2013-04-02

豚と星

私たちは、みな職業を持っている。みな生業をもっている。たとえ職がなくとも、何がしかの役割を果たすために生きている。そう考えなければ、そもそもこの世には絶望しかない。だが、ネットでは私たちは匿名である。ネットで私たちは何者でもない。だからこそ、<平等>が実現できたはずだった。だからこそ、<フェアネス>を求めることができたはずだった。しかしそれはなしえなかった。しかしそれは失敗した。匿名であること、いかなる公権力からも自由であること、あるいはしがらみから自由であること、ほんらいこのことに大きな価値があったはずだった。

どこで、誰がいつ間違えたのだろうか。まがいものの平等は、単にひとを傷つける機会の平等にすぎなかった。いくらでもひとを騙し、自分を騙し、気に入らない相手を中傷するだけの人生が偉大な2.0的ネットによって可能になっただけだった。現実において虐げられた弱者たちが群れて集まり、さらに弱いものを叩くだけの空間に、もはや語るべきなにものも存在しえないことは自明だった。ネットにはありとあらゆる「課題」が提起されるが、そのほとんどが隣人の食卓についてのものでしかなかった。自分が座ることを強いられる貧しき食卓について語るものは誰もいなかった。すべてが他人ごとだった。

日本語について考えざるを得なかった。日本語はなぜ利用者から<自由>を奪う言語なのか。日本語を用いる集団が群れをなし、弱者やよそ者を効率的かつ徹底的に排除する空間のなかで、誰しもが息苦しく、誰しもが疲労を強いられていた。教師が生徒を殴り、上司が部下を殴り、夫が妻や子供を殴っていた。日本語が用いられる場でいつもけして語られないタブーこそが、多くの暴力を誘発する源泉となっていた。共同体のバランスと調和を守るためによそ者を排除する、このことは別に珍しいことではなかった。この国独特の問題とはそれが「善意」によってなされることであり、それをあなたたちもよく知っているはずである。

ネットが弱者だらけになって久しかった。日本語でものを考え、日本語によって縛られた言語空間のなかで生きている以上、それがもたらす非人間性から完全に自由になることなどできはしない。ネットにしか居場所がないのは、現実がさらに過酷だからに違いなかった。弱者たちがいつまでもひとを罵って、自分たちのどうにもならない生活をなんとかしてくれ、助けてくれと言っている。かれらは自分が助けを求めていることに無自覚だ。むしろかれらが中傷は快楽であり「メシウマ」だと思っている。それはあまりにも痛々しかった。ひとは傷ついた時にだけひとを傷つけようとする、そんなことすら忘れてしまえば、私たちはコンビニ飯を喉に流しこまれる豚とかわらなくなってしまう。

雨が降っていた。ひとはふつう、帰る場所があると思っている。しかし家族が、共同体が、国家が、<人間>の帰るべき場所であったことがあるだろうか。それこそが間違いだったのだ。帰る場所も、行く場所もなかった。日本に人間が住むべき場所などない。そしてそのことが常に覆い隠され続ける。家畜を育てる牧場と、肉をつくる屠殺場にはことかかなかった。たたかう人間の足を引っ張り、星を求める人間を泥に引きずりおろす。上下関係ばかりに足をとられる日本語の特性によって奪われるのは考えるということそのものだった。21世紀になって久しく、身分制度がなくなっても、隣人の顔色ばかりをうかがう田舎者根性は治癒し難く、ちっぽけな世界でしか通用しない硬直した制度だけが鋼のような堅固さで私たちを閉じ込めていた。星はどこにあるのか。どこにも見えなかった。