2013-12-26

私は馬鹿じゃない

本日は私用があって昼間に久々に六本木に行ったのだが、ビルの壁は排気ガスで真っ黒、道は唾と吸殻とガムだらけ、薄汚いヒビだらけの高速道路はガアガア音を響かせていて、私が以前好きだった東京はこんなに汚い後進国の見本のような場所だったのか、と思わずにはいられなかった。しかし夜になるとそうした汚れがすべて見えなくなり、ネオンと街灯が薄い霧の中にかすむ叙情的な風景が戻ってきた。このことから様々なことを考える。

昼間はすべてが白日の元にさらされている。私がかつて東京で仕事をしていたころは、常に日が沈んでからの活動だった。だからこの街の夜の側面しか知らなかったのである。売春宿では、女の肌のシミや妊娠線を隠すために極力照明を落として営業をする。東京とはまさに売春婦であるということに思い至り苦笑せざるを得ない。照明を落とした状態でのみ鑑賞に耐えうる小汚い社会、それが私たちの得た国である。

それも悪くない、と思う。喫茶店の窓からはミッドタウンの灯りが見える。久々に店で淹れてもらった珈琲はうまかった。東京の喫茶店のレベルの高さはいつも思うが異様なものがあり、私もかなり素材や道具にこだわったことがあるが、一度も店の味を再現できたことがない。いま私の自宅兼職場にあるのは、一グラム一円に近い出所不明の謎ブランドの豆とボタンを押せばいいだけのコーヒーメーカーだ。ひとは自分の舌の貧しさを自覚しなければならないが、それもまたほんらいむずかしいことだ。

しょせん後進国にすぎない社会が先進国のような顔をして威張っている。アジアの盟主だとかナンバーワンだとかいうたわごとを吐かずにはおられない。こうした態度のすべては本当の自信を勝ち得たことのない負け犬根性からくるということは自明だが、それは「本音」があふれるネットを見ていてもよくわかることだ。どうしようもなく苦しくて劣等感に毎日のように苛まれ孤独を誰かに何とかしてもらいたくてそんな馬鹿げた白昼夢でもすがりたくてたまらないのである。

鏡を見ることはつらいことだ。誰しもが理想的な自分を見たがっている。たとえば馬鹿と思われるのが怖くてたまらない。何がなんでも小利口な頭のよいインテリのふりがしたいと常々思っている。不思議なのはネットのすべての人間がこうした欲望を抱えているように見えることだ。よっぽど不幸で精神的に貧しい生活をおくっているのだろう。Twitterやまとめサイトで頭がいいふりをしなければ耐えられないほどみじめな人生が、ブラウザを閉じた先に待っているのだろう。ほんとうにかわいそうでならない。

「目標を失った私たちはどうしたらよいのか」という問いを読者からいただいている。眼下に見える六本木に集まるひとびとはひきつった顔をして下をむいて歩いている。この偽善の帝国においては真剣な問いすら貴重なものである。阿呆な政治家とスーツ連中が大好きな横文字と漢字だらけの理念は無価値であり長続きしないことは自明だ。甘い甘い離乳食ばかりを口にしてきたかれらには人間というものはどういう生き物なのかなんの理解もないのである。先日も床屋で文藝春秋を読んでいたら金ピカのスーツの高齢者が集まって「日本は大丈夫ハハハ」みたいなことを書いていた。もちろんそう見えるに違いあるまい。

問いに答えねばならない。眼の前の女と、子供と、障害者と、老人と、外国人に、積極的に優しさを示しなさい。弱者のふりをした弱者ゴロのことではなく、またどこかにいる大文字の他者のことではなく、手に触れられる距離にいる、実在する弱者に対して優しさを持ちなさい。あなたのめぐまれた人生が、すべての人間に対して与えられているわけではないという想像力を持ちなさい。偽善者と幼児だらけの社会で、それがいかにむずかしいことか知った上で、なお不可能をこころみなさい。