2012-11-22

近況(3)

韓国・仁川市はソウルの西、山を挟んだ海側に面している。立ち並ぶモーテルを抜けると、私の仮住まいとなったマンションにたどり着く。近くの空き家に住む犬のシロに手を振って、エレベーターへ向かう。泥まみれの道路のあちこちに、売春婦のチラシが散乱している。ああいうチラシは世界どこにいっても同じだ。カラフルで、派手で、必ず電話番号が書かれているが誰につながるかわからない。電話しようか、と思う。風は冷たく、骨に染みこむ寒さだ。走るようにしてエレベーターに乗り込んで、一息ついた。石造りの建物は、中に入れば別世界のようにあたたかい。部屋では、女が待っているはずだった。

初めて会った時、女はすでに結婚していた。そして別の男と浮気を繰り返していた。とんだ売女だった。学歴だけは高いが、股のゆるい馬鹿な女の見本のような女だった。話しているうちに、なにかが、少しずつずれていった。すでに元妻、元愛人、元ペンパル、元読者といった女どもに囲まれ、さらに親戚の女どもに苦しめられ、女というものにこころの底からうんざりしていた。そのはずだった。女とのチャットは続いていた。まるで秘密の手紙のように続いていた。女の性癖を聞き出しながら、女が実際のところ、性について何一つ知らないことにひそかな喜びを感じた。俺はなにが嬉しいのだ、と思った。どうせこの女も、これまでと同じように捨てることになるに決まっているじゃないか。

ある日、女は離婚すると言った。女は愛人とは別れると言った。あなたのことを信じると言った。いったい、こいつはなにを言っているのだろう、と思った。そもそもお前が話している相手は、お前のような女を腐るほど見てきたのだ。お前のような馬鹿な女はたくさん見てきた。どうしようもない生活の中で苦しみ、その逃避先として浮気し、セックスをし、病気をもらって旦那に離婚されるような、そういう人生しか歩めない女を、何人も何人も見てきたのだ。お前などそのうちの一人にすぎない、そう思っていたはずだった。だがいつの間にか、韓国で会うことになっていた。会ったのは三月だ。私は体調を壊しており、入院寸前だった。女と会った。会って、ホテルのベッドからほとんど離れずに三日間過ごした。

女の決意はうつくしかった。それはひとりではけして続けられないし、ひとりでは実行すらできない決意であるにせよ、それでもなお、自分の学歴も、生活も、金持ちの夫の経済的支援も、すべて捨てて私を選ぶと言った女のことばに、私はこころを打たれた。このような決心があるのだ、ということを思い出さざるを得なかった。ある種の決心は、その人間そのものよりも大きく、重いことがある。それはある種の作品が、それを書いた作家よりもはるかに偉大なことがありうるという事実にも似ていた。私はその女に、女がなしうる偉大さが包含されているのを見た。なぜなら、私も、矮小な精神にはふさわしくない大きな決意をもって、<書く>という行為にたどり着いた人間だったからである。

女が昔の男たちとやりとりした自慰動画、ヌード写真、セックス動画などはほとんど目を通した。そのどれもが最低の動画だった。FacebookやTwitterで当時の女の浮気相手を見てみると、なんと大学でセンセイをやっていた。まったく学者というのは糞だった。こういう連中を一匹ずつ社会的に抹殺していくことのおもしろさについて考えながら、そのセンセイの自慰動画に映しだされた灰色の精液の色にうんざりした。こいつも、と私は思う、またひとりの馬鹿な<男>にすぎない。私と同じ、馬鹿な一人の男だ。そう思うと、男が哀れだった。下半身でしかものを考えることができない男には、セックスがいつでもできる女は無価値なゴミでしかない。男にとって、女はセックスフレンドにしかすぎなかった。まったくもって、身に覚えがある話だった。女に私はこう言った。このセンセイはゴミだが、男はみんなゴミだ。男は動物の下半身をけして制御できない。男は<人間>になれない哀れな生き物だ。お前はそれでも俺がいいのか?

マンションの近所に、巨大なカトリックの教会を見つけた。ラブホテルに囲まれているが、あたりは静かだった。敷地には桜の木が植えられ、隅にマリア像が佇んでいる。掃除婦に声をかけ、建物の中へと入れてもらう。木製の重々しい扉を開くと、中から静けさがあふれだした。そこは暗く、巨大なホールだった。三列にかぞれ切れないほどの長椅子が並べられていた。西側のステンドグラスから、午後の光が斜めに射し込んでいる。椅子の一つに、女が一人で座って、祈りを捧げている。奥には、巨大な磔のイエス像。イエスが、私と女を見下ろしていた。腹立たしかった。子供が生まれた日もそうだった。なにもできない偶像のぶんざいで、いつも人生の節目節目でひょいと顔を出してきて、私をじっと見つめている、その優しいまなざしがきわめて不愉快なんだよと、そう唾を吐きたい気がした。いつのまにか、女がいなくなっている。私はホールで一人だった。売女こそ、もっともうつくしい。そういうことばが、頭をよぎった。ふいに目を開くと、女は隣で眠っていて、時刻は、午後三時だった。シロが吠えていた。