2013-10-10

豚のことば

ネットの何もかもがうんざりだった。まずはここから始めよう。誰しもがそう思っている。しかし黙っていることから始めよう。なんのよろこびもたのしみもないこのネット。ネットがどんな場所になりつつあるか、まずはそこから語り始めよう。だがそのことばをよくよく注意して選ばなければならない。ネットの汚れと悪臭と暴力から、自由で安全な場所がある、そうした錯誤に陥らないよう、狭く細い道を歩いていかなければならない。

ネットから自由な場所などない。山にこもって、電気もガスも水道もない場所に住んでいたとしても、なお私たちの思考様式と生の条件はネットにがんじがらめに縛られそこから一歩も出られない。つまり私たちに必要なことはむしろネットにどっぷりと首まで浸かることである。スマートフォンを五分ごとにチェックし、2chのスレを日々閲覧し、Twitterでエゴサーチし糞を投げつけ、フェイスブックで成金スーツどもの写真や化粧まみれのパーティ写真にいいね! し、G+で猫画像を集めてハードディスクに保存しながら、なおこのネットについて語らなければならない。

「ソースのない」「科学的根拠のない」直感に基づいて考えよう。なぜならネットから失われたのは<こころ>だからである。こころは数値化されず当事者の胸の中にしか存在しない。しかしこころが損ねられれば人は死ぬことがある。このことを忘れてしまえば私たちは人間であることをやめそれ以下の存在になってしまう。ネットが毀損しているのは私たちの胸の中の深い部分の価値であり、そのことを見えなくさせてしまうのもまたネットである。こころを取り戻さねば私たちは生ける屍であるほかない。

私たちは、ネットに囲まれネットによって呼吸をしネットによって生かされている。人から個として生きる自由を常に剥奪しようとする日本社会において顔を隠して参加できるネットはすでにそれだけでも貴重な避難所である。この国が抱える核心的問題を、いくつかの社会現象から推測することができる。それは慰安婦であり、特攻隊であり、ブラック企業であり、女性蔑視であり、格差社会であり、あるいは露骨な性暴力表現であり、大人のふりを強いられる未成熟な子供の苦しみである。言い換えれば人をモノとして扱う社会であり、誰もがここから逃れたいと思いつつも我慢している。「みんな」が我慢しているからである。

そうした抑圧的かつ閉塞した状況下においてネットは麻薬に違いない。自分の命がかかっている極限状況である大災害のさなかにきれいに列をつくって配給品を待つことができる国民性を海外の人間が無邪気に賞賛している事が私たちの問題の在処を端的に示している。他人の顔色を伺わねば怖くてたまらない。人と違ったことができない。なぜなら共同体から排除され殺されるからである。自分だけが生きたいというきわめて人間的欲求が下劣なものとして排除され綺麗事だけがまかり通る。それはたとえば踏切で老人を助けて死んだ女性に勲章を出すという政府の姿勢にもよくよく現れている。誰もかれもが綺麗事を求めていて、そして、それにどこかうんざりしている。

なぜ自分だけが助かってはいけないのか。なぜ自分だけが生き残ってはいけないのか。あの勇気ある女性は、老人を見捨てて逃げてはいけなかったのか? そう問うことすらタブーとなり、皆がきらきらした目をしながら自己犠牲の尊さについて語っている。そして裏では2chやTwitterで匿名で朝鮮人は死ねと書きこむ。これは極めて自然なことであり当然の帰結といえる。清濁なくして人は生きられない。嫉妬、悪意、憎悪、怒り、こうした負の感情を出す場所がどこにも社会に存在せず結果として幼稚な極右勢力の台頭を招いている。これが現状である。

形をあたえねばならない。この非人間的な状況において私たちの苦しみと悲しみと切なさに形をあたえねばならない。「日本人に生まれてよかった」と無邪気な顔をして吹聴しそれを少しも恥ずかしいと思わない若いひとびとの逃避先に堆積している汚穢を明らかにせねばならないし、いまだに「日本の技術は世界一」と恥ずかしげもなく公言している哀れな中高年の一人ぼっちの夕食の光景について語らねばならない。ああ、つらい。ああ、くるしい。そう言うべきなのだ。そう、書くべきなのだ。誰もそのようなことを言わなくなった、そして言えなくなった結果がこの現状なのである。

醜いものを直視せねばならない。なぜそうか。私たちは、たとえいま幸せであったとしても、明日にはそれが奪われるかもしれない日常のただ中に生きている。ある日恋人に裏切られ、警察に通報され、性癖をネットにさらされ、動画サイトに性器写真が実名入りで公開される。親族の借金や犯罪で理不尽に職を失う。順分満帆だった事業が友人の裏切りによって潰れ借金を抱えて逃げまわる。この社会は私たちを傷つける悪意たる<偶然>によって構成されている。これは誰しもが逃れられない生の条件である。このことを知らねば、人は再現なく他人に冷たくできるのである。星の数ほどあるまとめサイトを見ていれば人の不幸を笑う人間がどれぐらいいるか慄然とする。しかし、かれらは知らないのだ。明日、それが自分のものになるかもしれないという想像力を持ち得ないからである。

いつでも、人は傷を誰かのせいにしたいと思っている。誰でもそうなのだ。自分が悪くないと思いたいのだ。だから与党が、民主党が、朝鮮人が、VANKが、アメリカ人が、大日本帝国が、共産党が、スタジオジブリが、みのもんたが、津田大介が、創価学会が、家族が、東京都が、北京が、マスコミが、これらすべてまたはそのどれかのせいにして、自分の傷を癒したいと思っているのである。2chやTwitterで安易で表層的な共感を得てその晩だけの安眠をかくとくできると思っているのである。共感してほしい、わかってほしい、同情してほしい、自分だけが苦しんでいるのではないことを知ってほしい……それを願うのは人間らしい、しかし傷や痛みを誰かのせいにしてはならないのである。たとえネットですぐに「加害者」が見つかり、一緒に罵倒できる「仲間」が見つかったとしても、そこで一歩踏みとどまらなければならないのである。

人は安易な救済を求めてネットをさまよっている。だがそれはどこにも見つからない。私はすべての読者に対して予言するがそれはネットには見つからぬ。個別な不幸はただネットで消費されるだけである。より具体的に言えば彼氏に裏切られた女の不幸は、その物語を自慰のために消費しようと待ち構えている男たちの甘い菓子になるだけである。そしてそれは当たり前なのだ。なぜなら男というのは、そもそも目の前に座って泣いている女の前ですら、その悲しみを理解したり共感したりすることができない不完全な生き物だからである。ネットでそれが可能だと思いたい気持ちを私も共有している。どうしようもない現実の前に膝をつき挫折して赦しを請いたい気持ちを抱くことは誰にでもある。しかしそれは赦されないし癒されないし理解され得ないのである。すべての願いを一度捨てる以外に赦しや癒しはありえないのだ。それがネットで可能だというのは滑稽である。

だが私たちはすぐにその夢に縋りたくなる。だから今日もネットを巡回し自分より不幸な人間を探してまとめサイトで他人の不幸な物語を読みあさる。そして一時的に癒され自分のみじめな日常に戻っていく。それは例えば両親が怒鳴りあう家の自分の狭い部屋だったり、家賃が払えなくて大家から出て行けと手紙をはられたアパートの一室だったり、夫に浮気され子供に暴力を振るう妻がひとりで食べる昼食のテーブルであったり、突然リストラされて行き場を失った夫が毎日通う公園のベンチであったりするだろう。そこから逃れるためだけにネットという麻薬が機能している。綺麗事ばかりのテレビ、新聞、ラジオといったマスコミは、何もわかってくれない。だからネットに「真実」があるように思える。しかしネットにあるのは別の露悪的な虚構だけである。

私たちはどうすればいいのか。私たちは何から始めればいいのか。私は、読者のためになんの解ももっていない。あるのは自分の体験と経験から勝ち得た世界のスケッチだけである。私はあなたたちに何も教えない。私はあなたたちに何も伝えない。私はこの現実についてしか語りえない。死刑執行を待ちわびる囚人のように、残された日々を数えながら、窓も、出口も、入り口すらないこの閉塞した現状の中で、自分がいかに正気を保っているか、その方法について語る以外になんのすべももっていない。しかし、自分がどこにいるのか。自分が強いられるこの奇怪な<場所>がいったいどこであるか。それを見ることはなお可能である。そしてそれを見なければ、もはや私たちは生きることすらできないのである。

ネットが登場した頃、ネットには夢や希望があった。いいかえればこころがあった。個人的なことを言えば、私は愛人も、恋人も、新しい妻も、尊敬すべき先輩も、名誉も、そして自分の職業が何であるかという認識も、すべてネットで手に入れた。すべてがこの閉じられたディスプレイのあちら側にあった。ことばすらここに存在していた。だからいまネットにそれがないかといって、ネットを愛していないというわけではない。死んだ恋人であっても墓標には花を手向けるものである。そして私は知っている。同じように思っているひとびとが、この国にたくさん存在していることを。むろんそれはネットをいくら探しても見つからない。かれらはみなネットから離れたからである。これはだから妄想である。しかしそもそも書くとはそのようなことではないか。ボトルに詰めた手紙を海に投げ込むような行為でしかないのではないか。希望をもつとは宛先のない手紙を記すことではないか。そう思えてならない。

私が住む片田舎の旧公団住宅には、ほとんど人の姿がない。借金取りもめったに来ないし、貧乏人が住むには生活コストも安い。そして自然だけはいつも余っている。田舎での住まいは快適というほかない。別れた妻や子供のことを考える機会も少ない。ことばの通じない外国人のふりをしていれば孤独を保てる快適な居住環境である。東京には二十年ほどいたが繋がりがあるようでまったくない。礼儀正しく民度が高いと自画自賛するひとびとの表層的なやりとりがあるだけである。いま振り返ると、東京は具現化したネットそのもののように思える。嘘と建前で塗り固めた金メッキの巨大で虚ろなメトロポリスである。

ネットでは愚かさばかりが可視化され、弱さと不幸由来の誹謗中傷が毎日のように繰り返される。それは抑圧的な社会がもたらす当然の帰結というほかない。当初ネットが引き受けなければならなかったこうした弱さ、醜さ、さもしさは、こうした社会に疲れ疲弊したひとびとの唯一の逃げ場だった。そこではじめて人は自分の弱さを見つめることが可能だった。ただそれが暴力に転化したいま、倫理的であろうとし、かつ弱い人間の居場所はこの社会のどこにもない。反社会的活動に手を染める勇気もないまま今日のネットを黙って閲覧してひとりで笑う生活があるだけである。

暴力行為はますます悪化し、それに歯止めをかける方法はまったくなく、国民から徹底的に侮蔑されている政治家たちは理念と志を失っていき、二世議員ばかりで生まれてから一度も生活に困ったこともない無邪気なひとびとにはこころを守るための法案のひとつも考えうるはずもなく、途方にくれるばかりである。純然たるテキストによる暴力はあらゆる場所で繰り広げられ、それは「表現の自由」というすでに無意味な金科玉条によって保証される。ブラウザを開くたびに女を暴行する男の漫画の広告が何かしら表示される現実は、暴力に無自覚な私たちの鈍感さそのものである。<ことば>への理解の不在は、システムを作っている連中だけの責任ではない。それを受け入れてしまっている私たちの責任でもある。

小説家や評論家のような語り口を捨てなければならなかった。ただの浅学菲才な豚が一匹、ニンゲンのふりをして日本語を喋っている。そう思っていただいてまったく問題ないのである。なぜなら文章の価値は本質的にそれ自体にのみ内在するからだ。しかしネットにはなぜ同じような日本語を語っているものがいないのか。学歴、教養、カネ、倫理のすべてを欠いた醜い豚にしか、語ることができない何かがあるとでもいうのだろうか? 豚だけが語る資格をもつという背理が成り立ってしまう現状に苛立たざるを得ない。豚には誇るべき何ものもない。ただ食用に供するだけの血と、肉と、日本語等を解することができる灰色の脳細胞があるのみである。よって、豚はこのまま語ろうと思う。豚のまま語ることが、私の誠実であり方法である。聞け、豚のことばを。