2013-06-08

K氏への手紙

献本ありがとうございました。

いま頂いた本を読んでいて、全然違うことを考えているのですが、そもそも私たちはいったい何のために考えたり書いたりするのか、と、あらためて自問してしまいました。

文章を書くことは誰にでもできるようで実はとてつもなく難しいことですが、そもそも原稿料だけで生活できるようなひとは例外的な存在で、私の周りの作家もほぼ全員が兼業で、しかも優れた書き手ほど兼業率が高い傾向があるように感じています。基本的に、表現することは金銭面ではほとんど見返りがありませんから、私やKさんのようにすでに生業がある中、余暇を削って考えたり書いたりすることになりますね。

と愚痴のようになりましたが、要するに、書くためには何か理由がなければとてもできないわけです。
私も最近になって再婚をして妻を食わせる立場になりましたが、本なんか作っている暇があったら文字通りカネになる仕事をしていたほうがいいわけですね、家族的にも。
子供ができればさらにそうでしょうし、カネを失うために執筆するようなことになってしまうわけです。

ネットにはいろいろな理由で書いている人がいますし、Kさんの本でも分類していて面白かったのですが、ブログがまだ流行していた時代には、異性へのアピールのために書いていた人が多かった印象があります。
水面下でかなりの数の性行為がなされたはずで、何度かそういう話を女たちから「ブログで会ってセックスした」体験談として聞きました。
当時は出会い系の場でもあったわけですよね。よりつまらない言い方をするとモテるために書くような姿勢があったと思います。

いまでもそういう人はたくさんいると思いますし、目立つこと、人に褒めてもらうこと、学歴や社会的地位を誇示することは、多くのひとにとっては手放すことのできない麻薬のようなものですから、今後もそのようにツイッターやTogetterが用いられ、かれらが社会的活動と思い込んでいる自慰行為がはてしなく続いていくのは必然だろうと思います。

ただ、金銭目的での執筆もそうですが、こうした欲望は、なかなか人生の主たる目的にはなりえないと思うのですね。
私たちは年を取り、性器が柔らかくなり、容姿は衰え、死に近づくにつれて所有する資産価値が相対的に下がっていきます。人は死んだら土にかえる一匹の糞虫にすぎません。

究極的には、書くためには何か大きな、大文字の理念がいる。The Greater Causeがいる。これなしに、私たちは人生を賭すような仕事はなしえないのではないかと思います。
陳腐な問いではあるのですが、どんな書き手もいつかはこれに向き合わなければならないし、何度も繰り返し立ち返る原点であるように感じています。

ゼロ年代の半ば、私がブログでしかできないことにこだわったのは、そこに自由が、あるいはその可能性があったからです。
ブロゴスフィアが滅んでから、この国に自由な言論の場はなくなりました。しかしそれは別に自由であろうとする精神が消えたということを意味していません。
ブログは死んでもブロガーは滅びないと言っても同じことです。

残されたのは不自由な場ばかりですが、その中で、あるいはその外で、あるいはそのどちらでもないマージナルな周辺で、書いたり考えたりする契機は残されていると思います。

右を向いても左を向いても嫌気がさす愚劣な空気がどこまでも広がっていて、経済についてしか考えられない無教養で傲慢な政治家たちが繰り出す政策はこの国をますます貧しく悲惨な状況に追い込んでいくでしょう。
汚染された国土で育つ子供が、職場を失った若者が、ひとりぼっちの中年が、孫に捨てられた老人が、私たちの国を作っていくでしょう。

何のために書くのか、私はもう忘れてしまいましたが、人を変えうるペンの力まで、忘れたわけではありません。

息を吸うように、生きて、仕事をしていきましょう。
小説家が小説を書き、詩人が詩を書き、ブロガーがブログを書くように。

2013年6月8日
根本正午 拝