2012-08-28

韓国女との性交または竹島問題

毎日のように韓国女とセックスをしていた。ソファのあちら側には、テレビが置かれていた。昨日も今日も明後日も、ニュースが竹島問題を報道していた。しかし報道されないこともあった。しかし語られないこともあった。いつでもテレビは同じだった。あるいはネットも同じだった。<ほんとうのこと>だけは常に語られないのだった。何もかも空疎だった。まったくお話にならなかった。

いつもセックスだけがリアルだった。いや、こう言わなければならない。<性交>だけがリアルだった。それだけが実体を伴った現実把握をもたらしてくれた。韓国が女であるとすれば日本は強姦者だった。竹島は日本が残した精液の残滓の一部だった。そのようなことだけが忘れ去られた。いつでも日本は<被害者>だった。

冗談ばかりだった。毎年のようにこの時期に行われる戦没者追悼式典があらわす綺麗事から忘れ去られるもの、それは拳についた血と精液のシミでしかなかった。暴力だけが忘れ去られた。当事者の名誉ある死よりも語るべきことがあった。当事者の美しい自決よりも語られるべきことがあった。それは暴力をふるう喜びだった。

弱者を踏みつけにして、快哉を叫ぶことができる人間の有り様だった。それは固有民族の持つ暴力性などではないことだけは明白だった。それが固有の民族だけにあらわれる醜さや汚さと思うことだけが間違いだった。毎日のように行われる強姦と暴行と虐待こそ、私たちが見なければならぬ私たちの隠された貌だった。

いつでも仮面をかぶっていた。いつでも美しい貌をしていた。何もかも汚らしいと言いたいような気がした。いや、違った。一番醜いものは、その醜さを受け入れることができず、それを<だれか>に転嫁するこころの動きそのものだった。または、そもそも<なかったこと>にしようとするこころの動きそのものだった。男は女に暴力を振るう。男は女を強姦できる。それだけが男の定義だった。

男はいつでも人間ではなかった。しかしだからこそ男には人間になる契機が女よりも与えられていた。自らが下半身に駆動される虫けらでしかないこと、そのことを知る契機が、女よりも与えられていた。日本はどうか。日本人はどうなのか。あらゆる契機を与えられながら、それを無視してきた。あらゆる機会を与えられながら、自分がやったことをだけを見ないことにしてきた。

押し付けられた平和という理念を自ら選びとるとは、自ら去勢を受け入れるということ。それは良かった。そこまでは良かった。しかしその後はどうか。去勢をして自らが強姦者であったときの快楽を忘れること、これだけは許されなかった。強姦は楽しかった。暴行も楽しかった。侵略も快楽だった。何もかもが快楽で、<世界一>という美酒に酔った。ほんの二十年前にもそのようなことがあった。そしてそれは惨めに滅んだ。

歴史はフィクションである。メディアもフィクションである。戦争責任なるものは文学に過ぎなかった。しかし、リアルなものはあった。しかし、痛みを伴う認識はあった。それを取り戻すために生きなければならなかった。強姦しなければならなかった。性交をしなければならなかった。この現実とあちら側の現実を架橋するために、いまひとたび加害者にならなければならなかった。

<暴力>こそが男の本質である。虫けらの下半身を持つ男はいかに人間になれるのか。奇形児たる男がどのように人間になれるのか、その手法を問わねばならなかった。その姿勢こそ考えねばならなかった。竹島問題は男女問題である。すなわちそれはセックスの問題だった。誰にとっても身近な、誰にとっても切実な契機であるところの<性交>こそが、この恐るべき現実に立ち向かうためのゆいいつの道しるべである。