2012-12-07

エゴ・バース

数年前には、自分たちの生活の貧しさや辛さについて語ることが、何がしかの理解や共感を得られる空気があった。たとえその反応が目に見えないものであったとしても、読まれている実感はあったし、実際に読まれていた。当時は、たとえば叙情的な散文さえ理解され、読まれうる可能性を信じることができた。いまはもう何もない。ネットで書かれる文章には何も期待できないし、読まれるべきものは何もないといっていい。

あるのは、2ちゃんねる(ニコニコ動画)とTwitterだけだ。驚くべきことは、大多数の人間が匿名であるにもかかわらず、なお自主規制の力がとてつもなく強大だということだ。ネットの日本語は恐ろしいまでに標準化され、誤字脱字まで同じように類型化されている。このことに戦慄せざるを得ない。そこにはいくら「自由」があっても、読むべきものは何もない。そもそも自らがはまりこんでいる類型に自覚的ではない書き手の文章に読むべきものがあるはずもない。

ネットには、もう何もない。そして問題は、その中にとどまる限りにおいて、私たちには、大きな満足と充足感と全能感が与えられるということだ。ひとこといえば、日本や先進国のネットはどんどん閉じていっている。グローバルにつながっていくネットと反比例するように、そこに生きる人々の精神がどんどん閉じていく。そこには外部が存在しない。

内輪でだけ通用するテンプレート的な言説が流通している。ネタやトピックは類型化され、「どこかで見たことがある」言語その他表現によって構築される世界が広がっていく。コピーのコピーが流通していく中で、誰もかれもが同じだという麻薬的な快楽に酔うようになっていく。そこに作られるのは、肥大した自意識によって作られる巨大なエゴの宇宙、エゴ・バースだ。

それが存続しうる条件は、「外部」が存在しないこと、あるいはないものとみなされていることだ。日本のネットの、中国や韓国に対する強烈なアレルギー反応、徹底的な侮蔑は何によってもたらされるか。それは、中国と韓国は「外部」を日本にもたらす因子だからだ。パラダイスたる鎖国日本の体制が外的要因によって脅かされる時、その中にいて快楽を貪っているひとびとが、それを脅かすものに対して強烈に反発しているのである。しかし、それはアジアのひとびとがいうような「右傾化」とは違う。単なる、だだをこねて泣き喚く幼児と似ている。知性があるわけではなく情動だけしかないからだ。

原発事故は、この閉鎖性を加速した。しかしそれはもう何年も前から始まっていた。振り返ってそう思う。いつか、この閉鎖的な自慰社会が、外からの力によって無残に踏みにじられる日がくる。幼児でいられた国民は、残酷な歴史の歯車によって、粉々に轢き潰されるだろう。日本語がはたしてその時になっても存在しているのかどうか、それはわからない。国が存在しなくともことばが生き残るかもしれないという希望を語る気にもなれない。なぜなら、国があっても、ことばが先に滅ぶことがあるという現実を、私たちはまさにいま目撃している。国はことばから死ぬのだ。

(2012年12月7日 Google+投稿)