2013-12-24

土人の国のクリスマス

地方には様々な人間がいる。よく見かけるのが髪を茶色く染めて赤ん坊を連れた若いカップルだ。母親はだいたいヒョウ柄の何かを着用している。ブーツだったりタイツだったり様々だ。この地方ではなぜかヒョウ柄が流行しているらしい。父親のほうはどうかと言えば、背中に金色の龍の刺繍をあしらった合成皮のジャンパーなどを着用し、しばしば奇声をあげながら道端でしゃがんで煙草を吸っている。こうした光景の愉快さはネットの現状と奇妙なまでに類似しており、これからこの社会がどこへ向かおうとしているのか示唆してくれる。原始的な衝動を制御できないひとびとがこれからも増え続ける。かれらはそもそも避妊具の存在を知らないのであって地元の産婦人科によるとこのあたりは古い性病が蔓延しているそうだ。

まったく面白い世の中になったものである。東京にいたらこうした地方の現状を目の当たりにすることはなかったことだろう。それはたとえばフェイスブック等身内だけで固めたSNSの中にいればいわれのない中傷、罵倒、あてこすり等を受ける危険性が少ないのとまったく同じである。ヤンキーは日本の古層だということを痛感せざるを得ない。それは性欲と食欲と物欲だけが重視される世界であり、メンツや上下関係がなによりも価値をもつ土人文化の一種である。この社会のことを先進国などと公言しているひとびとがほんとうに哀れだと思うことが増えた。むろんこの国が後進国だという事実は、個人が土人として生きなければならないことを強制するものではない。しかし疲労がたまるものである。そしてこの疲れを保つことが重要なのだと思う。

一日机に向かう仕事でありそれ以外はテレビを見ている。NHKを見ていて思うのは一日何度も「世界一」の何々という単語が繰り返される事の恥ずかしさである。一度数えてみたことがあるがひとつの報道番組でひどい時には三回は使われていた。こうした夜郎自大的な言い回しはお隣りの中国・韓国と全く同じだ。そもそも一番とは自分が言うものではないのだがそれを誰も指摘しない。本当にそう思っていたら単に阿呆であって、また信じていないのならばそれは痛々しい敗戦国である。聞くだけで元気が奪われる。しかし無理に元気を出そうとすること自体が間違いなのだろう。隣にヒョウ柄のストッキングをベランダに吊るす愉快な隣人がいる現実を受け入れなければならない時代がやってきているのである。ネット的に言えばそれはキチガイがまわりじゅうにいる空間ということだ。

キチガイは自分たちのことを正気であり正義だと思っている。もちろんそれこそがキチガイをキチガイたらしめる条件である。地元の話に戻れば避妊具なしの性行為は気持ちがいいので善であり推奨されるものであってさらにいえば後先を考えない行為は「かっこいい」のである。そうした行為が励行される空間において人間らしくあることはきわめてむずかしい。ネットで横行する暴力行為を見ていても思うが、最近増えているように見えるこうしたひとびとはこの社会に最初から存在していたのであり、むしろかれらこそがマジョリティでありほんらいの日本人ではないのかということである。共同体が崩壊し歯止めがなくなったのである。つまりこの国はしょせん土人の国であって、先進国のふりをしていただけなのである。しかしこうした認識こそが必要なのではないか。

社会全体が低年齢化し、言語的、肉体的な暴力が横行するようになる。これは当然のことである。幼稚園を想起しよう。力の強いもの、声の大きいものがお菓子を一番多く食べられるのである。弱者を保護するのが立法府たる政府の役目であるはずだが、そもそもかれらはこの状況に対してなんの行動も起こすつもりはないようだ。そもそも弱者とは何か生まれてから一度も考えたことがないのだろう。結果としてまず地方からゆっくりと崩壊がはじまっている。もちろん崩壊しているのは「先進国日本」という虚構のことである。しかし真実ばかりがむき出しになる現状はなかなかつらいものである。疲労がたまり、元気が奪われ、やる気が損ねられる。これがまともな精神を持つ日本人が閉じ込められている現実である。

80年代、日本は経済成長を達成し目標は失われた。いろいろな原因はあるだろうが本質的なのは目標の喪失だと思える。米国に追いついたあとのことを何も考えていなかったのである。NHKの番組構成を見ていると、かれらは地方の生活や一次生産者である農家にスポットを当て、それを礼賛し日本の新しい目標を模索しようとしているように感じられる。その気持ちはよくわかるがおそらくこの凋落は止められない。そもそも目標なくして私たちは一歩も生きられない弱い生き物だからである。ほんとうは理念なくして生きられないのである。夢や理想をなくしてしまえば、いくらたくさん性交したところで、いくら贅沢な食事をしたところで、何も満たされないのである。それを奪われてしまえば、ひとを罵倒して傷を癒そうとするしかできなくなるのである。

夢も理念も希望もない社会でひとはどうして生きたらいいのかという問いがあった。もちろんそんなものがなくても腹は減るし性交も必要である。しかしこの苦しさは構造的なもので解決できないだろう。この苦しさを解決するために様々なものが創出される。そのなかには天皇陛下万歳があり、アニメーションがあり、ニコニコ動画があり、ネット右翼があり、Twitterがあり、まとめサイトがあり、そして猫動画のG+がある。しかしそのどれもが代替品にすぎない。まがい物の人工甘味料で我慢するしかないのである。今日も明日も明後日もまがい物を味がなくなるまでしゃぶって、涙も出なくなった眼で今日もPCの前に座っている。PCに自分の顔が映っている。それは名前のない土人の顔である。メリー・クリスマス、土人のみなさん。メリー・クリスマス、私たち。