2012-11-03

近況(1)

しばらく韓国に滞在している。ソウルの南西の山を超えた湾岸部の仁川に部屋を借りた。仁川の町並みは、文字通り昭和50年代の日本を思わせる。これから成長していく国だけが持つエネルギーと活気がそこにはあった。懐かしかった。それは日本からは永遠に失われた若さに他ならなかった。この国もまた、急成長による公害と、高齢化と、家庭内暴力と、個の孤独という先進国特有の問題に直面していくのだろう。しかし人間にとって<課題>とは、二度と帰らぬ青春のようなものである。幸せな国だと思う。

最初に泊まったホテルの裏側にはモーテルが並び、その近くの店には予想通り売春婦たちが飯を食べていた。道は汚く、あちこちに汚水がたまり、歩道のあちこちにゴミが堆積したままになっている。道を挟んで反対側には巨大な高層ビルがそびえ、ネオンを受けてきらきらと光っていたりする。また、少し街を歩くと、市場があり、そこには小さな飲食店、八百屋、魚屋、唐辛子や牛の内蔵を売る小売店が並んでいる。思わず足を止めて色々物色する。すぐに店員が話しかけてくる。人懐っこいのは、かれらがアジア人だからだ。

日本人はまったくアジア人らしくない。冷たく、何を考えているかわからず、頭だけはいい。日本人は嘘つきだと、韓国の人間は思ってしまう。直情的で朴訥な韓国人から見ると、日本人は裏で何をしているかわからない、笑顔で嘘をつける冷血漢にほかならない。そういう根本的な不信感を無視して、未来志向だの日韓友好だのいうたわごとがまかり通る。それがもう何十年も続いている。韓国料理を食べていると、大衆食堂の料理の豊かさに驚く。安い食事といえばコンビニとすき家とマクドナルドしかない郊外の日本とは対照的だ。豊かさとはなんだろうか、と思う。むろん日本人が目指した豊かさはコンビニに過ぎなかったのだ。

ホテルの部屋に戻って、おまんこの後に日本のネットを眺めている。Twitterや2chでは、今日も差別主義者どもが喚いている。こうした連中は、社会に出ればふつうの会社員であったりする。つまり私たちの隣人が、朝鮮人は死ねだの在日は国へ帰れだの、口汚なく罵っている。現実社会では文句も言わず、社会のルールを守って生きている、こうしたふつうの人間が、ネットではなぜ差別主義者の豚に変身してしまうのか。ネットがなければ、かれらは<ふつう>だろうか。ネットで<自由にひとを罵倒できる権利>をかくとくしたかれらは、はたして幸せなのだろうか。

嘘とごまかしばかりを強いる日本社会において、<ほんとうのこと>だけがゆいいつ価値あるものである。たとえそれについて語ることがけして語り手に利益をもたらさぬとしても、やはり、それだけがゆいいつ語る価値をもっている。私たちは際限なく愚かになることができるし、それは歴史が証明している。ネットが私たちの言語を形成している以上、ネットが私たちのこころを作っていることは自明である。私たちは圧倒的多数の豚どもに囲まれながら、四足のいびつな人間として生きていかなければならない。おそらくそれは簡単なことではなく、これから、人間らしさというものは、ますます入手困難な、貴重なものになっていくだろう。それはことばを軽視したことの当然の帰結である。

窓から、モーテルが見える。セックスはまだ残されている。しかし、<人間>は可能だろうか?