2013-12-28

料理あれこれ

仕事納めを報道するニュースを横目にイカを入れたお好み焼きを作っている。私は子供の頃同級生が海鮮料理にあたって入院し卒業が半年伸びた経験から、家では海産物を使った料理はなるべく避ける主義だったのだが、日本の気候であればそんなにひどい症状にはならないということがわかってきたので、最近はマグロやブリのアラと骨を使ったカレーや、エビの天ぷらなどに挑戦してみている。おかけで冷蔵庫の空きスペースがさらに少なくなってたいへんだ。巨大な冷蔵庫がほしいところだがさすがに高い。最新型のPCが購入できてしまう。

イカの切り身に臭みを消すための香味野菜をまぶし、塩を振ってしばらく置いておく。その間に野菜を切る。基本的に好きな食材を入れるだけだが、私のところでは干しエビは必ず入れる。干しエビは韓国の港町でまとめ買いしたものだ。東南アジア系の香辛料はシンガポールの知人からもらったものが大量にある。アジアの食材がなければ生きていけない胃袋ではある。日本の食事はどれも甘い。甘いばかりで刺激が少ない。もともと刺激が強いものも、この島国にくると角が取れて丸くなってしまう。それはこの国の思想そのものでもある。

もともと料理だけがゆいいつの趣味である。趣味が仕事になってしまった今私には趣味といえるものは何もない。下手の横好きとはよく言ったもので色々な調理器具が欲しくてたまらない。今日は地元では年末セールをしていたのでついに料理用温度計を買ってしまった。ローストビーフを焼くとき串で毎回確認していたのだがより正確に計れるようになる……といいのだがたぶん使わないまま終わりそうな気配だ。ミキサーも少し前に買ったが結局バナナヨーグルトを作るときにしか使っていない。主婦の友人に言わせれば「料理は科学」だそうだ。そうなのだがつい面倒になって適当につくってしまう。

私のところではお好み焼きの上に豚肉を一枚一枚広げて載せ、生地に火が通ったらひっくり返したあと強火で炙り、豚肉をカリカリにして食べる形式でやっている。豚肉は多少焦げるぐらいが一番うまいと思うのだが、半生が一番うまい牛肉とはえらい違いだと思う。食材によって最適な火の通し方はまったく違うので、複数の食材を使う料理はそれぞれ配慮しながらつくっていくことになる。それが科学的というものだが、いいかげんにつくってもそれなりに美味いものには仕上がってくれる。そのぐらいには自信がついたが、よりいい食材に手を出したくなってきていて困っている。いい食材はどれもかなり高いからである。

そういえばこの国の八百屋では、泥だらけの野菜というものをほとんど見かけない。衛生上の理由もあるだろうが、この国で一番重んじられるのが「外見」であることを想起する。ドブネズミ色のスーツ着用が強いられる社会では、野菜また現場の「汚れ」を綺麗に洗いとした清潔な形で提供することが強制される。その際忘れ去られるのは、たいていの野菜は小動物の糞尿の混ざった泥にまみれている事実であり、自然はそもそもそういう豊かな場所であるということだ。

かくして日本ではコンビニだけが普遍化する。清潔で、小奇麗で、何もかもが画一的な空間が創出される。これは貧しさだと言わざるをえない。利便性を高め多くのひとに総合的な「豊かさ」を提供しようとすること自体はよいのだ。問題はその時に忘れ去られるどうでもよいとみなされているもの、形式的で表層的な美しさを保つためだけに捨てられてしまうものなのである。画一性のもたらす貧困に対してどうたたかっていくのか、そういうことが私たちに突きつけられた問いなのだ。

お好み焼きは割と上手に焼けた。しかし煙草が切れたので私は便利なコンビニに足を運ばねばならない。読者のみなさまにおかれましては、風邪など引かぬようよいお年をお迎えください。書くとは知ること、知るとは生きること。来年もまたこの場所でお会いしましょう。

2013-12-26

私は馬鹿じゃない

本日は私用があって昼間に久々に六本木に行ったのだが、ビルの壁は排気ガスで真っ黒、道は唾と吸殻とガムだらけ、薄汚いヒビだらけの高速道路はガアガア音を響かせていて、私が以前好きだった東京はこんなに汚い後進国の見本のような場所だったのか、と思わずにはいられなかった。しかし夜になるとそうした汚れがすべて見えなくなり、ネオンと街灯が薄い霧の中にかすむ叙情的な風景が戻ってきた。このことから様々なことを考える。

昼間はすべてが白日の元にさらされている。私がかつて東京で仕事をしていたころは、常に日が沈んでからの活動だった。だからこの街の夜の側面しか知らなかったのである。売春宿では、女の肌のシミや妊娠線を隠すために極力照明を落として営業をする。東京とはまさに売春婦であるということに思い至り苦笑せざるを得ない。照明を落とした状態でのみ鑑賞に耐えうる小汚い社会、それが私たちの得た国である。

それも悪くない、と思う。喫茶店の窓からはミッドタウンの灯りが見える。久々に店で淹れてもらった珈琲はうまかった。東京の喫茶店のレベルの高さはいつも思うが異様なものがあり、私もかなり素材や道具にこだわったことがあるが、一度も店の味を再現できたことがない。いま私の自宅兼職場にあるのは、一グラム一円に近い出所不明の謎ブランドの豆とボタンを押せばいいだけのコーヒーメーカーだ。ひとは自分の舌の貧しさを自覚しなければならないが、それもまたほんらいむずかしいことだ。

しょせん後進国にすぎない社会が先進国のような顔をして威張っている。アジアの盟主だとかナンバーワンだとかいうたわごとを吐かずにはおられない。こうした態度のすべては本当の自信を勝ち得たことのない負け犬根性からくるということは自明だが、それは「本音」があふれるネットを見ていてもよくわかることだ。どうしようもなく苦しくて劣等感に毎日のように苛まれ孤独を誰かに何とかしてもらいたくてそんな馬鹿げた白昼夢でもすがりたくてたまらないのである。

鏡を見ることはつらいことだ。誰しもが理想的な自分を見たがっている。たとえば馬鹿と思われるのが怖くてたまらない。何がなんでも小利口な頭のよいインテリのふりがしたいと常々思っている。不思議なのはネットのすべての人間がこうした欲望を抱えているように見えることだ。よっぽど不幸で精神的に貧しい生活をおくっているのだろう。Twitterやまとめサイトで頭がいいふりをしなければ耐えられないほどみじめな人生が、ブラウザを閉じた先に待っているのだろう。ほんとうにかわいそうでならない。

「目標を失った私たちはどうしたらよいのか」という問いを読者からいただいている。眼下に見える六本木に集まるひとびとはひきつった顔をして下をむいて歩いている。この偽善の帝国においては真剣な問いすら貴重なものである。阿呆な政治家とスーツ連中が大好きな横文字と漢字だらけの理念は無価値であり長続きしないことは自明だ。甘い甘い離乳食ばかりを口にしてきたかれらには人間というものはどういう生き物なのかなんの理解もないのである。先日も床屋で文藝春秋を読んでいたら金ピカのスーツの高齢者が集まって「日本は大丈夫ハハハ」みたいなことを書いていた。もちろんそう見えるに違いあるまい。

問いに答えねばならない。眼の前の女と、子供と、障害者と、老人と、外国人に、積極的に優しさを示しなさい。弱者のふりをした弱者ゴロのことではなく、またどこかにいる大文字の他者のことではなく、手に触れられる距離にいる、実在する弱者に対して優しさを持ちなさい。あなたのめぐまれた人生が、すべての人間に対して与えられているわけではないという想像力を持ちなさい。偽善者と幼児だらけの社会で、それがいかにむずかしいことか知った上で、なお不可能をこころみなさい。

2013-12-25

クリスマス優待販売のお知らせ

クリスマスから年末にかけて、「マージナル・ソルジャー」を45%オフの価格で販売しています。
もう少し値引きしたかったのですが、すでに買っていただいた読者の方々に申し訳ありませんから、この価格となりました。年末優待販売ということで。

こちらからご購入くださいませ。

2013-12-24

土人の国のクリスマス

地方には様々な人間がいる。よく見かけるのが髪を茶色く染めて赤ん坊を連れた若いカップルだ。母親はだいたいヒョウ柄の何かを着用している。ブーツだったりタイツだったり様々だ。この地方ではなぜかヒョウ柄が流行しているらしい。父親のほうはどうかと言えば、背中に金色の龍の刺繍をあしらった合成皮のジャンパーなどを着用し、しばしば奇声をあげながら道端でしゃがんで煙草を吸っている。こうした光景の愉快さはネットの現状と奇妙なまでに類似しており、これからこの社会がどこへ向かおうとしているのか示唆してくれる。原始的な衝動を制御できないひとびとがこれからも増え続ける。かれらはそもそも避妊具の存在を知らないのであって地元の産婦人科によるとこのあたりは古い性病が蔓延しているそうだ。

まったく面白い世の中になったものである。東京にいたらこうした地方の現状を目の当たりにすることはなかったことだろう。それはたとえばフェイスブック等身内だけで固めたSNSの中にいればいわれのない中傷、罵倒、あてこすり等を受ける危険性が少ないのとまったく同じである。ヤンキーは日本の古層だということを痛感せざるを得ない。それは性欲と食欲と物欲だけが重視される世界であり、メンツや上下関係がなによりも価値をもつ土人文化の一種である。この社会のことを先進国などと公言しているひとびとがほんとうに哀れだと思うことが増えた。むろんこの国が後進国だという事実は、個人が土人として生きなければならないことを強制するものではない。しかし疲労がたまるものである。そしてこの疲れを保つことが重要なのだと思う。

一日机に向かう仕事でありそれ以外はテレビを見ている。NHKを見ていて思うのは一日何度も「世界一」の何々という単語が繰り返される事の恥ずかしさである。一度数えてみたことがあるがひとつの報道番組でひどい時には三回は使われていた。こうした夜郎自大的な言い回しはお隣りの中国・韓国と全く同じだ。そもそも一番とは自分が言うものではないのだがそれを誰も指摘しない。本当にそう思っていたら単に阿呆であって、また信じていないのならばそれは痛々しい敗戦国である。聞くだけで元気が奪われる。しかし無理に元気を出そうとすること自体が間違いなのだろう。隣にヒョウ柄のストッキングをベランダに吊るす愉快な隣人がいる現実を受け入れなければならない時代がやってきているのである。ネット的に言えばそれはキチガイがまわりじゅうにいる空間ということだ。

キチガイは自分たちのことを正気であり正義だと思っている。もちろんそれこそがキチガイをキチガイたらしめる条件である。地元の話に戻れば避妊具なしの性行為は気持ちがいいので善であり推奨されるものであってさらにいえば後先を考えない行為は「かっこいい」のである。そうした行為が励行される空間において人間らしくあることはきわめてむずかしい。ネットで横行する暴力行為を見ていても思うが、最近増えているように見えるこうしたひとびとはこの社会に最初から存在していたのであり、むしろかれらこそがマジョリティでありほんらいの日本人ではないのかということである。共同体が崩壊し歯止めがなくなったのである。つまりこの国はしょせん土人の国であって、先進国のふりをしていただけなのである。しかしこうした認識こそが必要なのではないか。

社会全体が低年齢化し、言語的、肉体的な暴力が横行するようになる。これは当然のことである。幼稚園を想起しよう。力の強いもの、声の大きいものがお菓子を一番多く食べられるのである。弱者を保護するのが立法府たる政府の役目であるはずだが、そもそもかれらはこの状況に対してなんの行動も起こすつもりはないようだ。そもそも弱者とは何か生まれてから一度も考えたことがないのだろう。結果としてまず地方からゆっくりと崩壊がはじまっている。もちろん崩壊しているのは「先進国日本」という虚構のことである。しかし真実ばかりがむき出しになる現状はなかなかつらいものである。疲労がたまり、元気が奪われ、やる気が損ねられる。これがまともな精神を持つ日本人が閉じ込められている現実である。

80年代、日本は経済成長を達成し目標は失われた。いろいろな原因はあるだろうが本質的なのは目標の喪失だと思える。米国に追いついたあとのことを何も考えていなかったのである。NHKの番組構成を見ていると、かれらは地方の生活や一次生産者である農家にスポットを当て、それを礼賛し日本の新しい目標を模索しようとしているように感じられる。その気持ちはよくわかるがおそらくこの凋落は止められない。そもそも目標なくして私たちは一歩も生きられない弱い生き物だからである。ほんとうは理念なくして生きられないのである。夢や理想をなくしてしまえば、いくらたくさん性交したところで、いくら贅沢な食事をしたところで、何も満たされないのである。それを奪われてしまえば、ひとを罵倒して傷を癒そうとするしかできなくなるのである。

夢も理念も希望もない社会でひとはどうして生きたらいいのかという問いがあった。もちろんそんなものがなくても腹は減るし性交も必要である。しかしこの苦しさは構造的なもので解決できないだろう。この苦しさを解決するために様々なものが創出される。そのなかには天皇陛下万歳があり、アニメーションがあり、ニコニコ動画があり、ネット右翼があり、Twitterがあり、まとめサイトがあり、そして猫動画のG+がある。しかしそのどれもが代替品にすぎない。まがい物の人工甘味料で我慢するしかないのである。今日も明日も明後日もまがい物を味がなくなるまでしゃぶって、涙も出なくなった眼で今日もPCの前に座っている。PCに自分の顔が映っている。それは名前のない土人の顔である。メリー・クリスマス、土人のみなさん。メリー・クリスマス、私たち。

2013-12-04

親たちの顔

日本を代表するゴシップ誌である週刊文春が、中国の歴史はプロパガンダ、韓国の歴史はファンタジーだと批判しているのを見かけた。それならば日本はどうなのかと考えると、すぐにヒポクリシー(偽善)ということばが頭をよぎる。みんながんばろう、絆で生きていこう、という鼻につく偽善が横行する社会が強いる圧力。これに耐えられないひとびとが、「本音」を言える場として、名前と顔のない悪意の吹き溜まりたるネットを生成している。しかしこれは第三国がいちいち口を挟むことではない。自らが生きる社会の諸問題は、その内側から対峙すべきものだ。

かつて海外の学校にいた頃、非常に仲良くしていた韓国人のK君という生徒がいた。国際校では、英語を第二外国語として扱う生徒たちが集められるクラスをESL(English as a Secondary Language)という。日本の学校で言うと、成績が低い生徒のための補習クラスみたいなものだ。要するにはやく「ふつう」の授業に出たいので、英語を必死に勉強することになる。私もK君もこの中の生徒だった。まだ覚えたての単語を使っていろいろな話を試みているうちに仲良くなり、いつも成績を争う関係になった。かれは非常に発音がうまく、それに悔しい思いをしたが、筆記や作文は私のほうが上だった。

韓国語は、日本語とあまりにも似ていることが当時不思議だった。洗濯機、計算機は、それぞれ音も似ており、ハングル意味はまったく同じだとかれは言った。私はなんでこんなに似ているんだろうね、と言った。その無邪気で無神経な見解を平気な顔で述べていた自分は当時15歳で、そもそも日本が戦前にどのような国だったのかまったく知らなかった。やはり海外在住の子どもであっても義務教育ぐらいは受けさせたほうがよい。かれの母親が作った弁当からいろいろくすねた韓国料理の数々が私の舌にはまだ残っている。そのうちで一番気に入ったのは海苔巻きであって日本のものと一見似ているがまったく違う。たいへん美味なので旅行に行かれる方は大衆食堂でぜひ試してみてほしい。

1991年の秋、かれがアメリカに行くことが決まった。国際校では親の都合で、学期単位でたいてい誰かが帰国したり、別の国へと旅立つことが多いのだ。私たちはクラスで集まり、近くにある島までお別れ会として遊びに行った。写真もいろいろ撮ったのだがいまそれがどこにあるのかわからない。K君は近々アメリカに行くので、私は空港まで見送りに行くことを約束した。しかし出発の前日、かれから私の自宅に電話があった。「見送りにはこなくていい」とかれは言った。大丈夫だから、とかれは繰り返した。いまでも覚えているのは、その苦しい声だった。何か事情があるのだろうと思った。だからそれ以上の質問はできなかった。

予定が変わることはよくあることだが、K君の苦しい声がひっかかっていた。誰かが止めたのだろう、と後になって思った。国籍の件について思い至ったのは、だいぶ後になってからの話だ。いま私の手元には、慰安婦に関する謝罪を行ったアジア女性基金の資料があり、金学順が戦後初めて慰安婦としての身分を明かして被害を訴えたのは1991年8月とある。それはK君出発の少し前のことだった。思い返してみれば、K君が帰国した頃から、韓国人グループと仲良くすることが難しくなった。よりはっきり言うと、様々な嫌がらせを受けるようになった。当時はその理由がまったくわからなかった。いまそのことをある痛みとともに思い出す。私たち日本人の過去に関する無知と無関心と残酷さに深く傷ついたかれらの姿は、親の犯罪は子供の責任なのか、という問いを想起させる。K君は私を一度も責めなかったし、かれは私をフェアで対等なライバルとして扱ってくれたことを思い出す。言いたいことがいろいろあっただろう。しかしそれをすべて飲み込んで黙っていたのだ。

私たちは、「親」の素顔を知らねばならない。そしてそれはこの国の偽善的な政策とはなんの関係もない。