2012-09-19

日本人は衰退しました

すべてが<仮面>をめぐっていた。その下にいかなる顔があるか、それがいつも問題だった。それがいつでも喫緊の課題だった。

なぜ日本はダメになったのか。なぜここまで落ちぶれたのか。誰しもがそう思っていた。豊かなはずだった。ネットがすべてを繋げたはずだった。言論の自由があるはずだった。しかしあらゆるものが貧しかった。なぜかすべての人間が孤独だった。発言はすべて監視され息苦しかった。日本は衰退していた。

どうして自分はひとりぼっちなのだろう、どうして自分は満たされないのだろう、どうして毎日がただこれほどまでに苦しいのだろう、そう思わずにはいられなかった。そう感じずにはいられなかった。表層的には誰しもがしあわせに見えた。誰しもが満ち足りて見えた。<自分>以外のひとびとだけは、ネットというユートピアに安住しているように見えた。

子供たちが「在日は朝鮮へ帰れよwww」と書き込みをしていた。「民度の低い中国人ワロスwww」と書き込みをしていた。生まれてから一度も韓国人と話したことはなかった。人生で一度も中国人と対話したことがなかった。そもそも外に国があることを知らなかった。無知なのにそれでよかった。何も知らないのに誰もそれを責めなかった。子供は終わっていた。それは教育の敗北だった。

男はどうか。さらに悪かった。マスターべーションしかなかった。自慰のためのグッズばかりが進化していた。自慰のためだけの商売だけが繁盛していた。もはや女性器は必要なかった。PCのディスプレイの前に座り、三回ほどクリックすればそこにはあらゆる女性器が陳列されていた。まったく自慰の世紀だった。その暴力性は、強姦、暴行、性虐待を描いた漫画とゲームによってうまく飼いならされていた。男は終わっていた。それは勇気の喪失だった。

女はどうだったか。これもひどい有様だった。しかし女はまだましだった。女にはまだ男に失望するという贅沢が許されていた。男が自慰をする脇で、このなさけない生き物をいかに利用するか考える余裕があった。女は自分が女性器どころか自慰道具であることをよく知っていた。だから夫をそのように扱った。夫は単なるATMだった。女もまた孤独だった。女も終わっていた。諦念が女たちを腐らせていた。

衰退した国は、自らの衰退に気がつかない。この悲惨な現実を直視する、そのためには力が必要だった。眼を開くためには大きな勇気が必要だった。それだけを<想像力>と呼びたい気がした。

この現状を憂えるポーズを取る「言論人」たちの言うことはいつでも同じだった。かれらの職業は一様にカタカナだった。いわく日本人は危機感を持たねばならぬ、いわく日本の危機はこのように解決されうる、そんな当たり前のことを書いてカネを稼いでいた。空っぽの危機感を煽ることこそがかれらの商売の秘訣だった。自分が目立つためなら何を利用してもよかった。もちろん利用されたのはどこかの誰かの不幸だった。弱者はいつでもかれらを肥え太らせるために利用されるのである。

日本人の危機感! まったく愉快な冗談だった。口先だけの危機がまかり通っていた。ことば遊びにすぎない危機感が蔓延していた。いわく、原発問題、高齢者社会、格差社会、安全保障問題、言論統制。そのすべてがお遊びにすぎなかった。いや、こう言い換えよう。これらの諸問題は、もっとも重大で、もっともおそるべき問題から眼を背けるための、単なるごまかしにすぎないのである。

この国の真の問題とはなにか。ほんとうの危機とはなにか。それは<距離>である。

話はきわめて単純だった。私たち、ひとりひとりの距離が問われていた。それはかつてないほどに遠ざかっていた。何もかもを繋げたとされるネットが、あらゆる人間を騙していた。ネットを称揚するIT屋たちが、けして口にしない真実があった。ネットを利用してカネを稼ぐライターたちが、けして語らない事実があった。それから語り始めねばならなかった。

ネットによって日々殺されるのは<ことば>を奪われたひとびとである。かれらについて語ることからはじめなければならなかった。なぜなら、それは私たちのことなのである。どこかのだれかの不幸などではない。どこかの国の他人事ではない。これは、私たちの不幸なのである。これは、私たちの災いなのである。よってここが、私たちのよって立つ倫理の在処なのである。

語り口を変えねばならない。男は買春をする生き物である。男は浮気をする生き物である。男は<暴力>をふるう生き物である。しかし男は変化していた。しかし男は終わりつつあった。男の定義が変わりつつあったのである。

現代の男を定義するならば、それは「自慰をする生き物」にほかならなかった。

女が怖かった。他者が怖かった。拒絶が怖かった。女から「嫌い」と言われることを恐れて、自分から憎悪を女に投げつけていた。それによってもっとも恐るべき軽蔑からこころを守っているのである。引きこもって何をしていたか。自慰をしていた。毎日自慰をしていた。朝も昼も夜も自慰をしていた。

アニメが、漫画が、ゲームが、Twitterが、Togetterが、ありとあらゆる自慰のためのグッズが揃っていた。毎日シャセイして毎日ひとりぼっちだった。どこにも逃げ場はなかった。どこにも行き場はなかった。しかしネットがそこにあった。ネットがあればだれかと繋がっていると思えた。そう信じられた。しかしそれは嘘だった。それは詐術だった。ディスプレイの前でひとりで笑うだけの人生が残されていた。いや笑う顔を作る人生が残っていた。

「笑」と書くだけで、まるで自分が楽しいことをしているような、そんな気になれた。「w」と書くだけで、まるで自分がだれかよりえらいような、そんな気になれた。まったく楽しかった。まったくしあわせだった。まったく仲間だらけだった。現実は友達だらけだった。現実は<仲間>だらけだった。しかしそのどれもが腐っていた。しかしそのどれもが虚しかった。そこには超えることのできない距離があった。

生きるか死ぬかという問いの前に、はじめて危機感が生まれるはずだった。しかしそのような問いが生まれるはずもなかった。そもそも生も死も現実離れしていた。ネットでだれかが死ねばそれはエンターテイメントだった。ネットでだれかが事故ればそれは嬉しかった。ネットでだれかが「悪いこと」をすればそれは祭りだった。そもそも<想像力>は完全に損ねられていた。

もはやネット回線を切断するだけではこの問題を乗り越えることはできなかった。もはやIT屋のニヤニヤ顔を殴打するだけではこの現実を乗り越えることはできなかった。すなわちTwitterやGoogle本社を燃やしても何も手に入らないのである。何も取り戻せないのである。どうしたらよいか。何からはじめればよいか。それこそが問うべき価値のある課題だった。

孤独だった。それが最大の問題だった。ひとりぼっちであることが問題だった。孤独は死に至る病だった。そんなことすら忘れられていた。衣食住が足りているだけではひとは生きることはできなかった。真に生きることだけがいつでも困難だった。努力によって貧困をようやく乗り越えた私たちに示された新しい課題とは、いまだかつてだれも直面したことがないアポリアに相違なかった。

ネットがもたらした孤独という毒こそが、この国を衰退させる最大の<公害>である。

むろん、この無限の距離をめぐる問題は日本だけのものではなかった。だからこそ世界で日本のアニメが称揚されていた。ひとりで部屋にこもって、ネットをして、だれかと繋がっていると考えて癒される、そんな寂しい自慰的生活に、日本の箱庭的アニメ作品はぴったりだった。そこに存在しなかったのは他者だった。そこになかったのはつながりだった。孤独だったがそれは認識されなかった。ひとりぼっちなのに友達がいるかのように思えた。公害は国境を超えて広がっていた。そしてさらに拡大の一途をたどっていた。

しかし誰かのせいにしてはならなかった。愛人とセックスすることしか考えない政治家、自己正当化ばかりが得意で謝罪ができない団塊の世代、名声と名誉と女遊びのことしか頭にない言論人、セックスによるセックスのためのセックスの人生しか送れない芸能人、ありもしない大義を求めて右往左往するネット右翼にネット左翼、国のために働いた対価として得られたカネで女を買う官僚、この陰惨な現実から眼を背けて「料理」や「ゲーム」や「趣味」や「写真」の話に逃げ続けてきたかつてのアルファブロガーたち、カネのことしか頭にないくせに公益について語るIT屋とシステム屋と携帯屋、かれらのせいではもちろんなかった。ネットが、私たちがこうなったのを、無能なこれらのひとびとのせいにすることなどできなかった。

それは韓国人のせいでも、中国人のせいでも、北朝鮮のせいでも、アメリカのせいでも、石原慎太郎のせいでも、猪瀬直樹のせいでも、野田佳彦のせいでも、自民党政権のせいでも、共産党のせいでも、民主党のせいでも、女のせいでも、男のせいでも、むろん売春婦のせいでもなかった。

私たち自身の責任だった。私たち自身のだした答だった。成熟することから眼を背けた。汚い事実から眼を逸らした。成長を選ばなかった。他人を恐れ、つながりを拒否した。ひとりで自慰をすることを選んだ。日本人の<総意>の責任だった。

自慰とはなにか。それは性器をこすることではない。ユートピアを夢想し、テレビの前に座って人生を過ごすこと、架空の愛人と生活すること、愛国的行為にふけること、ファンタジーに埋没すること、他者とのかかわりを拒否してナルシズムに浸ること、それらすべてが自慰的行為だった。そして自慰的行為だけがどんどん容易になっていった。それを私たちみなが知っていた。全員が気づいていた。なぜならネットが可能にした自慰は麻薬的快楽をもって、私たち全員を中毒にしていたからである。

話を戻そう。私は、<カネ>と<おまんこ>がなによりも好きである。このふたつのためなら死んでもよいと思っている。このふたつのためなら生きてもよいと思っている。このふたつのために短い人生を賭する価値があると思っている。

仮面とはなにか。あなたたちはそれをよく知っているはずである。仮面はどこにあるか。あなたたちは毎日それを見ているはずである。しかしそれを外すことはできぬ。しかしそれなしにはもはや生きられぬ。嘘をつかねば、大切なことを隠さねば、表情を殺さねば、この社会の巨大な圧力にひき潰される。私もまたそのひとりである。私もまた平凡な一市民である。しかし小さな声をあげることだけは許されている。語ることと考えることだけは許されている。すべての自由が奪われて家畜として生きることを強いられていても、なお<人間>として生きることだけは可能である。

そのためにまず問わねばならない。何を欲しているのか問わねばならない。薄っぺらな理念を投げ捨て、ネット回線をハサミで裁ち切り、私たちを閉じ込めるこの巨大な<部屋>の壁をぶち壊すことからはじめなければならない。自らがもっとも欲望するものはなにか、答は<カネ>と<おまんこ>である。これこそが世界の真実である。ゆえに私は語らねばならない。口にすれば肉が燃え上がるようなことばをもってそれを語らねばならない。つまり買春と性交だけが真実へといたる道である。あなたたちは何を見出すか、あなたたちはどこへ向かうか、あなたたちは何のために生きるか、いま、ここに。