2012-12-05

喪失の時代(4)

激しく性交した後、擦り切れた女の性器に薬を塗っている。いつでも<おまんこ>にひざまずいていた。いつでも女は崇高であり偉大だった。そのことを忘れた思い上がった猿に過ぎない男どもが、女を軽侮し侮って馬鹿にしていた。まったくどうしようもない連中だった。昆虫ですら雌を敬うことを知っている。おまんこの前に頭を垂れる謙虚さなしに、猿が人間に近づける方法などないのである。

ネットでは、相変わらず誰しもが有名になりたがっていた。知識人になりたがっていた。わずかな優越感がなければ、とても生きていけぬほど苦しいからである。自分だけは他の人間とは違うという、小さく凡庸なせせこましい自己満足ですら、こうしたひとびとにとっては贅沢品だったのである。ひとを馬鹿にせずにはいられず、弱者を叩かずにはいられなかった。かれらに必要なのは内省という鏡だったが、むろん便利なGoogleで百万回検索したところでそれが見つかるはずもないのである。

そもそもなぜ生きることは苦しいのだろう、そう問いたくもなる。私たちが抱える喪失感は、とてつもなく巨大だ。あなたたちと同じものを私もまた背負わされている。そしてそれが特定の世代に共通する外的要因によるものだということも知っている。だがそれを嘆くことはやめよう。私たちは生きており人生はあまりにも短い。その外的要因を誰が作ったのか、その根本的原因について考えることにも意義はあるだろう。しかし私たちにとって喫緊の課題とは、おそらく極めてシンプルな問いなのだ。どうすれば生きられるのか。

私たちは死んでいる。漫画とアニメとゲームで自慰をする人生。外に行かずネットで優越感を抱く人生。ニコニコ動画に「国民総クリエーター時代」うんぬんと煽られつい大喜びしてしまう人生。これをひとことで表すことができる。セックスを忘れた人生である。セックスのない人生である。すべてが性交を巡っているのに、それを無視してなかったことにする人生。おまんこだけが価値なのにそのことが忘れられている。あるいは見ないようにしている、あるいはしたいこころの動きがある。これが私たちを死人にしている。

原発事故の衝撃が、遠雷のように私たちの存在を揺るがせている。細かく指摘するまでもなく、社会全体を覆っている言語化されない陰鬱な空気は、私たちからもっともシンプルな力、つまり元気を奪っている。そしてすでに困難だった異性への道筋は、内向化する精神によってさらに閉ざされていく。他者がいない自慰的空間では何が起こるか、それは日本社会を見ていれば自明だった。幼児化だ。小学生の空想のような未熟な創作表現が、文字通りあらゆるところで蔓延している。死人はいつまでも死人でいることを強いられる。

このような環境で、私たちはいかに生きることができるのだろう。肉のよろこびという根源的な衝動を殺してしまえば、人間はもう人間ではない。ただの自慰する機械にすぎない。そしてもうそうなりつつある。いかにひとりだけで快楽を得るか。それだけが現代を生きるために必要なノウハウだ。漫画もアニメもゲームも、すべてさみしい自慰を豊かにするためだけのテクノロジーとして活用されている。むろんそれを作っている連中は、よかれと思ってやっているのだ。自慰グッズが何よりも必要とされる現代のニーズに、この手のひとびとが真剣に応えている結果生み出されたものが、この茫漠とした自慰社会なのである。

このような空気が、何年も何年も続くだろう。幼児化と愚劣化はさらに進むだろう。それにともない日本語はぼろぼろと崩壊していくだろう。かつて理解され得た知識と見識はついに読まれなくなるだろう。そして男と女はさらに憎しみ合い、さらに孤独に、ひとりぼっちになっていくだろう。やがて、日本人同士で通訳が必要になる、断絶と喪失の時代がやってくる。それはもう避けがたく構造的な没落であると結論づけざるを得ない。死人として生きることが日本人の避けられぬ宿命であるならば、自分だけを愛せよと、そう叫びたい気もした。しかしおまんこは今日もうつくしかった。