が、錆びついたみじめな姿をさらしていた。煙を吐き出すと、足元に巨大な蜂が死んでいることに気がついた。スズメバチだった。近くにある森に住んでいる巨大な蜂だった。それをサンダルで蹴り飛ばすと、死体はからからに乾いていたのか、粉々に砕け散った。妻が、起きてきた気配がした。また、根本さん、と呼ばれたい、と思った。その日は妻にも笑顔で話しかけられそうな、そんな気がした。

2012-05-13

五十人の女たち(9)

男だけが汚れから自由だった。女だけがいつも汚れていた。女だけが過去の性行為を責められていた。女だけが過去に寝た男の数を問われていた。それは男が小さいからだろうか。それは男がおろかだからだろうか。「私は違う」という主張でその考えを超えることができるだろうか。どれも否だった。何もかも否だった。そのどうしようもない場所から始めるほかなかった。そのみじめな場から歩き出すしかなかった。

女が留守にしている間に、手洗いを借りていた。浴場の扉が開いており、そのなかには下着が山と積まれていた。およそ考えうる限り、ありとあらゆる下着が、浴場の青いタイルの上に積み重なっていた。黒ずんだ下着は月経か黒カビだった。膝ほどの高さまで積み上げられていた。何もかもが汚れきっていて、そして強烈な悪臭を放っていた。私は扉を閉め、見なかったことにして用を済ませた。部屋は、小奇麗にされていた。男に見られたくない何か、は、その浴場に似ているのかもしれなかった。

女とは大学の知己だった。偶然手にとった写真誌のヌード写真の一枚に、女の写真が掲載されていた。股を開き、頬を赤く染めた女が、写真には写っていた。入学式のすぐ後に開かれたオリエンテーションキャンプで、女とははじめて話した。長野から出てきたという女は、はにかみながら、自分の名前と出身地を私に語った。授業が始まって、女は突然変わった。何があったのか、それは本人しか知らなかった。しばらく休んだ後、突然派手な服装をし始めていた。あいつとやったという噂を、あちこちで聞くことができた。

当時私が所属していた大学のとある会で、女と再会した。女は西東京の小さなアパートに住んでいた。大きな森のそば、小さな二階建てのアパートだった。夜になると、梟の鳴く声が聞こえた。女は、はじめて見たときと同じように、白く、雪のようになめらかな肌をしていた。写真の話は聞かなかった。誰とでも寝る女と、寝てみたかっただけだった。机の脇に、写真立てがあった。母親と二人で写っている写真だった。女を抱きながら、その写真を眺めた。女はつまらなそうに目を閉じていて、私は壁にできたシミを数えていた。

ベッドに座って、妻からのメールを眺めていた。女は、私に背を向けて横たわっていた。女の背中は、いつもどこかしら似ていた。どんな男も、女の背中に見える拒絶が恐ろしいのだった。部屋には、かすかな臭いがただよっていた。部屋に来たときには気付かなかったが、それは、浴場に貯めこまれた洗濯物の臭いに違いなかった。女は汚れているだろうか、と思った。それでは男はどうか。男は汚れていないのか、そう思った。壁には、女のピンク色の服がかかっていた。妻の服に、似た服が一枚あったような気がした。しかしよく思い出せなかった。窓の外を見たかった。しかし窓は曇っていて、外にあるはずの夜空は、まったく見えなかった。きっと何もかもが灰色にくすんでいるに違いなかった。

2012-05-12

五十人の女たち(8)

お子さんは、うちの幼稚園ではお預かりしかねます、と入園を断られた話は、ジャカルタへの出張から戻った晩に聞いた。私はトランクを居間に置いて、畳の上にスーツを着たまま倒れこみ、天井を見ていた。成田空港からの長旅で、身も心も疲れきっていた。動けないまま、明日書かねばならぬ出張報告書のこと、ポケット中に入ったままになっている店の女の名刺のこと、そして手持ちのカネのことを考えていると、二階で子供を寝かしつけてきた妻がやってきて、私のとなりに座ったのだった。だめだった、と妻は言った。何が、と私は言った。もちろん、答はわかっていた。そして私は何もいうべきことばを持っていなかった。誰かに、何かに対する怒りだけがあった。スーツのポケットの中で、携帯のメール着信音がした。

女は大学の頃の知人で、一度だけ妻と三人で遊びに行ったことがあった。その内容はほとんど覚えていない。覚えているのは、ガラナが入った飲み物を飲んだとき、「それって精力剤だよね」と笑いながら女が言っていたことだった。女の身体はどこも柔らかかったが、その身体にはガラスの破片が混じった砂のように、うかつに触れると指を切りそうな危うい印象があった。なぜそう思ったのかは、よくわからない。女とは二三度寝たが、すぐに飽きた。女もそう思っているようだった。一度寝た後にアドレスを携帯の連絡先から削除し、二回寝た後には電話番号を連絡先から削除した。しかしたまに連絡はしていた。発信者名がない、アルファベットと数字の羅列が女のすべてだった。

できたらおろせばいい、と女は言っていた。女は普段避妊しないと言っていた。何が女をそうさせたのか、よくわからなかった。純粋に経済的な理由で、男は避妊具を使うようになるものだった。女のそれはどういう意味だったのか、後になって薄々気がついた。女はまるで自傷をするように、男と寝ることがあるのだった。しかし詳しくは質問しなかった。女もまた、私の子供について、何も質問しなかった。そしてそれを心地良いように思っていた。お互いに無関心であることが、なによりも必要なことだと感じていた。聞いてはいけない、訊ねてはいけない、ほんとうのことを聞いてしまえば、関係はすべて終わってしまう。さらさらと崩れる砂の城のように、影も形もなくなってしまうのだった。

汚れた皿が、キッチンに積み上げられている。妻は病気で寝こんでいた。子供は居間でひとりクレヨンで絵を描いていた。ふつうの幼稚園には行けない、ということはもうわかっていた。親ができることなど何もない、と思った。窓の向こうにある公園で、子供らが遊ぶ声が聞こえた。息子が、私を見た。私は目をそらして、キッチンのテーブルに腰を下ろした。女からのメールが来ていた。いまなにしてる、と書かれていた。息子が、私を見ている気配がした。とくになにも、と女に返事を書いた。正午さんってさ、と女が書いている。何、と私は訊ねた。ほんとうは、ママのこと、愛しているの? と、息子が口にした気がした。そんなことはありえなかった。そもそも言葉がまだしゃべれないのだ。そんなはずはない、と怒鳴りたくなった。女からのメールはそれきり途絶えていた。視線に耐えられなくなって、家の外に出た。雨は、降っていなかった。庭に、園芸用の砂がこぼれていた。さらさらと、乾ききった砂を踏みしめた。踏みにじられる砂が、悲鳴のような音をたてた。

2012-05-10

夢と希望のインターネット

そんな事で自殺したら駄目だよ。就活がうまくいかなければ、起業でも何でもしてみよう。死ぬ気になれば何でも出来るはず。 :「就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に」(読売オンライン) 

https://twitter.com/#!/matsudakouta/status/199756070531497984

ひとは他人の死を経てしか死を知ることができない。自分の死は常に不可視である。つまり「死ぬ気」とはしょせん喩でしかなかった。ひとの死について語ることはいつでも容易であり、だからこそ何かを死ぬ気でやることが称揚されていた。

自らの死について考えることは難しい。記憶の保存装置たる脳が死ねば意識は消失する。魂などというものはない。そう考えた漱石は、自分の遺体を検体として提供し、その脳は死後東大で保存されることになった。死と向き合うことは常に難しく、それはたとえば、死後自分の身体をばらばらに切り刻み、標本にすることを是とするような意識のことだった。

就職しなければ、この閉塞したいびつな社会からのけ者にされ、つまはじきにされ、行き場を失ってしまう、という誤謬を強いる現状があった。それを「やる気」や「努力」で超えることはできなかった。構造的な枠組みが個人に強いるものの大きさを考えたとき、それをひとりの小さな個人が超えることができないのは自明である。

起業すれば、自分は自由に生きられる。就職とは違う「新しい道」が開かれる。そういうのんきな夢物語、つまり妄想を嬉々として語るひとびとの鈍感さに耐えられないひとびとがいた。この手の鈍感なひとびとの口はいつも同じ臭いがした。その声は大きく、その顔はいつでも図々しかった。生まれてから一度も、弱さとは何かと考える必要がなかったひとびと。まったくしあわせなひとびとだった。

罵声も、怒声も、悲鳴も、無力感も、その中に閉じ込められそこからけして出られない閉塞感も、ひとつも経験せずとも生きてこられた鈍感なるひとびとの顔は、いつも同じだった。こういうひとびとがこの社会、いや、どの社会においても、たいていの場合カネと権力を持っているのだった。なぜなら、そうでなければ、この苛烈な競争のなかで生き延びていけないからである。つまり生きるとは鈍感さを自らに強いることであった。

死ぬことは誰にでもできた。同じように、自殺もまた容易だった。手首に残されたためらい傷の痕を見ることはありふれたことだった。問題は眼に見える傷だけではなかった。ひとは自殺をしようとするとき、いつも誰かに救ってほしいと思っていた。かれに足りないのは勇気ではなく、最後の一線を踏み越える前に、それを止めてくれる誰かであるはずだった。優しさ、という陳腐なものを、誰もが必要としていた。そしてそれは、ひとりではけして得られない何かだった。それがなければ、生きながら死んでいくしかない。そしてそのような生きる屍を、私たちは毎日のように目撃していた。

だから、誰でもそうなのだ、とあきらめて生きるほかなかった。下をむいて、背中を曲げて、泥にまみれた地面を見ながら、敗北の人生を歩むしかなかった。顔には常に作り笑いを貼りつけていた。皆そうしているから、と思っているひとびとの諦念が、この巨大な状況を生み出していた。あまりにも貧しかった。あまりにもさみしかった。むしろそれは死よりも悪いものであるのかもしれなかった。むしろ自殺したほうがましかもしれなかった。「そんな事で自殺したらだめだよ」などと阿呆なスーツに説教される人生なら、家に火をつけて我と我が身を焼き尽くしたほうが、よほど華やかで満足に足る人生なのかもしれなかった。

どこまでも理解されなかった。自らの理解のまったく及ばない場所に対して、どこか上だと自分が思っている場所から、あたりかまわず泥を投げつける連中が、この社会に群れていた。しかも本人はそれを善意のアドバイスだと思っていた。まったくお話にならなかった。偽善と自己保身とおためごかししかなかった。こういうひとびとがTwitterに、Facebookに、ありとあらゆるSNSで幅を効かせていた。あらゆる場所に、まがいものの夢と希望が転がっていた。

お前たちはこれでいいのか、と問うことからはじめなければいけなかった。就職と起業にしか「夢」や「希望」がないと主張する、無知で恥知らずな連中の戯言にまどわされる人生は、あまりにもむなしかった。むしろ必要なのは、この張りぼての城を叩き壊す何かでなければならなかった。それは銃だろうか。それはナイフだろうか。違った。そんな前近代的な暴力でこうした連中の愚昧さを叩き潰すことはできなかった。こうした連中の鈍感さを殺しつくすことなどできなかった。手に入れなければならなかった。書き記した瞬間紙が燃え上がる温度をもったことばを、お前たちは手に入れねばならなかった。それはどこにあるか。それはどこで手に入るか。いまさら言うまでもない。私が。