2012-12-12

喪失の時代(5)

カネは、あった。社会の上っ面しか知らないスーツ連中を騙せばカネは手に入った。この手の連中はみな一様に頭が悪かったが、カネという生き物はこうした馬鹿な連中のまわりに集まるようになっていることを痛感する。私は馬鹿にはなれない、と思う。残念だがカネとは無縁の人生である。前の日に稼いだカネが次の日にはなくなっている。債権者どもの前でせせら笑いながらカネを湯水のように使うことに罪悪感はない。そもそも罪も罰もあまりに文学的すぎる。いいかえれば自意識は常にくだらないのだ。行為だけがある。行為だけが信じるに足る何かだ。

おまんこもまた容易だったが女はいつも困難だった。誰とでもセックスができるがしたいセックスはできないと言い換えてもよかった。自分の女房と子供を捨ててまるでなかったように振るまうことに何の感情も抱かなかったが、痛みがないことそのものが痛みのようにも思えた。そもそももう子供の顔や誕生日を忘れかけていた。将来にわたって子供に唾を吐きつけられる人生、元女房から嘲笑されるだけの人生こそが私が望んだものである。許されてはならない、というシンプルなことだけを決めた。それ以上のものは必要なかった。

私たちは虫けらかもしれないが、自分が小さな虫けらであることを知ることはできる。その謙虚さだけが必要とされていた。何かをなすために生まれてきたと信じるには、この世はあまりに無意味な生と死であふれている。ほんとうに残酷でひどいことばかりが起きているように感じられるが、恐ろしいことにそれが現実なのだ。そんな死亡率100%の人生において、どうしても生きる理由を必要としていしまうこころの動きがある。それを否定するわけにはいかないが、生きる理由という虚構を信じてしまえば、いつか信じた自分そものに裏切られる。理由などどこにもないのだ。カネとおまんこと食い物のために生きるほかないのだ。

偽善とおためごかしと嘘八百ばかりが流通する時代は長くは続かない。それは陰惨な現実から眼を背け続けることでしか成立しないし、そのようなことを許容できた社会こそが幸せだったのだ。国が疲弊し、社会が崩壊し、山川が汚れ腐っていく。それはもう誰にも止められない。スーツを着た阿呆な連中が改革を叫んでいるが、手前の女房すらろくに可愛がれない屑の自覚がない連中ばかりだ。かれらにないのは悪人の自覚であり、この偽善と自慰と喪失の時代にふさわしい為政者だというほかない。こういった連中の下で、私たちは生きていく。没落の時代の証人として。良かったもの、大切だったものは失われ、滅びて消えていく。だが、悲しむことはできない。なぜなら、すでに滅んだものが、ふたたび滅ぶことはけしてできないからだ。