2012-11-10

近況(2)

仁川のラブホテル街のどまんなかに新居を借りた。三ヶ月間とはいえ我が家だ。それなりに愛着が湧いてきていた。夜になると、どこかから怒鳴り声が聞こえてくる。アジアではよくある光景だった。日本にはそれがない。実は、それは異常なことで、人間がたくさんいれば、怒鳴り声を上げ、泣き声をあげる頭のおかしい人間が必ずあたりにいるのが普通なのだ。日本はよくよく異様な国だと思う。日本にいると、そのことをすぐに忘れる。

夜、電気を消して寝所に横になると、向かい側に立つホテルの紫のネオンライトが窓ごしに差し込んでくる。部屋はまるで海の底のように見える。睡眠薬を常用していると、たまに酔っ払ったような状態になることがあるが、紫の光をじっと見つめていると、壁や布団の模様がうねうねと動く幻覚が必ず見えるようになった。面白いのでしばらく見つめてみるが、気持ちが悪くなりそうなのですぐに目を閉じる。

食事はまだほとんど外食だ。生活で必要なもの、たとえば洗濯機や冷蔵庫がすべて揃っている「フルオプション」と呼ばれる賃貸形式にしたので、キッチンも使えるのだがまだ鍋や包丁がない。不動産契約は外国人でもできる。私は見学にいったその日のうちに現金で家賃を支払い、すぐに契約した。しかし契約書には家賃を滞納したら追い出されて荷物を捨てられても一切文句を言わない、と書いてあるらしい。韓国の賃貸システムは合理的だ。

食事は非常に安い。大衆食堂だとだいたい500円ぐらいから。韓国料理は見かけこそ雑に見えがちだが、特にスープはどこでもうまい。あっさりとして薄味、何を煮込んでも美味。キムチは、日本で食べていたのは偽物だということがよくわかる味。唐辛子が違い、辛くて「甘い」。あまりのうまさに胃袋が活性化され生きる力が湧いてくる。市場で見る野菜はどれも形が悪く泥で汚れているが、持って帰ってきて切ってみると甘くて芳醇な味。生水は飲めないので煮沸してから飲む。

温水を使った床暖房は、実のところ非常に快適。布団の下の床から熱が立ち上ってくる。風邪とは無縁の生活を送れる。窓は二重になっており、あいだに空気の層が入っていて、断熱効果は非常に高い。一時間ぐらい暖房をつけておくと、一度スイッチを切っても朝まであたたかい。暑いぐらいだ。これから真冬に突入するが、ほとんど問題ないのではないかと思っている。雪が降るとどうなるのかいまから楽しみにしている。

マンションの前に、シベリアンハスキーがいる家がある。飼い主が誰かわからない。空き家になっていて、誰も住んでいない庭に、ぽつんといつもその犬が座っている。毎朝声をかけていたら、少しなつかれた。名前をシロとつけて、かわいがっている。飼い主は姿を見せないが、餌やトイレの世話はちゃんとしているようだ。たぶん近くのラブホテルの部屋にいるのではないかと思えるのだが、一度も姿を見たことがない。シロの毛並みはいつもつやつやだ。

日本のネットを見ている。みな幸せそうだ。コンビニで好きなものがいつでも手に入る生活。ショッピングモールで一言も発しないままなんでも買えてしまう生活がそこにはある。画一的なマスプロダクション製品にあふれる生活の「豊かさ」がまがい物にすぎないことが、アジアにくると胸が痛いほど理解できる。文字通り胸が苦しい程の喪失感だ。日本が不必要と判断して捨て去ってきたものこそが、人間らしさそのものだったのだと思う。

窓から外を見ている。道には誰もいない。犬小屋で、シロが眠っているのが見える。向かいのラブホテルの窓は、すべて板が打ち付けられ、開かないようになっている。それは外界とのやりとりを自ら遮断し、自分たちの異様でちっぽけな世界を守るためだけに汲々とする日本の姿そのもののように見えた。窓は閉ざされていて、おそらく、もう開くことはないのだろう。どこかで、誰かが泣いている声がする。すべてお前たちのせいだ、と声がした。傍観者としてしか生きられなかった、お前たちの責任なのだ。泣き声が、強くなった。