2012-07-10

人間にいたる道

答はつねに自明だった。もっとも簡単なことだけが、いつも忘れ去られていた。

銀座のバー「T」のカウンター、一番奥の席が気に入っていた。光沢のある分厚いテーブルの上に肘をつき、凝縮されたカネの味がするコーラを飲みながら、テレビを眺めた。相変わらず、放射能と原発のニュースばかりだった。東京に来るのは二ヶ月ぶりだった。去年と何も変わっていなかった。客先のひとびとは、一様に明るい顔をしていた。「不景気ですね」と笑っていた。そうですね、と私も答えた。無関心であることこそが作法だった。

たとえば、被災者たち、とテレビは報道していた。かれらが、放射能汚染によって故郷を追われたひとびとである、という事実の側面は報道されなかった。まるで、地震と津波だけが避難の理由であるかのように見えた。しかし、むろんそうではなかった。暴走した原発がまき散らした放射性物質が、かれらにいつ帰れるかわからない避難を強いているのである。このような隠微な歪曲はなぜ行われるのか。

それはもちろん「日常」たる曖昧模糊とした怪物を守るために行われるのである。原子力発電所がなければ、電気を好きなだけ使い、モーターで回転するベッドの上で朝までセックスする生活は帰ってこないのである。アジアで大きな顔をして先進国ぶっていた時代も帰ってこないのである。SNSを駆使して援助交際する生活も、安定した電気供給がなければけして戻ってこないからである。そのために原子力発電所がなければならず、そのために事実の隠蔽が行われるのである。

そしてこれがメディアの陰謀などと思ってはらない。そしてこれが誰か「第三者」のからくりなどと思ってはならない。私たちである。日常を望んでいるのはほかならぬ私たちである。嘘だらけの、ごまかしだらけの、偽善とおためごかしだらけの生活に復帰してほしいと希い、そしてこの糞まみれのテレビを、ネットを、出版を許容しているのは、他ならぬ私たちなのである。彼らは需要に応えているだけで、その意味で私たちの奴隷にすぎないのである。私たち自身が、誰よりも、かつての日常に戻ってきてほしいと思っている。だからこそ、腐った政治家たちによる腐った談合政治が、いまもなお図々しい顔をして存続できているのである。

学者たちが言うように、放射能によって直接的な死者は出ていない。汚染によって、土地を追い出され、生活を、思い出を、関係性を奪われた数万人がいた「だけ」である。この「だけ」の重さが、数字に出てくるはずもない。それは踏みにじられたこころの重さである。それは傷ついた魂の重さである。誰も、それを補償できない。誰も、それに同情してくれない。日常という装置を取り戻すためには、その理解が邪魔なのである。知ってはならない。わかってはならない。そして今日も、うつくしい嘘ばかりが生産されるのである。

こころの重さ、を感情論と切り捨ててはならない。自分だけが知性があると勘違いしてはならない。平凡さとは、自分が非凡だと考える、あるいは考えたいこころの動きのことである。そのような平凡さを、私たちはTwitterで、Facebookで、G+で、毎日のように目撃している。この愚かさを、どのように超えられるだろうか。愚かさばかりが可視化されるネットで、もう私たちの断絶はとどめようがないように見える。文系や理系などといった、口にするのも馬鹿馬鹿しい対立に、男と女、右翼と左翼、原発推進に反原発。そもそも、私たちは、集団に所属する前にひとりの自立した個人である。愚かさばかりが大声を上げるネット、いや、この社会においては、そんなことすら見えなくなりつつある。目を背けて、すべてを投げ捨てたくなるのも道理だった。

女から、少し遅れます、とメールがあった。私はスツールに座ったまま、いつもの席で待っています、と返事を書いた。そして財布の中のカネを数える。一晩ここで過ごせるぐらいのカネはあった。テレビでは、反原発デモの様子が映されている。電力がなくとも、性交はできる。ただし避妊具がなければ、それは趣味たりえない。そう思って、ひとりで笑う。もはやセックスだけが、ゆいいつ、人間にいたる道なのかもしれない、そう思った。