2013-03-30

五十人の女たち(12)

息をするように浮気する男たちを、女たちは今日もなじっていた。いつも変わらぬ光景だった。会社の帰りに、出張時に、妻と子供が実家に帰っている間に、いつでも、どこでも、ありとあらゆる場所で男たちが浮気をしていた。性欲が満たされないのではなかった。妻と一日何度も性交した後も、Twitterで、Facebookで、G+で、男たちは新しい女を探していた。鏡を見ればだらしなく口元を緩めた男の顔がいつでもそこにあった。ネットで女を探すのは極めて容易だった。女がSNSに貼りつけたプロフィール写真を拡大し、顔やカラダの具合をチェックして、カタログ化して相手を物色するのだった。


新宿はラブホテルが近く性交にはいい街だった。女は小説を書いていた。作家志望のほとんどがそうであるように、それは圧倒的な村上春樹の影響下にあった。女と私は地下にある薄暗い喫茶店Rの席にいて、机に女の原稿を広げてこれがダメあれがいいと、お説教を繰り広げていた。そもそもお前は小説家じゃないという内面の声を無視しながら、女からの熱っぽい視線をこころよく感じていた。この世で一番気持ちがいいことは、自分が作家だと嘘をついて女を騙すことに違いなかった。ふと、女の小説のある行が気になった。主人公の女が、冷たい床に横たわったまま、ガラスのあちら側の空を見つめている描写だった。唐突に挿入されたその部分が妙に気になった。そう言うと、女は答えなかった。奇妙な空気が流れ、私はその描写は特別な実体験なのだろう、ということに思い至って、口を閉ざしてタバコを探した。しかしタバコは切れていた。

詩や小説を書きたい女はどこにでもいた。自分が作家だ、と吹聴すればいくらでも女がよってきた。才能の有無が問題なのではなかった。自分に才能がある、そう信じる愚かさや厚顔無恥さだけが必要とされていた。作家を名乗ることは女を抱くもっとも効率的な方法であることは、別にこの国の文学をほとんどいやまったく読まずとも理解しうることだった。SNSアカウントを作って「作家」と書くだけで事足りた。仏文学や国文学から適当な作家を一人か二人選び、その作家からの引用を続けるだけの簡単な仕事だった。女とはそうして出会った。女は天青というハンドルネームで活動していた。なんて読むんだ、と聴くと、恥ずかしがって答えなかった。女とは三度目に会った時にセックスをした。女は処女だと言ったが私は信じなかった。そもそもそんなことはどうでもよかったのである。奇妙なアジアの香が漂うラブホテルが、女との性行為の拠点となった。

女は、強姦されたのは高校生の頃だったと言った。輪姦された後、部屋に放置され、その冷たい床から見上げた空がとても青く透き通って美しかったそうだ。その空の色がどうしても忘れられないのよ、と女は言った。それを小説に書けばいいじゃないか、と私は吐き捨てるように言って、自分がなぜか苛立っていることを奇妙に感じた。それは女には書くべき何かがあるのに、自分には何もないと思ったからだった。カネも、社会的地位も、何一つなかった。書くべきことすらない。家族も私のもとを去っていった。自分が誇るべきものは何ひとつなく、作家だという矮小なプライドがあるだけで、実際のところは日雇い労働を繰り返して、みじめに頭を下げて誰かに寄生して生きていくしかない、親戚一同から唾を吐きつけられる存在でしかなかった。しかしかつては違った。かつては書くべきことが確かにあった。私は女に乱暴に服を投げつけて、帰れよと言った。女とはそれから会っていない。