2013-06-18

ジャパニーズ・ドリーム

夏風邪をひいて、一日横になっている。私の家は、郊外にある旧公団住宅の最上階で、北西に面した窓からは地平線とそこに沈む太陽が、南東の部屋の窓からは朝日がのぼる丘陵が見える。私は北西側の寝室で、先日妻が干したばかりの布団に横になっている。あたりは静かで、物音がしなかった。住宅には半分ぐらいしか入居者がおらず、駐車場を挟んで向かい側の棟には、シャッターで閉鎖されたベランダが目立つ。つい最近も、家賃値下げの通知が来た。よっぽど住人がいないのだろうと思うと同時に、この国が文字通りゆっくりと衰退へと向かっていることを実感する。そして、それをすでに受け入れている自分がいることにも気がつく。いつだっただろう、いつから、衰退を受け入れたのだろう。窓の外に、銀色の針のような雨が降っている。音はしなかった。何もかもが死につつあった。だが、かつてはそうではなかった。かつてはこの国にも、夢や希望があったはずだった。

1989年、昭和天皇が死んだ。私は当時東南アジアにいて、その訃報を英語のラジオ経由で聞いた。何かが終わったのだ、という漠然とした予感があった。単に一人の個人の死ではない、大きな時代が終わったのだ、という事を、私は子供心にぼんやりと感じ取った。ほどなくしてバブル経済は終焉し、様々なものが奪われ続ける20年間が始まった。まず何が失われたのだろうか。一番最初に奪われたのは誇りだった。あるいはちっぽけなプライドだったと言い換えてもよかった。アジアを牽引する新しい盟主たる日本は滅んだ。アメリカで不動産を買いあさり黄色い猿と揶揄されながらもカネの力で平気な顔ができた、その幸福な時代はすぐに終わったのである。いまの韓国人や中国人の多くが、当時の日本人とまったく同じ横顔をしていることに戦慄を禁じえない。あの威張り散らしている様子に、あの恥知らずな言動! 赤面するばかりである。その末路が想像できた。

80年代、私がまだ日本にいた頃、私の生家の近辺の水田には蛍がたくさんいた。銚子に近い房総半島の東の端である。そもそも誇るべき文化もなにもない土地柄だったが、自然だけはうつくしかった。夏の日の朝の爽やかさ。うだるような暑さの中、時間とともに移り変わる複数のセミの声、そして夜には鈴虫やコオロギが鳴いていた。生家は小道に面しており、その前を小川が流れていた。道に面した縁側に座って川の水面を眺めていると、たくさんの人々がそこを横切っていった。チンドン屋、豆腐屋、紙芝居屋、そして何を売っているのかわからないよろず屋。川はより大きな水系に接続していて、その水門にはいつも花が手向けられていた。毎年子どもが溺れ死ぬのだ。その川から水を引いた水田には、夜になると蛍の群れがあらわれた。いま思い出すと、それはもう取り戻しようのない、夢のような光景だと感じる。何もかも奪われ、損ねられた私たちの、二度とかえることのできぬふるさとである。

90年代になって日本に戻って来たとき、すでにバブル経済は終わっていた。ソビエト連邦とアメリカとの冷戦は終わり、昭和は終わって久しく、そして、拡大する貧困が、私の生まれた街も蝕んでいった。個人店舗がつぶれ、古いデパートは閉店し放棄され、あちこちに空き家ができ、私の生家は老朽化という名目で取り壊され、水田は効率化のための農薬で汚染され蛍が全滅し、あちこちに画一的なコンビニやショッピングモールが建築され、街は小奇麗で清潔になっていった。祖母が死んだ後、私はかつての生家の場所に立ち寄ったことがある。そこにはアメリカ風の趣味の悪い一軒家が建っていた。しかし、それを悲しむ暇もなかった。私は東京で結婚し、子供を作って、生活を送っていたからだった。この時代に生きた皆と同じように、私もまた、様々なものがいつの間にか失われていくのを、何もできずに、傍観者として生きることを強いられた一人だった。何もしなかったし、できなかった。傍観者である間に、この国はこうなってしまった。この国にゆいいつないものは希望であると書いた作家がいたが、それが消えたのは奪われたからだ。誰に? 他でもない、私たち自身の手によってである。

私たちの社会は、100円でおにぎりが全国どこでも買えるコンビニでできている。コンビニは、利便性である。コンビニは、近代である。コンビニは、クール・ジャパンである。コンビニこそ、日本をもっともよく表すことばであり、いまや私たちのこの画一的な生活をなによりも象徴している存在にほかならなかった。いつでも、どこでも、まったく同一の製品が、痛むことも、腐ることも、劣化することもなく、全国どこでも、まったく同じ味で、同じ包装で、同じ価格で、購入ができる。この利便性こそがジャパニーズ・ドリームの具現化である。つまり私たちが見た夢と希望の結末こそがコンビニであった。人間はどうであったか。まったく同じだった。ドブネズミ色のスーツを着て画一的な行動を強いられ、グローバル化と言われれば全員が揃って文句も言わずに英語を学ぶしかない。独立自尊心のかけらもない、歯車の自覚だけはあるが反抗することだけはけしてできない奴隷の王国である。

なぜこうなったか。誰がこうしたか。日本人はとてもがんばった。日本人はとても努力した。日本人は誰よりも誇り高かった。なぜこうなった。なぜ誰もが頑張ったのにこうなった。なぜだと、皆がそう問いたがっている。皆がそう叫びたがっている。血を吐くようなみじめな生活の中、生まれてから一度も衣食住に困ったことがない政治家の連中が吐くきれいごとにプロパガンダ、そして大日本帝国バンザイと懲りずに叫ぶしか趣味のない哀れな総理大臣の戯言を横目に、ひたすら我慢して、耐えて、出来合いの金型にはめ殺されながら、生きていくしかないと、誰もがあきらめている。あきらめてどうするか。暇つぶしである。あまりにも生きるのが辛いから暇つぶしをし、ネトウヨになり、社会活動ごっこに興じ、TwitterやTogetterで吹きだまり、誰かの足を引っ張るためだけに毎日ブラウザに向かう日々を過ごしているのである。弱者の逃避というのは別の弱者を作ることである。

夜になると、雨は止んでいた。星が光っていた。ひとが減るということは、照明が減るということだった。星だけは近く感じられた。街のあちこちに、未開発のまま放置された森林が、真っ黒な姿を夜空にさらしている。そこかしこにコンビニがぽつぽつと立ち、煌々とした光を放っていた。子供の頃、生家の近所に、叫び声をあげる狂人が住んでいた。市役所が流す時報に合わせるようにして、獣のような叫び声がどこかから聞こえてくるのである。それは地元では有名な名家の一人息子で、どこかの土蔵に閉じ込められているという噂だった。私は、その狂人のことをたまに思い出す。家族に、共同体に、社会に、日本に裏切られ、踏みつけられ、どこかの牢獄に閉じ込められ、叫び声をあげることでしか自らの怒りを、悲しみを、苦しみを伝えるすべを持たない、狂った男のことを。かれにもきっとふるさとがあったはずである。私たちはふるさとを自分の手で捨てた。ひょっとしたら、奪われたほうがまだましであったかもしれない。奪われたのであれば、まだ憎むことができる。憎む相手がいる限り、いつか取り戻せるかもしれぬという夢を抱くことができる。苦しめるだけ、かれは幸せだったのではないか。そう、思わずにはいられない。窓の外から、狂人の叫び声が聞こえる。この、うらぎりものがあ、この、ひきょうものがあ!