2013-04-05

生き腐れる桜の木

道をゆく女性たちから、不審者を見る目で見られている。私は徹夜明けの身体を引きずって、コンビニでタバコを買い、そばの公園で桜が散るのを眺めていた。平日の昼間から、仕事もしないで何をしているのかと思われているのだろう。髭も剃れない貧乏人は、この街から出ていけと女たちに言われている気がして苦笑する。まったく、その通りかもしれなかった。

一般社会の枠組みから外れたひとびとに対し、世間はいつでも冷たく、よそ者は徹底的に排除される。いつもの光景だった。最近はネットでもそのような現場を見ることができるようになっていた。これを進歩と言わなければならなかった。落伍者にも生きる資格がある、そう励ましてくれる社会は、この先進国には存在していなかった。弱者はいつまでも弱者であることを強いられ、かれらはこうしてどこにも居場所がなくなってゆく。

どこかをまた右翼の街宣車が走っていく。最近はネットでもあの手の連中をよく見かけた。そしてそれは弱者を見えなくする清潔な社会がもたらす当然のひずみだと感じられた。居場所がなくなれば、何かにすがるしかない。いかにそれが金メッキされたくだらぬゴミの山であろうと、何か信じるものがなければひとは生きていけない。何かたたかうに値するものがなければ、とてもではないが、ひとは発狂して首を吊るしかなかった。

公園の土に、散った花びらが堆積して腐っている。桜の大木は、根っこから腐り始めているように見えた。反対側のベンチに、老婆が一人で背中を丸めて座っている。上辺だけ近代化する郊外の街で、長距離を移動するすべを持たない老人たちは、買い物する場所をじわじわと奪われている。震災直後、笹塚のコンビニで見た光景がよみがえる。年寄りたちがコンビニに押し寄せ、米や水を買いあさっていた。かれらは誰も頼りにしない。かれらを助けるべき若者もまた、居場所を奪われている。

物書きは、ことばという凶器をもった強者だ。社会から疎まれ、唾を吐きつけられ、誹謗中傷を星降るように浴びていても、なお、やはり一個の凶器だ。それを寄る辺としてものを考え、書いてきただけのちっぽけな人生があった。ますます狂っていく社会を、誰もおかしいと思わない、いや、おかしいと言うことが許されない空気の中、誰のために書けばよいのか。そんな陳腐だが切実な問いが、こころに冷たい石のように沈んでいる。潔癖症のネット社会に閉じ込められた私たちは、一歩も外に出られないまま、こうして生き腐れるだけなのかもしれなかった。

枯死する桜の木の下で、老婆は眠りに落ちている。あなたたちの眠りが、せめてしあわせなものでありますように。目覚めたとき、かつてここにあったうつくしい何もかもが、滅んでしまっていたとしても。