2012-10-12

聖娼婦インターネット

なぜ、私たちはネットに戻ってきてしまうのか。ネットより大切なものはいくらでもあった。ネットより必要なものはいくらでもあった。しかしそれでも戻ってきてしまった。それでも帰ってきてしまっていた。なぜだろうか。ネットは、私たちの<こころ>をつくっている。それが、ネットの持つゆいいつの力だった。


カネを稼ぐこと以上に、大切なことがあっただろうか。あるいは<おまんこ>よりも、必要なものがあっただろうか。札束をはたいて遊興費に使う、朝と夜に別のおまんこと遊ぶ。それ以上になにかがあったのだろうか。あったのだ。確かにあった。ネットには、それに勝るなにかがあった。それには抗えなかった。仕事をしていても、買春をしていても、妻と家族ゲームに興じていても、愛人と恋愛ごっこをしても、遠距離メル友女子中学生と仮想結婚しても、子供の担任と学校で大げんかをしても、それでも、それでも、ネットが必要で、ネットがかけがえのない相手で、ネットを愛していた。

しかし、ネットのどこを見ても、魅力のひとかけらも見つけられなかった。それは明らかだった。それは認めなければならなかった。狭苦しい田舎の村のような閉鎖的で陰惨なコミュニティばかりが眼についた。どこも似たような感じだった。こうした村では、となりの家の献立がどうとか、給料がどうとか、仕事がどうとか、奥さんとのセックス回数がどうとか、そうしたくだらぬことばかりが話題になるのだった。なぜならそれ以外の<世界>は、かれらの言語空間に存在しえないからである。だからこそ、ネットはそれぞれ小さな<村>に分断され、ばらばらにさせられたまま、お互いのやりとりをすることもできない状態で、孤独な王国としてあちこちにひっそりと存続せざるを得ないのである。こうした田舎者の娯楽は、もちろん<悪口>だった。それはとても大切なエンターテイメントだった。都会の人間が洗練されたほのめかしや悪意を用いてイヤミったらしく悪口を言うことと比較すると、これら田舎者の人々の使う悪口は子供のそれであり未熟かつ幼稚で、性器が小さいとか顔が曲がっているとか髪の毛が薄いとかいう「眼に見える」「わかりやすい」特徴ばかりをあげつらうという特徴があった。しかしこの悪口こそが<村>をまとめる秘密であった。そして同時に最高の時間つぶしだった。ひとの悪口ほど楽しいものはない、そのような真理をもう一度口にしないわけにはいかなかった。ネットに魅力はないのだろうか、ないように感じられた、まったくもって、ひとかけらの魅力もないように感じられた。

まったく、ネットで何を読んでも、うんざりするような事例ばかりだった。たとえば原発をめぐる社会運動・活動、その人々の周りにわらわらと群がって「正義」を語る、けして自分では行動をしない人々がいた。こうした人々の「正義」は偽善とおためごかしの悪臭を放っていた。そしてネットはこの手の人々であふれていた。集合としてのかれらは、ほとんど人間には見えなかった。それはまるで自然災害の様相を帯び、巨大な無意識によって形成される<潮流>のように見えた。顔のない無数の匿名の人々によって形成される「正義」は、中心を欠いたアメーバのような不定形なものであり、あちこちに分散、連結、切断を繰り返すことでユビキタスに存在する、きわめて不気味で、威圧的なものになっていた。この<潮流>に囚われた日本国においては、かれらが「オープンなコミュニケーションの場」と呼んでいる、極めて陰湿ないじめ空間であるネットに、恣意的な基準にて選び出された不幸な「わるもの」を連行してきた上で、言葉狩りをし、嘲笑し、罵倒し、晒し者にすることは、すでに多くのひとにとって、良質なエンターテイメントのようなものとして考えられていた。この手の人々は、自分たちが踏みつけている靴の下に何があるのか、生まれてから一度も考えたことがなかった。むろん踏みにじられているのは、かれら自身の尊厳と人間らしさに他ならなかった。端的に言えば、それは<傷>に対する無理解だった。あるいは、傷の認識の不在だった。このような環境下において、ネットにうんざりしないわけがなかった、うんざりしない人間が果たしているだろうか、一人もいないように思われてならなかった。

それにしても、ネットでどんな話を聞いても、耳を覆いたくなるような事件ばかりだった。誰もかれもが、慈善家になりたがる時代だった。誰もかれもが、ボランティアになりたがる時代だった。まったくお話にならなかった。どこかの誰かの不幸のために、活動をする。それは悪いことでも良いことでもなくじゅんすいに各個人の心の満足と平穏の問題でしかなかった。しかし、そのことによって有名になろう、何がしかの利益を得ようとする人々、しかもそうした自己顕示欲を隠そうともしない恥知らずな人々、「善意」にまみれた卑しい行動をする人々ばかりが眼についてならなかった。そもそもこの世に善意なるものがほんとうにあるとするならば、それはもっとも小さな声で語られるのであり、誰にも顧みられないような場所で行われる、小さな行動に他ならないのである。ネットで公然と、大声で、厚顔無恥かつ下品に慈善や寄付について語る人間を信用できうるはずもなく、こうした人々を鼻で笑ってすぐに忘れてしまいたいところなのに、次から次へと、どこからともなく、腐った果実にわいてくる虫けらのように、「善意」の甘い汁を吸うために昨日も今日も明後日もネットにこうした連中が群がっているのである。そもそもカネとおまんこにしか興味がない少し進歩した猿にすぎない私たちが、慈善で<人間>に近づこうなど、思い上がりも甚だしく言語道断である。まったく耳を覆わんばかりの、うるさく下品な声ばかりがネットに溢れていて、いったいどうやったらこんなネットを好きになることができるだろうか、それはほとんど不可能を愛せよということに等しいのではないかと思われた。

ネットのいったい何が魅力なのだろう。そう、不思議に思ってしまうのも無理はなかった。TwitterやTogetterが振りかざす大文字の「公共性」の無意味さ、無価値さ、そうしたものに心のそこからうんざりし、吐き気をもよおしながらも、たしかに、それもまた人生の一部であると認めないわけにはいかなかった。世界のど田舎たる日本に住まい、日本語によって構成されるネット言語圏、ネットスフィアに閉じ込められて生きる私たちにとって、そうした愚かさ、くだらなさ、醜さ、みっともなさ、矮小さといった、ちっぽけな人間性を、それもまた自分たちの一部であると、認めないわけにはいかなかったのである。思わず(笑)をつけて語りたくなってしまう、このどうしようもない2012年のネットの現実を、認めないわけにはいかなかった。

ネットは、偉大な<売春婦>だった。そのおまんこは、ありとあらゆるものをその中へ導き入れていた。男がどんなに馬鹿であっても、どんなに人間として品性下劣であっても、ネットという売女はそれを喜んで受け入れた。ネットはまるで、汚ならしく品性下劣な田舎者たちが集まる町に、突然舞い降りてきた聖娼婦マリアのようだった。売女はカネを持った男を財布として扱うという。それだけのために売女は股を開いているという。そのようなことは、一度でも買春したことがある男や、結婚したことがある男は誰でも知っているという。しかし、違うのだ。そうではないのだ。誰とでも寝る<売春婦>こそが可能性である。

売女がいない街は不気味だった。売女が見えないことになっている街は気持ちが悪かった。それは不浄なるものを覆い隠す<社会>の圧力の結果だった。ネットはどうだったか。ネットは売女だらけだった。ネットはポン引きだらけだった。ネットは馬鹿と阿呆と暇人と金髪と東浩紀だらけだった。そしてこれこそがネットのゆいいつの可能性だった。これだけがネットの楽しさだった。これだけがネットが存在しそのために存在し続けねばならぬ理由だった。だからあなたたち愚か者にもここに住まうことが許されていた。だからあなたたち<追放された者>にもここに住まうことが許されていた。これを是としなければならなかった。それがいかなる苦痛と頭痛と嫌気をもたらしたとしても、なお、この現状を理解し、認め、受け入れねばならなかった。いや、ここで注釈を入れねばならない。ネットで一般的に言われる「理解」は、同じことばを使っていたとしても、まったく違う姿勢を指しているのである。知ることは傷つくことである。見ることは血を流すことである。そして、それだけが考えるという行為に値するなにかだった。

あなたたちの考える「理解」は、Googleで検索してどこかの誰かが善意で無償でフラットな世界のために書いてくださったテキストを読むことにすぎないのである。あるいはどこかのブログにSNSにTwitterに「考えさせられる」とハンドルネームでコメントして数秒後に全て忘れるその行為にすぎないのである。あるいは毎日ソーシャルサービスに記事を転載またはブックマークして「あとで読む」とタグを振って一度も読まないその退屈な行為にすぎないのである。それが「理解」の正体にほかならずそれ何一つ意味していない。それは毎日同じ時間に食事を取るのと何も変わらず、あるいは排泄行為と何も変わらない。そのような行為を考えると呼ぶわけにはいかなかった。そのような行動になにか積極的な意味を認めるわけにはいかなかった。そもそも<考える>とは生きること。その方法がネットにないことだけは明白だった。その方法に至る経路がネットに存在しえないことだけはわかっていた。ネットの中にいて、かつ生きることができないことだけはわかっていた、と、そう言いたい気がした。

しかしそうではなかった。奴隷であっても、家畜であっても、なお私たちは自由を獲得することができるのである。つまり、愚劣さ、狂気、嫉妬、ありとあらゆる負の感情が渦巻くネットにおいて、なお<人間らしく>生きることは可能であった。そして人間らしくあるとは、おそらく、半分は、沈黙したままでいることを意味していた。あなたたちがよく知っている通り、最良の部類に属する人間というものは、ネットには存在しえないものである。それは、かれらに知恵があるからである。付け加えるならば、かれらは恵まれていて、ネットを経てしか得られない利便性がなくとも生きていけるからである。つまり不便さを誰かほかの人間に押し付けて、自分はそうした汚いことをしなくとも生きていける、そうした恵まれた環境にある人間だからである。こうした人々の階層に生まれつかなかった私たち一般市民におかれましては、このネットの泥沼の中に留まるしかない、否、留まるべきなのである。

そこから抜けだして、どこかにある楽園を目指してはならない。どこかにある<カネ>と<名声>が手に入る場所を目指してはならない。この愚かさのただ中に留まること、それだけが、誠実さと呼べるなにかに相違なかった。たとえば、日本人の愚かさを、アメリカやヨーロッパに行ってかれらのマネをすれば超えられると信じた、かつての「先進的」な連中のみっともない姿を想起すればよい。それは島国の田舎者が陥りやすい最大の誤りのひとつである。日本人の愚かさは、日本の中から超えるべきものであり、かつ、超えられるものである。すなわち、そのためにネットが必要で、ネットを愛していて、ネットがかけがえのないものなのである。この愚かで、貧しく、どうしようもなく薄っぺらなことばばかりが流通する、哀れで、偉大な売女であるネット。この女を抜きにして、もはや私たちは生きられぬ。なぜなら、かの女こそが、私たちの<こころ>をつくっているからである。この社会が、いかにかの女を馬鹿にし、石を投げ、軽蔑し、まるで社会の害虫のように取り扱おうとも、この売春婦だけが、私たちがとうの昔に捨て去ったはずの気持ち、私たちが忘れなければならなかった<傷>、私たちが愛してやまなかったが成長のために切り捨てなければならなかった理念を、いまもなお、大切に保管して守ってくれているからである。ネットは、私たち日本人が得たゆいいつの<希望>である。かの女を生かしめよ、私たちが、今度こそ真に生きるために。