2013-04-01

僕は性器が小さい

財布がゆるす限り、いつでも新しい女が必要だった。社会が認めるなら、何人でも家に飼っていたかった。しかし女にそのひそかな欲望を知られてはならなかった。しかし女の前では良い人のフリをしなければならなかった。カネが、学歴が、社会的地位が、すべてが女と寝るための道具でしかなかった。それを隠すために様々な綺麗事が毎日のように創出されていた。システム屋どもがつくるコミュニケーションの道具が、数日で出会い系ツールへと変容する理由がそれだった。男の脳は男性器にあり、それは極めて矮小で、どこかしら昆虫のそれを思わせた。

今日も煮干で出汁を取っていた。仁川に短期滞在していた頃、老婆が路上で煮干を売っていた。そこではじめて出汁を取ることを覚えた。料理をしている間は性欲を忘れることができた。いやむしろはじめて人間になれるような気がしていた。猫画像だらけのG+で料理の写真を披露すると、あまりにも優しいひとびとから「おいしそうですね」というコメントをもらうことができた。しかし実のところ性交だけが趣味だった。性交しか生きがいがなかった。年を取ってもアメリカ人女を抱いていると豪語しているどこかの老人作家を思い出してしまう。性器が幼児のように小さく柔らかくなってしまった後、男にはあんな生き方しかできないのだろうか?

私のような貧乏人の人間の屑にも、かつて面倒を見ていた若手が何人かいた。海外に留学してしまった早稲田のA君は、私の趣味について「最低ですね」と吐き捨てるように言っていた。実に正直な若者だったと思う。ほんとは書くことしか興味がないんでしょ、と言い残して私の元を去っていった上智のTは、いま某局で英語ナレーターとして活躍しているらしい。私のような疫病神から離れることでみなが幸せになれる、そう気がつくことは悪いことではなかった。妻も、子も、従妹たちも、私が関わったすべての人間が、じつのところ性交にしか興味がない男をいつも誤解してきていた。かれらの頭の中では、私はまるでいい人であり、優しい人であり、あるいは頭のいい人間だった。まったく馬鹿馬鹿しい誤解だった。

性交するために必要になるカネは大好きだった。きっとむかしは綺麗事ばかり口にしていたのだ。かれらが誤解したのも無理がないことだった。読者もまた作者をいつも美化するきらいがあった。そのような思い込みを作者本人が自ら壊していくことが必要とされていた。菩薩のような女性器を、毎日のように床に伏して拝んでいた。それだけがゆいいつの日課だった。そしていつでも汚くカネを集めていた。ひとからカネを借りて一円も返さなかった。ひとでなし、ろくでなし、ごくつぶしと言われ続けて、親類縁者の集まりに居場所がなくなり、虫けらのような人生を歩んでいた。ひとに嫌われることが必要だった。ひとに憎まれることが必要だった。もっと、もっと憎め、そう叫びたい気がした。

スーパーで買い物をした帰り、散りかけた桜が、夕暮れの風に揺れている。矮小な人間にも、自らが生きるこの世界のうつくしさを感じるこころは残されていた。陽が沈む方角に、枯れかけた巨木が一本たっている。ぼろぼろの家の庭に、その木は放置されていた。家には誰も住んでいないのかひとの気配がなかった。巨木の枝は、まるで細かい血管のように空に逆向きに喰い込み、その一本一本が、あちら側にある夕日の光で焼かれて見えた。あなたは、ほんとうはいいひとじゃない、と女は言っていた。あんたみたいな屑となんで結婚したんだろ、私がこうなったのは全部あんたのせいだ、と一番目の妻が言っていた。父さん、父さん、と子が言っていた。ドブをはいまわる一匹の虫けらとして、なお、生きねばならなかった。