2012-11-30

喪失の時代(2)

ドブネズミが路上にこぼれた残飯を漁っている。そのすぐ脇にその店はあった。けばけばしいネオンに、「一回四千五百円」の看板。雨が降っていて、くぼんだアスファルトのあちこちに水たまりができていた。淀んだ水に灰色の空が映っている。少し離れた角に、私は立っている。店の入り口を覆う薄汚れたカーテンが、かすかな風に揺れていた。下半身は冷えていて、性欲はすっかりどこかへ消え失せていた。

店の中に入ると、奇妙な香水の匂いが鼻をついた。売春の現場には必ずといっていいほどあるBOSEのスピーカーが、陳腐なクラシック音楽を流し続けている。カビ臭いカウンターでカネを払い、私は受付に促されるまま奥へと足を運んだ。女は誰でもよかった。当時、私の手元にあった数百万円は、銀行と義父をだまくらかして手に入れたもので、すべて買春に使うつもりだった。ピンサロは、その最初の一歩に過ぎなかったのである。

男は、性欲を制御できない。男の下半身はいまだ動物であり、その姿は奇形のサテュロスに類似している。東京のあらゆる場所に存在するピンサロはその証左のひとつだった。ピンサロとは何か。それは下半身だけを露出した男が、ソファで性器を射精するまで女にしゃぶらせるサービスである。売春婦もまた下着を脱ぎ、自らの性器を露出させる。射精までの短い間、男はそのおまんこに触れることを許されるのである。

誤解してはならない。男にはセックスは必要ない。射精ができれば相手はなんでもよいのである。人形でも木のうろでも羊の性器でもなんでもよいのである。男がまるで女を必要としているように誤解することから、すべての人間的痛苦が生ずる。ピンサロの女は道具である。射精のための道具である。いい匂いがする柔らかい口性器、それがピンサロが提供するサービスにほかならない。女の頭が下半身で上下している。なぜひとはネットですら、自由に語れなくなったのか。

職場の帰りに買春。出張のたびに買春。飲み会の帰りに買春。男なら誰でもしていることが語られない。おためごかしと偽善ばかりである。ネットでは、ひとは匿名になることが許される。ネットでひとは、顔のない誰かになることができる。しかしそのような場においてさえ、なお<セックス>だけが語られないのはいったいどういうことか。なぜそれが無視され、なかったことになってしまうのか。私たちから人間らしさを奪っているもの、それは<汚穢>を奪う何かであり、それこそが真の略奪者である。

女は口から精液をほんの少しあふれさせると、私に向かって微笑んでみせる。それもまたサービスのうちである。女たちがこの店で口にする性器の数だけ、世の中から強姦が、性虐待が、家庭内暴力が減っていると考えたとき、その作り物の笑顔がとつぜん神々しく、慈愛に満ちたものに見えてくる。ズボンのチャックをあげながら、女がティッシュで口を拭う様を眺める。女は誰かに似ているが思い出せない。売春婦は皆そうだ。誰かを思わせるがそれはけして思い出せないのだ。