2013-11-08

ピザを焼く

無職の事を韓国語でペクス(白手)という。要するに仕事がなく時間だけは余っている人間のことである。あまりにも暇なので、最近は料理に力を入れている。ここひと月挑戦しているのは練り物である。最初は餃子の皮や麺類を作っていたのだが、ここしばらく発酵ものに手を出してピザ生地などを作っている。これが信じられないぐらい美味いのである。イタリアではもともとビール酵母を使っていたらしいが、うちでも常備しておきたくなる。そして冷蔵庫がどんどん狭くなって何も入らなくなりつつある。そろそろ四人家族用の冷蔵庫を買わなければならないと思っている。

ピザは高温で一気に焼きあげるのだが普通のオーブンでは250度が限界である。うまく焼けないなと思っていた時、オーブンの説明書を10年ぶりぐらいに読み返してみた。実は300度のグリルモードというものがあって、事実上ピザ専用の温度設定が存在していた。要するに自分が買ったものの能力や機能について自覚のないまま長い間使ってきたのだ。このことから様々なことを考える。要するに私たちは自分が何をできるかよく知らないことが多々あるということである。そうやって自分の怠慢を一般論にすり替えてとりあえず満足し、ピザ生地の発酵にとりかかっている。

イーストによる発酵では生地は二倍ほどに膨らむのだがこの時の香りがたいへんによろしい。練った手に生地の香りがついてしばらく取れないのだが、これが食欲を非常にかきたてる。発酵させるのにだいたい一時間ぐらいかかるが待ちきれなくなる。二人前なら小麦粉は150gで十分だ。ここにドライイースト、塩、オリーブオイル、水75ccを加える。私はちなみに薄力粉だけを使っている。練った後は一時間、数十分の二回に分けて発酵させる。その後は伸ばし、好きな食材を載せて余熱しておいたオーブンで焼くだけという単純な料理だ。アンチョビとオリーブだけ忘れなければ何を載せてもいい。

一応私の住む町にもピザ屋はいくつかあるのだが、すっかり外で食べる気がなくなってしまって、ますます書斎に引き篭もる日々だ。いや正確にはキッチンと書斎を往復する日々である。親に感謝することがあるとすれば、それは子供の頃海外でめぐり合った食材と料理の数々だろう。子供の頃味わったものの味はけして忘れない。かつて行ったイタリア料理店では、毛むくじゃらのシェフがピザを焼いていた。あの時食べたあの一皿というものがあり、それを再現するためにキッチンに向かうことは楽しい。もちろん、記憶の中のシェフが作った料理にはけして辿りつかない。それでいいのだ。美味いものだけが人生である。

2013-11-01

キーボードを洗う

珍しく読者からお手紙をいただいて、返事を考えている。だいたい私はいつも家にいるので、近所の人間から無職の呑んだくれなどと思われているに決まっているのだが、窓を開ければ涼しい風が入り込んできて、それを差し引いても快適な日本の秋である。そもそも去年のこの時期は日本にいなかったので二年ぶりの秋といえる。

荷物の整理をしていたら、箱の中から古いキーボードが出てきた。「マージナル・ソルジャー」に掲載したブログを書いていたとき、毎日のように使っていたものだ。驚いたのは、控えめにいって、それがひどく汚れていたことだ。あまりにもひどいので、キーボードを分解し、一つ一つのキーをすべて消毒することにした。

キーをひとつひとつ外し、洗剤を薄めた液体に数時間漬ける。その間、キーを外した本体を掃除する。本体には埃とゴミが積もって固まっており、実におぞましい眺めだった。息を止めて、薬剤を含んだ布で繰り返し何度も拭きとる。その下から、ヤニで黄色く変色したプラスチックが姿を表す。これをさらに漂白剤を使って殺菌脱色する。

結局、キーボードの掃除には一日を要した。不思議なのは、これほど汚れた機器を使っていた自分が、人生のある期間において、そのことにまったく無自覚だったことだ。正直に言って、箱から取り出し、かつて愛用していたキーボードを見たとき、私はほとんど吐き気をもよおした。しかし当時、私はそれになんの違和感も感じず、不潔とも思っていなかったのである。

目があるのに見えない。目の前で起こっていることを、ひとの目が捉えられない。それは見るという行為に、そもそもある限界があるからだ。ひとの目は見たいものしか見えないようできていて、考えるということは、まずその難しさを知ることなのだと思えてならない。汚れているのはキーボードだけなのか、そう問わなければならないのだ。この世はめくらの王国である。