2013-10-09

無窮花下

女が別の男と撮影した性行為動画を眺めている。窓の外は霧が深い。このあたりはかつて蝦夷が住んでいたという。かれらは大和朝廷に滅ぼされ、近くの森で虜囚の辱めを受けた。勝者が建てた石碑がその跡地に残されている。女とそこを訪れたのは今年の初夏だった。うっとうしい蝉の声に囲まれ、汗をだらだら流しながら、先の見えぬゆるやかな坂を登った。坂の上には入道雲が見え、道は長く、人気はなかった。熱い風が空から吹き下り、私と女のあいだを吹き抜けていく。

夜の道路は、白いもやがかかっていてほとんど何も見えない。その白い霞の中を、亡霊のようなライトがゆっくりと通りすぎていく。やや肌寒いベランダに出ると、街は完全に霧で覆われていた。精液のように濁ったモヤが、湿気として全身にまとわりつく。女は、セックスに疲れて眠っている。夜のこの時間は、二番目の妻のいない自由な時間だった。五階のベランダから見える旧公団住宅はいつも静かだった。老人と、猫と、私たちだけが、この街に生きているように感じられた。

女が男に送った動画は数種類あった。男の要請に応えるべく、女はいつでも股を開いていた。男はいつでも貧しくみじめで嫉妬心に苛まれ、泥の中を這いずり回りながら、女をその中へと引きずり落とそうと黄色い目を光らせていた。男を理解することは容易だった。しかし、男に積極的かつ自発的に騙され利用され捨てられる女たちの優しいまなざしを理解することは、いつでも難しかった。女は、男に復讐するためだけに、優しさというものを作り出したのではないか、そう思えてならなかった。

自慰のためのつるつるした板」に代表される小型化された端末の普及によって、あらゆるところで女の裸が撮影され、自慰や性行為が録画され、流出し、拡散し、それらが顔のない男たちの自涜のために消費される時代がやってきていた。女たちは女であることをすでにやめ、触れれば崩れる砂のようなデータとなって、複製に複製を重ねられるモノとなった。携帯やハードディスクに記録された過去は可視化され、まるでそれが再生可能であるかのような妄想が垂れ流され続けていた。

女は、当時は愛していた、とする男との性行為に関して、相手が下手だったから毎回達するフリをしていた、と主張していた。それを信じる男がいるだろうか。市ヶ谷で自殺した作家が言うように、姦通の核心とは性行為そのものにあるのではない。つがいの男女によってひそかに共有される絶頂の記憶こそがその秘密である。どうして女は、こんなに嘘がうまいのか。そう思いながら信じると言わねばならない。別の男と関係を持ちながら笑顔で新婚旅行に出かけた女の写真の笑顔のうつくしさ、やわらかさ、愛情のこもったまなざしにめまいを覚えながら、なお、女を信じると言わねばならなかった。

何もかもがアーカイブ化され、可視化されると鼻息荒くするIT屋どもが作るこの21世紀の社会において、けして記録されないもの、再生されえないものを見なければならなかった。かつて、既存メディアにおだてられいい気になって滅んだブロガーたちの死臭に鼻をつまみながら、今のネットを見てみよう。カネと名声がここにあると喧伝する連中が、鼻をひくつかせながら右往左往する様子を観察できるだろう。可能性の場としてのブロゴスフィアは滅び、連帯の可能性は失われた。残ったのは、個別に引き裂かれ、それぞれの孤独を癒すために例えば「愛国者」になったひとびとが、まがい物の自己満足では癒せない苦しみを癒す麻薬として、弱者に石つぶてを投げる光景だけである。

どこかで、老人が咳き込む声がする。人は死ねば糞袋である。動画の女が口でし始めるのを横目に、私は窓の外を見た。相も変わらぬ夜明けがやってきていた。この時間帯、夜はうつくしいオレンジ色の光に引き裂かれ、七色のスペクトラムを空に描いていく。この世でもっとも好きな時間帯だった。人の顔色を伺わなければ、息をひとつするのも困難な、この閉鎖的で画一的な土人社会は、同じ程度に劣悪で貧しいネットを作っていた。その自由がもたらしたものは貧困と暴力と自慰行為だけだった。もし、それでもなおこの場に信ずるに足る何かがあるとすれば、それは、書くということでしかないはずだった。女の小さく赤い舌が、男の尖った乳首を舐め上げている。ころしてやるよお、この、売女があ!