2012-10-25

プロフェシー

夏から秋にかけて、部屋の窓からは、燃え上がる夕日が西に見えた。透明な天蓋の下で、草原と森が燃え上がるように光り、はるかな高みを飛行機が航跡を残しながら飛び去っていった。身体を壊して入院し退院した後、寝所からよくそんな空を見ていた。人間は死ねばモノになるが、モノであっても人間を取り囲む世界はうつくしかった。

女とはいつものようにネットで知り合った。そもそもネット以外に女を見つける方法などこの世に存在しなかった。ネットだけが<女>への経路だった。MixiもTwitterも、ありとあらゆるSNSがしょせん女を得るための道具にすぎなかった。いいかえればすべてはおまんこを巡っていた。したり顔をしたスーツ連中ばかりが幅をきかせるこれらSNSでは、薄っぺらい理念や夢を語る詐欺師によくよく注意せねばならなかったが、それを除けばおまんこはどこにでもあった。まったくセックスは誰とでもできるしいつでもできる貧者の娯楽だった。人間の矮小さは今世紀に入っても何一つ変わることなく続き、今後もずっとそうだろうと思われた。それは良いことであり、嘘を捨て去ることさえできれば、人間には豊かな人生が待っているような気がしてならなかった。つまり、カネとおまんこだけが人生の真実である、と公言しなければならないのである。

読者から、女はどうなのですか、という質問をたまに受ける。おまんこを<セックス>と読みかえればよい。私がいつでも、きわめて真剣に、まじめに、わかりやすく語っているというのに、このような質問が出てくるのはまったくもって遺憾というほかなかった。女はどうか。男と何が違うか。何も変わらなかった。売女呼ばわりされないよう注意深い行動が求められていた。だがそれだけだった。結婚相手をさがすための道具としてネットを活用すればよいのである。共感や理解を得るためのツールとして活用すればよいのである。しかし率直に語らせてもらえば、女のことは女に考えてもらいたいのである。

それはともあれ、男も女も逃避するばかりの人生である。アニメや漫画やゲームに逃避すればよい。逃避のための道具もすべて揃っていた。逃避の理由は簡単だった。男が嘘つきだからである。女もまた嘘つきだからである。そしてお互い不信と猜疑心にまみれ、一歩も動けないからである。どこにも希望はなかった。そして絶望すらも不在だった。それが現代の男女の姿なのに、カネがほしいエゴまみれのライターや<著名人>たちがこぞってネットを褒めていた。まったくうんざりする光景だったが、この手のひとびとを鼻で笑うだけではもはやすまなくなっていた。状況は悪化する一方であり、この手の人々を文字通りの意味で完全に埋葬せねばならなくなっていた。誰も、悲惨な現実を直視しなかった。誰も、陰惨な事実に耳を傾けようとしなかった。日本人はまさに<幼児>だった。そしてそれは先進国すべてに広がる病気の一種だった。ジャパナイゼーションこそが、人類の敵だった。

話を戻す。女はぎりぎり20代だと言ったが、肌のたるみ具合から考えるにおそらく30代半ばだった。ハートマークを多用するメールが好きな女だった。おまんこは緩かったが声と演技はよかった。そもそも女におまんこ以外のことを求めることが間違いだった。そもそも男はおまんこしか見ていない動物の一種にすぎないのに、まるで人間みたいな顔をして道路を闊歩していることこそが問題なのである。セックスができれば、人生はしあわせだろうか。むろんそのとおりだった。ついでに言えば<自分>さえよければそれでよいはずだった。そう言い切れれば人生ははるかに楽だった。たとえば日本人として生きることは楽で楽でたまらないはずだった。しかしダメだった。ネットに寄生して飯を食べるライターたちが撒き散らす害毒と公害にまみれて生きていかなければならないこの世界において、私たちはまず自分の身を、自分の精神の正気を守らねばならなかったからである。

ネットさえ滅びれば、たとえばTwitterとTogetterが明日にも滅びれば、この手の連中も一緒に滅びるだろうか? それはなかなか魅力的な空想だったが、おまんこが手に入りづらくなる人生は、また寂しいものであるかもしれなかった。Skypeが、Google Chatが、Yahoo Chatが、FacetimeにiMessageが、その他ありとあらゆるテクノロジーがなければ、遠くにいる女に足を開かせて女性器の画像を送信させる、そうした趣味もまた潰えてしまうかもしれなかった。つまりネットを捨てるわけにはいかなかった、つまりネットがどうしても必要だった、だからネットを離れて生きていけなかった、ここだけが私たちが生きられる場所だった。現実から爪弾きにされ、友人を失い、会社を首になり、共同体から無視され、自分より弱いものを叩くしか趣味を持ち得ていない人々、<ネットにしか居場所のない日本人>、すなわち<家畜>の生きられる場所、呼吸することが許される場所は、ここにしか、いまこのネットにしかないのである。

<ほんとうのこと>が語られるのはネットだけだった。新聞が、テレビが、週刊誌が、いつほんとうのことを語ったか。おためごかしと、嘘と、偽善だらけのスーツ連中が、「メディアの未来」だの「メディアの明日」だのいうざれ言を今日も報道していた。お前たちに未来や明日などない、そう断じてしまっていっこうに問題なかった。どこを見ても嘘にまみれ、どこを見てもごまかしだらけだった。しかし、ネットは違った。なぜなら、疫病のように薄っぺらなことばが蔓延するこのネットにおいても、まだ<セックス>が残されていたからである。いや、こう言わなければならない。まだ<おまんこ>が残されていた。これだけが人間のゆいいつの希望だった。何年にもわたって、同じことを書き続けてきた。これからも何度でも、燃え上がることばをもってそれを書き記すだろう。私がドブで野垂れ死にしたら、墓石には「カネとおまんこだけが価値だった」と刻んでほしかった。あなたたちの理解を永遠に得ることのないことばをもって生きなければならなかった。快活に笑いながら、無理解と嘲笑と誤解のただ中でまっとうに生きることが求められていた。そう思いながら、女に飲ませるピルを注文している。子供は、ほしくなかった。