2014-12-18

クリスマス優待販売のお知らせ:2014年版

恒例のクリスマス優待販売です。
お求めやすい価格になっておりますので、この機会にどうぞ。例によって、クリスマスから年末年始まで実施します。

こちらのAmazonストアまでどうぞ。

2014-08-02

ビー・ジャパニーズ(3)

クリスマスの電飾が血管のようにシュロの木に絡み付いている。日に炙られたコードは劣化して表面が白っぽくなり、あちこちにひび割れが入って、銅線がむき出しになっている。午後五時だというのにまだ日差しは強く、担任が置いていった箱から新しいコードを物色しているYの影が、地面に黒くくっきりと焼き付いている。私はかび臭い物置から持ってきた脚立を木のそばに立てて上り、木にまとわりつくコードを確認してみる。よく見るとコードはあちこちが切断されている(蟻か何かに切られたのかもしれない)。丘の上に立つ私たちの学校の駐車場からは、さほど遠くないところにタンカーが停泊している港が見え、水面には一向に沈む気配がない太陽がぎらぎらと光って映っている。

セメスターの終わり、クリスマスパーティが週末に学校のホールで開かれることになっていた。私とYは美術教師の担任に放課後呼び出され、駐車場のまわりに生えた木々に電飾を取り付ける作業を言いつけられていた。実際に命じられたのは、ホームルームに遅刻してきたYだったのだが、私が手伝うと申し出をしたのだった。Yはどこか無表情に箱の前にしゃがみ込み、コードを一本一本つまみあげてはもとに戻している。めったにないことだが、Yはスカートの制服を着てきていて、盗み見る私の目に、姿勢を変えたYの真っ白なふくらはぎが飛び込んでくる。慌てて目をそらし、幹から使い物にならないコードを取り外す作業に没頭した。

コードを全部外して、日陰で休んでいるYに手渡す。車の歯止めに腰を下ろしたYのすぐ側を、真っ赤な蟻が列をなして行進し、森へと消えている。Yが肉食の蟻に噛まれるのではないかと思い、私はあぶないよ、と、Yの手を取った。「さわらないで!」とYが突然声をあげて、私は驚いて後ずさる。列を乱した蟻たちが、あちこちに走りまわりはじめる。陽炎の揺れる音が聞こえるような沈黙の後、Yはごめん、と言って、箱を持って立ち上がった。どんな言葉を返せばいいのかわからず、私は曖昧にうなずく。早く終わらせよう、とYはつぶやいた。あと二時間もすれば、日が暮れるよ。蟻が一匹、Yの足にたかっている。それは血の雫のように見ええる。

Yは自分がやりたいと言って、シュロの木に立てかけた脚立を上った。私は箱を持ったまま、Yの背中を見上げている。塩気をはらんだ熱い風が吹いて、私たちの間を通り過ぎる。ふたりの間には大きな隔たりがあるように感じられて、どうしたらよいのかわからず、声をかけようとして、何度も口ごもる。Yはその間、じっと何かを待っているように、木の幹に手を触れたまま黙っている。風がまた吹いて、Yのスカートを大きくふくらませ、大理石のようなその太ももが露出する。蟻はどこかに消えている。どうせ、とYは言った。きみも、見たいんでしょう、わたしのスカートの中にあるものが欲しいんでしょう、きみも他の男と同じように、わたしを裸にして、自分だけのものにしたいんでしょう――。

2014-07-29

ビー・ジャパニーズ(2)

窓にぶつかって死んだ鳥の死体を庭に埋葬している。Yと電話をしている時、窓に激しく何かがぶつかる音がしたのだ。思わず悲鳴をあげて立ち上がると、耳元からはYの心配するような声が聞こえてくる。窓の外、ベランダに何かが落ちている。私はちょっと待って、と言い残し、直射日光に炙られるベランダに足を運ぶ。そこには口から血を流した鳥が落ちている。首が奇妙な方向にねじ曲がっていて、一目でもう助からないことがわかった。鳥の血も赤いんだな、と私は思う。

あの後、Yとはホームルームで少しずつ話すようになった。それからたまに日本人会の連絡を口実に、電話でのやりとりもするようになっていた。あの日、Yがなぜ家で泣いていたのかは、私は一度もたずねなかったし、彼女もそれを話そうとはしなかった。口にしてはいけない秘密を共有しているうちに、私たちは昼休みにカフェテリアで昼食をとったり、お互いの家が歩いていける距離にあることがわかってからは、たまに一緒に帰るような関係になっていた。

私はベランダから戻ってきて、Yに状況を説明した。窓がさ、鏡みたいに空を反射していて、ずっと飛んでいけると思ったんじゃないかな、首の骨を折ってて即死だったみたいだよ……これから、見に行っていい? とYが唐突に聞いてくる。私は窓の外、少し離れた場所に建っているYが住む高層マンションを眺める。陽炎に揺らめく塔の窓のどれかで、Yもまた私のことを見ているような気がした。私は黙ってうなずいてから、いいよと口に出して電話を切った。奇妙な静けさが、あたりを包んでいた。

私の家の小さな庭には枯れたプール(手入れがめんどうなので放置されていた)と、申し訳程度に日除けのため植えられた木が何本か植えられている。私は頭にタオルを巻いて、物置からスコップを出し、鳥の死体をちりとりに載せて、庭で適当な埋葬場所を探し始めた。鳥の目は開かれたままで、まだ輝きが残る眼球が、空を反射してちらちらと光っている。庭に立って中二階の居間を振り返ると、その巨大な遮光窓には、くっきりと入道雲が映っていた。きっと鳥は、自分が死んだことすら、気がついていないのだろうと思った。

木陰で汗を額から流しながら土を掘っていると、庭の鉄製のゲートのあちら側から、私を呼ぶ声がした。白い長袖にジーンズを着たYだった。開いているよ、と口にする前に、Yはゲートを勝手によじ登って飛び越え、器用に地面に着地する。そして近づいてくると、鳥の死体をまじまじとみつめた。「死んでるの?」と真顔でたずねるので、死んでるよ、と穴を掘りながら答える。Yはしゃがみ込み、興味深そうに死体を指でつつこうとする素振りを見せたので、私は触らないほうがいいよと忠告する。そしてYの横顔を覗き見る。Yはかなりかわいい部類だと思う。ただ女らしくするのは嫌なのだということは、その時にはもう理解していた。

Yに手伝ってもらって、鳥を土の中に埋め、最後にその上に適当な石を置いた。ひどく汗をかいて、シャツが汗だくになったが、どこかから潮の香りがする風が吹いてきて心地良かった。小さな島国なので、どこにいても海が近いのだ。私はぼろぼろのベンチに腰を下ろし、汗をタオルで拭う。Yは即席の墓の前に立ったまま、私に背中を向け、掘り起こした茶色い盛土を見つめている。痛かったかな、とYが言う。死ぬのって痛いのかな? わからないよ、と私は答える。たぶん、痛みも感じる暇なかったんじゃないかな……。その時、私は見る。Yの背中、汗で透けたワイシャツの背中に、うっすらと浮かぶいくつかの痣を。痛くなかったんだ、とYが言う。よかったね、きっと、死んだことすら、もう気がつくことがないんだもの。

2014-07-28

ビー・ジャパニーズ(1)

――なんで日本人はいつでも日本の悪口ばかり言ってるのかしら? 自分だけは違うっていいたいのかな、わたしはそういう自意識がだいきらいなの、父さんのことは好きにはなれないけど、あのひとの悪口を言っていると自分のこころも傷つくような気がするの、だから黙っているのよ、どんなに憎んでいても我慢するのよ――。

80年代後半、どんな外国でも日本人はコミュニティを作りたがっていた。どんな国であっても在留邦人が一定数集まれば、日本人会のような組織を必ずつくっていた。私がいた熱帯のシンガポールにも日本人会があり、日本人学校があり、本国と同じような、小規模な祭りやパーティのような、様々な季節の催し物が、彼らの手によって企画され、実行されていた。当時日本経済は破竹の成長を続けており、それはずっと続く夢のようにも思えた。

日本人学校を小学部まで通った後、私は欧米人や中東の子女が通う国際校に、親の意向で転校を強いられていた。当時その学校には、両手の指で数えるぐらいの数しか日本人がいなかったので、保護者たちが作った日本人連絡網は、全員の名前と電話番号と住所が書き込まれていたけれど、隙間だらけの一枚の紙にすべてが収まっていた。当時はまだ電子メールもインターネットもまだ発明されていなかったのだ。

季節はクリスマス近くだったが真夏日が続いていた。学校が年末年始の「冬」休みにはいろうとするなか、私の母親は日本人会の忘年会とやらのパーティの準備で忙しくしていた。根本の家は連絡網で下から二番目で、その一番下にクラスメイトだったYの名前があった。Yとは学校ではまだほとんど話したことがなかったが、顔はホームルームが一緒だったので知っていた。当時は英語の授業についていくのがやっとで、日本人の友達をつくろうという余裕がほとんどなかったのだ。

そのYと初めて話をしたのは、遊びに出かけた母親に代わりに、連絡を電話で回しておくように頼まれた時だ。私はなぜかその時の光景をよく覚えていて、居間の窓から斜めに太陽のぎらぎらとした光が射しこみ(エアコンはなぜか付けていなかった)、頭上では天井の扇風機がまわっていて、空にはやたら巨大な入道雲が浮かんでいた。私はYの家に電話をかけ、コール音が鳴り続けるのを聞きながら、コードを指でくるくる回していた。誰も出ないのでもう切ろうかと思った時、Yが電話に出た。

初めてYと話しながら、私は単に用件を伝えていった。パーティは十九時からで、服装はこんな感じで、参加費は云々……。それが普通の電話ではなかったのは、Yが受話器のあちら側で泣いている声が聞こえたからだった。いや最初はわからなかった。変な音がすると思っただけだった。だが用件を伝え終わる頃には、Yが泣いていることに気がつかないわけにはいかなかった。Yはごめん、と言って電話を切った。私は受話器を持ったままソファに腰を下ろして、しばらくぼんやりとした。泣いている女と話した経験は、私にはなかったからだ。

2014-06-22

男と女たちの風景

ネットには男女論があふれかえっている。みな自分が知っている事例を根拠にしてものを語っている。だがしかしそれはおしなべてGoogleで検索すれば出てくるまとめサイトの体験談の水準を超えていない。事例に基づいてものを考えてはならない。経験に基づいてものを語ってはならない。知らないものについて知らないまま考えなければならない。

不倫をしている男は自分が恋愛していると思っている。かれらは相手に尽くし、お金と時間を使い、愛しているとさえ言ったりする。しかし多くの人間が考えるように、かれらは別に下半身に脳味噌があるわけではない。かれらが知らずと求めているのは、恋愛という二文字に代表される何かだ。妻とは恋愛できない。よって他の相手にそれを求める。これは肉の欲とは微妙に違う、もっと抽象的な衝動だ。

女はどうか。不倫をしている女は自分が恋愛していると思っていない。その所作を注意深く眺めると、相手は自分を愛してくれない夫の下半身の代替物に過ぎず、その裏切りは夫への復讐である。本心ではできれば夫に愛されたいのに、それが叶わないからあてつけとして浮気をするのであって、恋愛という要素は表層的な化粧でしかない。女にも強い欲があるが、女のそれは愛情がなければ発動しない何かでもある。

誰でも恋愛を必要としている。男は妻以外の女相手に恋愛を試み、女は夫と恋愛するために別の男と寝ることを選ぶ。雑誌が、テレビが、ネットが、読者に恋愛をするように煽っている。恋愛こそがゆいいつ求めるべきものだと誇張している。もちろんそのほうがかれらがタイアップしている広告主の商品が売れるからである。人間が持つ根源的な欲求をひたすら煽って、その気がない人々を恋愛に駆り立てなければならない。

少し前「性行為できれいになる」という記事に苦言を呈していた女性の医者がいたが、その気持は理解できるものだ。逆に考えてみれば、じゃあ性行為ができない人はきれいになれないのか、そもそも恋人がいない人はきれいになる資格はないのか、という圧力をかけられているのと同じことだからである。それが事実かどうかはともかく、私たちは自分の欲望が所詮他人の欲望に過ぎないことを知りつつも、それを強制されることには不快感を覚える。それはきわめてまともなことである。

人は恋愛しなくても生きていくことができるが、根源的なものに抗うことは難しい。恋愛の副産物として得られる性行為をする権利は貧者の娯楽でもあり、拡大し続ける格差社会においては、すでになくてはならぬ飴玉の一つでもある。地方に行けば髪の毛を金髪に染めて安物のジャンパーを羽織った若者カップルが子供を三人連れて歩いているのを目撃することができる。貧者の娯楽は根源的な欲求を満たすものであり、かれらはその疑いようのない事実を体現する証拠そのものである。

恋愛を知らないなら知らないままでいるほうがよい。人間は自分が知らないものを欲しがることはできないからだ。一度手にしたものを奪われればそれは塗炭の苦しみである。一度美味いものを食べてしまえば、いつもの食事が味気なくなる。それならばむしろ知らないままのほうがしあわせに暮らせるというものだ。第三者に褒められたり、認められたり、必要とされたり、愛されたりすることの心地良さなど知らなくても、ありあまるほど時間つぶしの道具が揃っているではないか。

一方都会では、暗い顔をした夫婦が寂しく夕食をファミレスで取っていた。男も女も、どうしようもなく孤独だった。

(2014年6月22日)

2014-05-21

つらい人生の過ごし方

夜降り始めた雨が深夜になって豪雨に変わった。私は机に向かいながら、窓の外を降る雨を見ている。仕事をしながらSNSを見るのが私の趣味だ。ツイッターは以前やっていたのだがまとめサイト(Togetter)の空気にすっかり嫌気がさしてやめてしまった。世の中の物事には簡単にはまとめられない何かがありそれこそが一番重要なものなのである。とはいっても集中している間、脇において見られる何かがあると逆に結構仕事がはかどることが多いので、Google+だけはやっている。昨晩そこで「楽になりたい」という趣旨の書き込みをみてしばらく考え込んだ。もちろんそこにどんな事情があるのか他人にはまったくわからないのだが、楽になりたいというのは私たち共通の願いであるように思えるからだ。というより誰でも楽になりがっており、苦痛から逃れようとする根源的な欲求によって無自覚に突き動かされている、というのが私たちの有り様であるように思える。

だがその逃れ方には様々なものがある。先日、ナイジェリアで西洋的な教育を受けている女子生徒たち数百名を誘拐したボコ・ハラムという集団のリーダーがネットにアップロードした動画をニュースで見た。男はきわめて不快な顔をしていた。醜いからではない。そこに表出していた、男に特有の弱さがあまりにも哀れだったからだ。私が絶望的な気分になったのは、あのリーダーの男のような顔をした人間は、私たちとそんなに遠くないところにいるのではないだろうか、ということだった。ひとは、自分がやられたことしか他人にできない。かれらの暴力は、自分たちがやられたことを、誰かに復讐するという動機に基づいている。それは西洋的な教育様式が優れており自分たちが「後進国」であることをまざまざと見せつけられたアジア人が持つ劣等感と同型であり、それによって傷ついた自尊心やプライドを回復させようという心の動きが、「おれがやられたんだから別の人間を傷つけてもいい」という自己正当化につながるのである。

だが人間は心をもって生まれてくる生物であり一応は罪悪感を持っている。人間の心は性善であって(私はそう信じる)、実は人を踏みつけたり、傷つけたり、苦しめたりすることによろこびを感じられるようには生来出来ていない。それができるのはそれよりもはるかに巨大な怒り、憎しみが、自分の傷を癒すという目的のために暴力として行使されるからである。そしてそういう人々の顔は皆似ている。おれのしていることはわるいことだ、わかってる、でもおれだって傷ついた、だからおまえを殴る、おまえがよわいからわるい、おまえがいまくるしんでいるおれの前にいるからわるい――という論理だ。暴力というものはじつは極めてシンプルな動機に基づいており、私たちはこれと同型の暴力をネットでいま毎日のように目にしているのである。ボコ・ハラムの傷ついた自尊心を癒せるのは暴力だけであり、一線を踏み越えた以上かれらの未来はもう決まっている。それは人間の心を忘れた存在がゆくことになる生き地獄である。

傷つけられた人間は、それを免罪符にしてひとを踏みつけにしてよいと考える。これは自然な心の動きであって、これを責めたり馬鹿にしてはならない。だがこうした心の動きを知ることなしに、自分のうちにある暴力に相対することはできない。人間は誰でもひとつぐらいは、壊せるものを持っている。それは親子関係だったり、恋人関係だったり、夫婦関係だったりする。自分が傷つけられたから、目の前に存在する無関係な誰かを傷つけ、それを壊したくなる気持ちを誰でも持っている。それを一般的には八つ当たりと言う。力(肉体または精神的な)を持っている人間の八つ当たりはきわめて危険であって、ボコ・ハラムの場合は武装しておりそれを止めるすべは別の暴力をもってあたるしかない。ネットに蔓延することばの暴力はみながそう考えているよりもはるかに危険でありそれによって損ねられているものの大きさを誰もが軽視している。というよりそれを無視し、軽視し、存在しないかのようにふるまわなければ、もう日本社会で生きていくことはおそらくできないだろう。よって暴力は連鎖する。

みな誰でも楽になりたいと思っている。受けた傷を癒したいと思っている。あるいは傷つけられる毎日のなかでなんとか人間らしく生きたいと思っている。この画一的な社会は弱者にきびしく同調圧力はきわめて高く、会社をはじめとする組織は人間らしさを奪うベクトルで自らを守り、維持し、利潤を産み出そうとする。日本人としてつらい人生というほかない。しかし、そうした傷がまるでなかったかのようにふるまうことだけはやめなければならない。楽になってはいけない。なぜならいかに強がって自分は傷ついてないと強弁したとしても、結局その傷はこころのなかで腐ってやがては毒を全身に巡らせはじめるからである。物事はシンプルに考えるべきだ。つらさ、くるしさ、かなしさをなかったことにしてはならない。その傷の存在と向きあうことなしには、人間はやがてはその苦しみから誰かを踏みつけてよいと自己正当化を始める生き物だからである。痛みを捨ててはならない。

(2014年5月21日)

2014-05-19

霧の中

深夜から朝にかけて突然街が深い霧に覆われることがある。五十メートル先が見えないような濃霧だ。もともとこのあたりは山だったらしいのでその名残だとは思うが、窓を開けるとあたりの風景すべてが白いもやに覆われているのを見るとぎょっとする。数時間前には何もなかったのだ。地獄がもしあるならばこういう眺めではないかと思う。ほとんど先が見えないような場所で永遠に出口を求めてさまよい続けるのだ。前も後ろもわからなくなり、霧の中で座り込んで、来るのかどうかすらわからない助けをずっと待ち続けるのである。

私は地方に住んでいるが、車は持たない主義だ。買い物はすべて徒歩で行っている。一番遠い卸は往復六キロ離れておりたまに肉をキロ単位で買いに行く。荷物が多すぎる時にはタクシーを呼ぶが基本的には徒歩だ。そのための足に合った靴、荷物を運ぶためのリュックサック、日除けグッズなどが必須である。徒歩で行くのが好きな理由のひとつは、道の途中で立ち止まることが容易だからだ。整備されていない竹林に野花が咲き乱れる空き地、ぼろぼろのシャッター商店街、十年以上前に潰れたまま放置され荒れ果てた店舗。これからこの国がどうなるのか、地方にいるとなんとなくわかるような気がする。そしてこの社会を覆っている霧のような空気が見えるような気がする。

統計やデータに回収されないのはつねに世の中の空気だ。学者でも評論家でもない市井の人間は空気についてのみ誠実に語ることができる。私の周りにいる人間はなぜか一定以上の教養がありかつ経済的に恵まれている人々ばかりなので、こうした地方に住む若い人々(最近は、マイルドヤンキーというらしい)のことを嘲笑するような発言にたまに苛立つことがある。ひとを教養や貧富の差で馬鹿にしてよいのか、と思うが、もちろん馬鹿にして良いのが日本社会であることは皆さんご存知の通りである。いまだにそんな差別的なレトリックがまかり通り大量生産されるツイッターを見ていれば誰でもわかることではある。だがあまり愉快ではない。自分がその一部であることを考えるとさらに苛立つものである。そしてこの苛立ちには出口がない。ひとは自らの出生を裏切ることはできないからだ。

地方にはイオンのショッピングモールと、コンビニと、アマゾンと、そして衰退する個人商店しかない。だが思い出してみて、かつてこの社会にはそもそもモノもお金もインフラもなかった時代があり、それを誰よりも切望して、寄生虫だらけの野菜を改善し、飲料水の品質を上げ、戦争の苦い経験から原油に頼らない電力インフラをつくってきたのが私たちの父母の世代だったことは動かすことのできない事実だろうと思われる。それ自体はアジアの他の国でも見られる後進国の切実な願いであって(それがどれほど切実かは隣国を見ればよくわかる)、いまもそれを実現したいと足掻いている国々がアジア全域にあることを私たちは知っている。しかし日本がなぜこうなってしまったのか、という不満を持っている世代(私のことだ)もあるし、そして達成された利便性の高い社会しか知らずそれに心の底から満足して「日本に生まれてよかった」と無邪気に言っている世代がいることも知っている。

霧の中では、人は見たいものを見る。想像の中の日本。想像の中の祖国。想像の中の自分。何も見えないのだから、好きにファンタジーを膨らませればよいということになる。ショッピングモールで一日時間を使って買い物ができる日本はよい国なのだ。二十四時間コンビニで買い物ができる日本はすばらしい国なのだ。そのとおりである。だがおそらく、私たちが本当に目指したかったものは、利便性だけがあふれる社会ではなく、豊かであることにより、結果的に自分が救われる社会、誰かを踏みつけにしたり、第三者を土足で踏みつけることなく、自分もまたしあわせになれる社会であったのだろうと思えてならない。そしてその実現には残念ながら失敗したのかもしれない。社会が階層化してラベリングされお互いが石を投げつけ合い、同情や共感が不在のまま各個人の断絶がますます進んでいく。私たちを取り巻く霧はますます濃くなっていき、何もかもを可視化するネットが、私たちをますます盲目にするだろう。

暴走族が今日も路地を走っている。かれらに届くことばを生きねばならない。

(2014年5月19日)

2014-05-15

傷の在処

コンビニに煙草を買いに来たら雨が降ってきて、軒下で煙草を吸いながら雨を眺めている。前にも同じようなことがあったと思うが、基本的に傘が嫌いでほとんど持ち歩かない。雨の日はできるだけ外出を控えるようにしているのだが、梅雨にかけて大気が不安定なので、まったく雨の気配がなかったのに、突然降り始めて身動きが取れなくなるということがよくある。

コンビニの灯りに照らされた周囲は明るいが、そのあちら側に広がる地方の街は暗闇に包まれている。もちろんあたりの店はすべて閉まっており、近くにあるシャッター商店街の店舗のガラスが汚れひび割れているのが見える。震災直後は東京都内にいたが、節電のため首都高の下の街道が真っ暗だったことを思い出す。このあたりはそうした節電施策をもう取っていないはずだが、やはり震災直後のことを思い出して憂鬱になる。この社会に対する信頼がぼろぼろに瓦解していくのを、多くのひとが実感し、そしてその衝撃からじつは立ち直ってはいないのだと思う。そこでカラ元気を出しても仕方がないのだ。自分たちが弱っていることを認めることがなによりも大切なのだと思えてならない。

弱っている人間は攻撃的になり、ヒステリックになり、他罰的になる。どれもが私たちがネットで毎日のように目撃しているものである。震災直後、かつて知人と思っていた人間から突然毎日のように嫌がらせを受け始めたことがあった。当時その理由はわからなかったが、振り返って考えてみて、あの時は皆完全におかしくなっていたと思える。もちろん、自分がおかしくなっていることがわかっても、それをどうにかすることは難しい。私たちが個性や性格と考えているものは、自分を取り巻く言語環境や社会的要素の圧倒的な影響下にあって、そこから出ることなしには、それを変えることは不可能だからである。

見えない傷、ということを考える。体の傷は目に見えるし治療も簡単だ。しかしこころや誇りが受けた傷はいったいどうやって癒したらいいのか。津波で家や思い出が文字通り瓦礫となった現実に加えて、私たちの世界一安全だと言われていた技術が自然災害に耐えられなかった過酷な事実によって、ただでさえ狭い国土の一部は失われ、行き場をなくした住民は文字通り夢や、目標や、職場や、友人や、家族を奪われている。どこか遠い誰かの不幸ではないのだ。たとえば関東に在住の人間にとって、それは数時間かければ行ける場所に住んでいた人たちなのである。原発事故から三年がたったが、私たちの受けた傷はいえていないどころか、血がだらだら流れ続ける止血すらできない裂傷にみえる。

いま私が唯一使っているSNSはGoogle+なのだが、そこで「自分の国に誇りがもてない」ひとびとがこの社会にはたくさんいる、という書き込みを見かけた。私はひとには自分が所属するふるさとへの愛情、いつくしみ、誇りといった肯定的な感情がなければ生きていけないものと思っている。安心して帰ることができる場所、自分のアイデンティティの寄る辺となる土地がなければ、まっとうに生きることはできないと考えている。それが第三者によって奪われてしまえば、それは戦争である。ふるさとをめぐる戦争はいまも外国で行われている。私たちが直面しているのは、信じていたふるさとの信頼性が根本から揺るがされ、それを信じることが以前のようにはできなくなった不安、怒り、恐怖、悲しみの連鎖であって、こころの問題だ。だがこころが損ねられれば人は限りなく残酷に暴力的になれるのである。

人災としての大惨事によって傷つけられた自尊心や誇りやプライドの悪影響はこれからも続いていく。事故が忘れられたというのは嘘であって、私たちはいまも苦しめられているのである。直接的な被害の有無の問題ではないのだ。私たちは他人と一緒に苦しむことはできないが、他人が苦しんでいることを完全に無視して生活できるほど冷血な生き物というわけではない。それは小さな澱となって私たちのこころに蓄積し、ある閾値を超えれば、たいていの場合、怒りや悪意といった負の感情となって、自分よりも弱いものに向かうのだ。私たちはそれをネットとそれが構築する空気によって支配される現実において目撃している。これを止めるためには、傷ついた人間の悪意を嘲笑したり攻撃するのではダメなのだ。その傷の在処――それは私たち自身の傷である――を明らかにし、それを理解しようとすることが問われているのである。いかにそれが困難であったとしても。

この国にうらぎられてつらいね、くるしかったね、かなしいね。そう、言うべきなのである。信じていた高い技術は津波を十分に想定せず、世界一のロボットは原発に入ることすらできず、大災害にあたって機能不全をおこし停止した行政に官僚主義に政治に、右往左往するだけだったメディアに、他者に八つ当たりし毒をまきちらす道具としてしか機能しなかったインターネットに、いまも傷の存在を認めることができない、弱くて愚かなひとの有り様に、うんざりして、くやしくて、何もかもがいやになって、それでも自分はふるさとがほしいのだと、ふるさとに蘇ってほしいのだと、少なくとも安心と安全があったあのふるさとに帰りたいのだと、もしそれがかなわぬのならば、共にその死を悼み、追悼し、滅んでしまって二度と生き返らないその屍の前で寄り添って手をとりあって涙を流すことが、私たち市井の人間がまずやるべきことなのではないかと、そう、思えてならない。

雨が止んだ。もう、朝である。

(2014年5月15日)

2014-05-10

雨のバス停

突然降ってきた雨が止むのをバス停で待っている。屋根がある待合所は三方をベニヤ板に囲まれ、壁にはちり取りと灰皿がぶら下げられている。「きれいに使ってください」という但し書きはおそらく老人が書いたものだ。誰かが個人的に清掃しているのだと思うがその本人を見たことはない。空を見上げると雲の向こう側から雷の音が聞こえてくる。私はため息をついてぼろぼろのベンチに腰を下ろした。家までは歩いて七分ほどの距離なのだが、先日買ったばかりの靴をずぶぬれにするのはためらわれた。細い銀色の雨がアスファルトに降り注ぎ、小さな川を作っている。ポケットには携帯が入っているが、取り出そうとしてやめた。そんなものを使うぐらいなら煙草でも吸っていたほうがましというものだ。

三週間ほど趣味の禁煙をしていたが、すぐに飽きてまた吸い始めている。壁の灰皿にはほとんど吸殻が入っていない。すぐに切れるライターに嫌気がさして最近はマッチを使っている。残り本数がわかるのでいつ切れるかどうか心配しなくてもよいのだ。そのマッチで煙草に火をつけて雨を眺める。だんだん激しさが増してきたようだった。家に電話して傘を持ってきてもらおうかとも思ったが、考えなおしてぼんやりと空を眺める。あたりには夏の気配がたちこめており、遠くに見える丘の緑は色濃くひかり、雨は冷たいというよりは暖かく、肌にあたる細かい霧のような水滴が心地良い。地方のバス停には昼間はほとんど誰も来ない。人が集まる時間というのは決まっていて、だいたい早朝の通勤時間にしか人がいない。

最近「黒子のバスケ」のイベントに脅迫状を送り続けて世間を騒がせ威力業務妨害罪で逮捕された渡辺博史被告の意見陳述が話題になっていたが、私の書いているものを読んだひとがこの渡辺被告に「私」が似ているという意見を見つけて興味深く読んだ。人は誰でも個別の不幸、あるいは困難に直面しておりそれ自体は別に珍しくもないごくあたりまえの生の条件である。だから私はこの渡辺という人物にほとんど興味を持てなかったのだが、「こんなクソみたいな人生」と雄弁に語る渡辺被告と同じように考え生きている同世代の人間がおそらくこの社会に無数に存在していることは実感している。かれらが強いられる孤独や孤立には本人の責に帰するべきではない構造的な理由があるものと思うが、それを語るのは評論家の仕事だろう。よって毎日起きる強姦殺人暴行等の事件と同じように、沈黙するのがまっとうな人間のすることであると思われる。

とは思うが、ひとつ書くとすれば、個別の不幸は別に面白くもなんともないものである。それを脅迫行為等でわかってもらおうとする試みそのものが無意味であると言うことが理解できていないという点で、渡辺の試みは敗北するほかなかったと思われる。世間の恐るべき無関心の前に、いくら言葉を尽くしたところで、それを聞く人間など誰もいないのである。人は誰でも自分の物語を語りたがる。そしてそれが面白いことはまれであり、語り手に対して人間的な興味(愛情、好意)がある聞き手がいるという限定された条件の元でしか、それがきちんと相手に届くことはほとんどないと言ってよい。どうしても吐き出したいくるしみやかなしみは不特定多数の相手に書くべきものではない。それは無視されるか、人の不幸が三度の飯より好きな人々のかっこうの飴玉になるだけなのだ。そうしたことは、いまそこにいる肉体を持った誰かに伝えるしかないのだ。

徹底的に絶望するしかない。何も伝わらず、誰にもわかってもらえない。こうした地点にまず立つことでしか、生きるということは始まらない。もっとも、これだけネットが広まった現在、わかってもらえるような幻想だけは蔓延している。何しろすぐに誰とでも繋がっているように思える時代だ。しかし、私たちは常に思い出すべきだ。いま目の前にいる人間と分かり合うことさえとてつもなく困難なのに、どうしてそれがネットでは可能だと思えるのか、そう常に自問しなければ、私たちはどんどんひとりぼっちになっていくだけである。そして実際にそうなりつつあり、状況はどんどん悪くなっている。とは言ってももうこれは誰にも止められないだろう。つまり誰かに理解されたい欲望を抱えた渡辺被告のような人たちが救われることはなく、類似の事件がさらに続発していき、それがネットでは嘲笑される笑い話として流通し消費されるだろう。

雨がさらに激しさを増している。雨の向こうに私が住む旧公団住宅が見える。その住人はほとんどが老人であり夜になれば早々と消灯されまるで誰も住まないゴーストタウンのように見える。昼間は昼間でぼろぼろで灰色のコンクリートが巨大な墓標のように見えるだけだ。しかしこのあたりは自然が豊富で空気はきれいである。あちこちに点在する広大な空き地には野花が咲き乱れ、その名前はほとんどわからないが、植物図鑑でも買ってひとつひとつ覚えていこうと思っている。何しろ時間だけはたくさんある。生きているだけで幸運であると言える。それがどんな流刑地であったとしても、住んでみればそれなりに楽しいことがあるものだ。そう思いながら煙草を吸っている。バスは一時間に二本しか来ない。車もほとんど走っていない。こんな人生もまた、死亡率百パーセントであるから、こんな雨の中でそのうち平穏に終わるに相違ないのである。

2014-05-09

相手が処女じゃなくてがっかりした童貞の皆さんへ

がっかりしてしまいましたか、失望してしまいましたか、なぜあのひとは処女ではなかったのか、なぜ他の男に股を開いてしまったのか、なぜ身体を触れさせてしまったのか、ああがっかりです失望ですああ許せません、怒りがあります身体が震えますこころの平安が永遠に消え去ります、自分の気持ちがよくわかりません、ただただ言いようのないどろどろとした泥沼に全身が沈んでゆきます、これが嫉妬でしょうか、羨望でしょうか、妬ましいのでしょうか、元の男がうらましいのでしょうか、きっとそうなのです、でも一番つらいのはわからないことなのです、自分の胸がどうして痛むのか、それがわからないのがなによりもつらくくるしいのです、

IT業者のみなさまがつくってくださる便利で偉大なインターネット、ああどうして記録されてしまうのでしょう、他の男とのメールのやりとりが、チャットのメッセージが、SNSでのいいね!のやりとりが、何もかもが記録され公開されてしまいます、いつでも閲覧することができます、過去の男との情交の様子がすべて何もかも記憶され、携帯に、ハードディスクに、メモリーカードに、光学メディアに、考えうるすべての記録媒体に、かけがえのないあのひとの裸体も保存されてしまっています、ああ誰でも確認できます、いつでも見ることができます、誰でも撮れます、誰でも撮影させます、自慰動画だって彼氏に頼まれれば送ってしまいます、ハメ撮りだって撮らせてしまいます、ネットワークを通して拡散してしまいます、ああくるしいああかなしいああやるせない、もう生きていくのがつらすぎるのです、

こんなに好きなのに、この世のどんなものとも交換不能な誰かをようやく見つけたのに、あのひとは処女ではありませんでした、あのひとはすでに他の男と性交を繰り返していました、野外で、車の中で、ラブホテルで、相手の妻が留守の間にこっそり忍び込んだ夫婦のベッドルームで、旅行先で、すべてが記録されています、何もかもを知ることができます、技術の進歩は偉大です、私たちが知らなくてもよかったこと、知りたくもなかったこと、すべてがむき出しに露出してしまいます、あのひとは処女ではなかったので過去があります、どんな女にもそれぞれの過去があります、別の男とたっぷり性交して楽しんで口移しでチョコレートを食べたりした甘い記憶があります、そしてそのすべてが記録されデータとして残っています、くるしいですくやしいです、なぜ残っているのでしょう、知らずにいれたらどんなによかったでしょう、ああ息ができないああ胸がじくじくと痛みます、

綺麗事ばかり言っている意識の高い連中が今日も説教しています、今日もどこか高いところからご高説を垂れています、いわく女には過去があるものだ、いい男とは女の過去をすべて受け入れるべきだ、男は理性的で寛容であるべきだ、ええまったくごもっともですまったくそのとおりです、まったく一度も苦しんだことがない連中ばかりです、まったく自分が経験したことがない連中ばかりです、どうしてこんなに綺麗事ばかりが語られるのでしょう、どうして誰もがドヤ顔で偉そうなことを言いたがるのでしょう、ああうんざりですああもう嫌気がさします、ああこの手の連中の清潔な顔を殴りつけてその笑顔を引き裂いてやりたいです、泥と汚穢にまみれた現実の中に蹴落としてやりたいです、いや自分がいる場所に引きずり落としてやりたいです、二度と建前がいえなくなるようにしてやりたいです、ああわかっていますわかっています私が弱いから悪いのです、私のこころが小さいのが悪いのです、私がインポテンツで新しい妻を満足させられなくて、しかも前の男とは毎日のように性行為を避妊具なしで楽しんでいたことを動画を見て知ってしまって劣等感にさいなまれて逆上してひとりで泣いて部屋で自慰をしているしかないそんな人間だから悪いのですくやしいのです負け犬なのです殺してほしいのです死にたいのです、

あのひとのハードディスクにはいろいろな過去が入っています、あのひとのSNSにはいろいろな昔のやりとりが残されています、メールボックスには愛していますと別の男に書いているその文面と笑顔の顔文字が残されています、何もかもが可視化されています、ああ便利な時代、ああ利便性、ああWeb2.0、見えてしまいます読めてしまいますわかってしまいます、自分が小さい、自分が醜い、自分がひとりぼっち、自分はカネがなくて友達がいなくて何一つ自慢できるものがない事実がネットにいればすぐに理解できます、偉そうな連中が吹きだまるツイッターで嫉妬しています、スーツをきた連中が芸能人と食事をした写真を今日もアップロードしています、くやしいくるしいねたましいさみしい、自分だけがみじめなのです自分だけがひとりぼっちなのです、だからあのひとの笑顔が他の男に向けられていたのが許せないので耐えられないのですそうではありませんかそうですよねそうなのですねわかっています私はわかります私だけにはわかりますなぜなら私はこの世の汚物そのもの、汚穢の中でのたうちまわる一匹の差別主義者の豚、レイシストピッグなのですネトウヨなのです大日本帝国バンザイなのです安倍晋三の支持者なのです嫉妬するのです妬んでいるのです、

さああのひとの過去を今日も検索しましょう動画がどこかにきっとあるはずです別の男に喜んで股をひらいたあの日の写真が動画がどこかにきっとあるはずです他にもあるはずです許せないのです、ああかわいそうなあわれな私、愛したあのひとが処女ではなかったそんなことを許せないみっともない私、しかもネトウヨで差別主義者で豚なのですどうしようもないのです、ああダメですあなたたちは私のような豚になってはならない、いますぐ引き返すのです今日からあのひとの過去を詮索するのをやめるのです、どうしても気になるのなら告白するのです、あのひとはたったひとりしかいないのです、代わりなどいないのです、他に女などいないのです、いいですかわかりますか、あのひとの代わりなどいないのです、一回限りの出会いしかないのです、だから小さい自分を許すのです、許しをこうのです、自分は自慰しか趣味がなくてネトウヨで性器は機能不全で嫉妬深くて、あのひとが他の男と性行為をしているところを想像するだけで涙が流れて吐きそうになって生きていけないぐらいつらいのだと、その小ささそのものをあのひとの前にすべて告白するのです、

残された動画であのひとが男に挿入されて気持ちよくなっています、それは幻想なのです夢物語なのです、記録されているのは0と1に分解され再構築された思い出にすぎないのです、違うのですそれはあのひとではないのです、あのひとはいまそこにいて呼吸をしている優しい肉のかたまりなのです、いつかは土にかえるうつくしい花なのです、違うのです男は女を許すのではないのです、逆なのです女に許してもらうのです、あのひとに自分の小ささを許して愛してもらうのです、吐瀉物と涙にまみれてあのひとに愛してもらうのです、許してもらうのです、現在しかないのですネットには何もないのです、ネットには過去しかないのですネットには未来はないのです、いまここにあるあのひとと私の一回限りのこの時間がゆいいつ大切にすべきものゆいいつ追い求めるべきものなのです、おろかで醜いネトウヨでもいいのです、これから人間になればよいのです、泥にのたうちながらそれでも星を見上げるのです、何もかもが可視化される狂ったインターネットから逃亡するのです、そこから離れるのです、いまそこにいるあのひとを忘れてはならないのです思い出すのです、こころからダラダラ血を流しながら歯を食いしばっていまそこにいる女を愛そうとこころみるのです、不可能ですか難しいですか女を馬鹿にしたいですか、

怖がるのをやめるのです女を恐れるのをやめるのです、馬鹿にされなさい嘲笑されなさいそれでいいではないですか、自分のみっともなさをごまかすのをやめるのです、女に傷つけられた女に苦しめられた女に裏切られた、全部わかります渡しはわかります全部知っています見てきました経験してきました、あなたたちのくるしみがわかりますさみしさがわかりますくやしさがわかります、しかし違うのです女がいなければ男は愛することがわからないのです、女がいなければ嫉妬も妬みも傷もないそれはそうです知っています、口汚く罵るだけのツイッターのひとびとの言うことを鵜呑みにするのはやめなさい、頭のよさそうなことを言ってみなに褒められようと思うのはやめなさい、そんなものはなんの意味もないのですネットにはなんの価値もないのです、わかりますかわかりませんか、女をもとめるのですかけがえのないあのひとを探すのです、許してもらうのです人間になるためにひとに優しくされるのです愛されるのです必要とされるのです、別の男と性交したからといってあのひとを責めるのをやめるのです、代わりにくるしいと言いなさいくやしいと言いなさい泣きながらそう言いなさい、お前のせいでこうなったと言いなさい傷ついたと言いなさい、お前のことが好きでたまらないのに、別の男と性交したなんてくやしい嫉妬していると言いなさい、いいですか言うのです伝えるのです、愛しているからくやしいと言うのです、愛していると言いなさい愛していると、書きなさい。

(2014年5月9日)

2014-05-08

検索するのをやめなさい

この世が糞だからといってこの世がどうしようもないからといって日本に夢も希望もないからといって自分の居場所がどこにもないからといって検索するのはやめなさい苦しいと検索するのをやめなさい日本はダメだ日本人は終わってると検索するのをやめなさいいますぐやめなさい今日から明日から明後日からやめなさいなぜやめないのかいまやめなさい検索して何が見つかりますか検索して何を得ることができますかSNSで+1していいね!してfavして笑顔をつくっていればいいではないですか猫の写真でもアップロードしておけばいいではないですか綺麗事でお茶を濁せばいいではないですか誰でもそうしています誰でも見てみぬふりをしていますそれでいいではないですか検索してはならない検索して自分のような人間を探してはならない自分のようなダメでどうしようもない人間のクズがここにもいると思って安心してはならないそれならむしろ死ぬべきなのですむしろ自死すべきなのですわかりましたかわかりませんか検索するのではない検索してはならないのです、

なぜ自分よりも低い人間をいつも探していますかなぜ自分よりも醜い人間を探してしまいますか検索してそれが見つかりましたか馬鹿にできて中傷できる簡単な獲物が見つかりましたかすぐに見つかりますねそうですね全知全能のネットでは愚か者がすぐに見つかりますね威張りくさった連中がツイッターで吹き上がっているのが見つかりますねいつもの風景ですねわかりますわかっています私も楽しい私もうれしいひとを馬鹿にするのはエンターテイメント超楽しい超うれしいそれがインターネットさあ今日も石を投げる相手を探さねばいけません自分よりもダメな人間を探しましょう全力でアンテナを立てて頭のおかしい第三者を探しましょうたくさんの石つぶてをバッグに詰め込んで相手を物色しましょう自分よりも低い人間をダメな人生を送っている人間を探しましょうさあ道を通りがかる無関係な人々に力いっぱい石を投げつけましょう血が出ます涙が出ます泣きわめきますああなんというよろこびああなんという快楽しかも最近は石を投げる相手がたくさんいるような気がしませんかネットは便利ですすぐに相手が見つかります韓国人に中国人に意識の高い日本人ほんとうにここはたのしい社会ですね、

私たちのまわりにはこんなにたくさんの優れたひとびとがこんなにたくさんのうつくしい人々がいてああくやしい自分はこんなにもみじめなのにああくるしい自分はこんなにひとりぼっちなのに友達もいないのに同窓会の通知も自分だけ来ないのに彼女もいないのに結婚だってできないのに一日中ネットをするしかすることがないのにそれしか楽しみがないのにだから検索するのですねわかります私も検索します毎日のように検索しますきっと死ぬまで検索するでしょう自分よりも低い人間にあふれたおろかで偉大なインターネットがなければもう一秒たりとも生きていけない耐えられないくるしいからですかなしいからです検索しよう検索しましょうさみしい自分をごまかすために悲しい自分を忘れるために苦しい毎日を忘れるために検索して時間つぶしの道具をおもちゃを探して叩いて楽しんで今日あったことを昨日あったことを10年前に傷つけられた日のことをすべて忘れてみんなと同じような顔をしてインテリのふりをして高学歴のふりをして収入があるふりをして自画撮りで一番イケメンに写った写真をプロフィール画像に設定してさあ検索しよう検索して自分のほんとうの姿を忘れよう鏡はいらない鏡だけはいらないネットには何でもあるけど鏡だけはないなくていい見てしまえば狂ってしまう死んでしまう痛みで発狂してしまう自分がいる場所がどれだけ寒くて汚いところか気がついてしまう死んだほうがいいいっそ生まれてこなければよかったいっそ産んでもらわなければよかった先進国日本になぞ生まれなければよかった、

何も見つからないのです何も得られないのですテキストと画像と動画以外に何もないのです誰かのしあわせやふしあわせがネットにはあるだけなのですそこには自分のかなしみやつらさやくるしさを癒してくれるものは何もないのですないのですどうしてわからないのですかどうして検索するのですかいますぐやめなさいいまやめなさい検索するのをやめなさいネットに何かを期待するのをやめなさいこの社会にない何かがあると思うのをやめなさいこの社会にまったくみつからない夢や希望や理想がネットにあると思うのをやめなさいありませんみつかりません繰り返さねばなりません癒されません許されません愛されませんひとりぼっちですネットにいてもひとりぼっちですネットにいて誰とでも繋がっていても孤独なのですどうしようもないのですむしろ絶望すべきなのですむしろ徹底的に希望を捨てるべきなのですまがいものしかないのですああわかりますだって現実だってまがいものなのです社会はまがいものだらけなのですだからネットにすがりたいのですネットにはネットだけには夢や希望があってほしいのです愛してくれる誰か抱きしめてくれる誰かがいるような気がするのですディスプレイに向かうあなたの横顔ディスプレイに映るあなたの表情誰も知りえないあなたの存在さあネットを捨てるのですさあネットから離れるのです誰ともつながれないのですあきらめるのです逃亡するのです全てのねがいを捨てるのです打ち捨てるのです、検索するのをやめなさい。

(2014年5月8日)

2014-04-13

私はひとりのネトウヨです

本日はネトウヨの一日を読者の皆々様にご紹介いたしますなぁにソースもエビデンスもありませんなぜなら私はネトウヨだからなぜなら私こそがネトウヨだから世間に踏みつけられて踏みにじられて誇りも尊厳も愛も理解もすべてを奪われてなお人を愛したくてたまらないのに人が怖くて人を避けて人を憎んで血反吐をまき散らしてこの格差社会でのたうちまわる一匹の虫けらで差別主義者の豚で残飯をあさる野良犬として生きるしかないネトウヨそのものだから私はなんにも調べる必要などないのです自分のこころに問うてみるだけでよいのです鏡を見ればいいのですそこにいるのは醜いひとりぼっちの自分どこにも居場所のない自分誰にも愛されない自分さあ私こそがネトウヨさあ私だけがネトウヨあの大日本帝国の生き残り安倍晋三の忠実なる奴隷そしてそして私こそが真なる日本人!

薄紫のひかりが染み渡る朝の空に立つアンテナにとまる二羽のつがいのカラスを部屋の窓から見ているのだうらやましくてじっと見ているのだたかが鳥でさえ人生を共にする相手がいるのだ鳥でさえ性交ができるのだひとりぼっちで眠れないままこうしてまた同じような朝を迎えて今日も仕事も予定も何一つない一日がはじまるのだどうせ午後三時まで寝たところで何か予定のひとつでもあるわけではない一体なんのために高い携帯料金を払っているのか食事を犠牲にして払っているのかわからない誰かから電話があるわけでもない誰かに電話できるわけでもないつるつるとした液晶画面を指でこすってガールフレンド(仮)を遊んでかわいい女の子のカードを集めて合成して育成して課金して知らない相手に「かわいいね!」してそれでニヤニヤ笑っているのだカラスでさえ相手がいるのに自分だけはひとりぼっちなのだ。

光がななめに射しこむ午後になって汚れた畳の上で目を覚ましてゴミを足で蹴り飛ばして隣には誰もいなくてああそうだ新しい妻も出ていってしまったのだ前の女には裏切られ捨てられてだまくらかした金持ちの女には貧乏人のウジ虫がとののしられ前の妻から来る養育費の督促状だけなのだ誰もうまく愛せないのだ愛そうとしてもその方法がわからないのだああ誰かに教えてもらえばよかった学校で教えてもらえばよかった頭を下げて教えてもらえばよかったどうすれば人を愛せますかどうすれば人を大事にできますかどうすれば人に優しくできますかできないのだできないのだどうしてもできないのだせっかく新しく結婚してうまくやっていたのに気になってしまったのだ新しい妻が前の男とどんな性交をしていたか気になってしまったのだ人間のクズなのだ嫉妬の塊なのだだからどんな女にも捨てられるのだ。

日が暮れるまでの短く静かな時間は匿名で人を攻撃して楽しむのだ複数のツイッターアカウントを使ってうまくやっている連中を攻撃するのだ叩くのだ煽るのだうまくやりやがってうまいものを食いやがっていい女とセックスしやがってふざけるなふざけるなふざけるな俺はこんなに狭くて汚くてひとりぼっちの部屋にいるのに最低の生活をしているのにカネもないのに借金取りばかりが来客なのに不公平だ不愉快だどうして自分だけがひどい目にあうのだ許せない受け入れられないこんな自分の現実が受け入れられないだから攻撃するのだ憎悪を書き連ねるのだ威張り腐った顔をしている学歴が高くて意識も高くてブランド物のスーツを着ていてツイッターでたくさんfavされていてあまつさえ創作なんてしている連中が妬ましいのだ嫉妬しているのだ悔しいのだそいつらを攻撃せずにはいられないのだああ許してくれでも耐えられない我慢できない苦しくてたまらない指が重く身体には鉛が詰まり頭がずきずきと痛い。

青い夜がやってきて部屋が静けさに包まれるのだツイッターをのぞくのはやめるのだ叩くのもやめるのだ疲れたのだ何もしたくないのだ青白いディスプレイを見るのはもう嫌だベランダに出ようベランダで覗こう道のあちら側の団地の風呂場の窓を覗くのだそこにはうつくしい裸体がある自分が触れられない身体があるああなんてきれいなのかああなんとかわいいのか女の裸体はなぜこんなに神々しいのか女の肉ほどあつくやわらかくしめっていていい匂いがしてかぐわしいものがあるだろうかあるはずがないだから曇りガラスごしに見えるその姿に興奮するのだ動物のように息を荒くするのだしかしなぜか性器が萎えているのだなぜだろういつから不能になってしまったのだろうあんなに固く熱く大きくなって女を喜ばせることができていたはずなのにあれは全部妄想だったのか夢だったのかひどいひどすぎる全部フィクションだったなんてそんな結末があってたまるものか。

街が深紫に染まる深夜は録画しておいたアニメ番組を見なければならないクールなジャパンを見なければならないそれだけが唯一の誇りなのだNHKだって言っている毎日のように宣伝している日本の技術は世界一だと治安がいい国だと日本は日本は日本は世界一の国だとみんなが言っている私もそう思うそう思いたい自分には何もないからせめて自分の生まれた国は中国なんかよりも朝鮮なんかよりも優れていると圧倒的にすばらしいと日本に生まれた自分だけは超ラッキーだと思いたくて思いたくていや思うのだ思っているのだそう自分はラッキーなのだこんなに楽しいこんなにうれしい日本はすばらしい国ベランダから堂々と覗きをしていても誰にも通報されないみんなが優しく配慮してくれて笑顔がうつくしい国私が生まれた国私の居場所がどこにもない国ああやめろやめてくれ現実を見せないでくれアニメを見なければたくさんの友達と永遠に部活を楽しめるあのアニメ番組の数々ああここにずっといられれば私は幸せなのだ現実を忘れられるのだどこにも居場所がないことを忘れられるのだひとりぼっちの自分のことを忘れられるのだ。

ひかりさす夜明けはきらいだ全部見えてしまう何もかもわかってしまうネットの麻薬も切れてしまうああダメだ痛みがぶり返してきたカラスたちが仲良くしている椅子の上で自慰を終えて閉じた窓の外を見ている女たちがあざ笑う声が聞こえるああかわいそうああ哀れ自業自得よ全部あなたが悪いのよ全部あなたのせいなのよわかっているわかっている誰よりも自分が知っているこの場所を誰が作ったのかネットに閉じ込められてどこにも行けない私たちネトウヨ私たち日本人わかっているこの檻をつくってしまったのは私たちなのだそこから一歩も出られないのだ何もしなかったから何もできなかったから私たちが弱かったから馬鹿だったから勇気を持てなかったから責任を取ることを理解しなかったから悪いのだこんなこんな七億の孤独を産み出してしまったのだ私たちはどこにも行けない私たちには希望なんてないあるのは首を吊るだけなのか死ぬのはいやだ死ぬのは怖いこの世から消えさるのが怖い生にしがみついていたい私たちに哀れみを私たちネトウヨに今一度だけ人間として生きる機会を、許してくれ、お願いだ、許してくれ……。

(2014年4月13日)

2014-04-08

花の落ちる道

ブログの真っ白なエントリフォームが目の前にある。書くことはいつでも白紙の前に立ちすくむことだった。何か考えてから書くのではない。何か目的があって書くのではない。空白が文字を呼び寄せるのである。

地方都市には自然だけは豊富にある。近くの中学校の桜並木も見頃だが、私のお気に入りは団地に植えられた椿の花だ。巨大なさなぎのようなつぼみが開くと、中から薄く透き通った桃色の生き物が姿をあらわす。グロテスクなその姿に、思わず足を止めて見入ってしまう。

近所に花を集める子供がいるらしい。買い物にいく途中など、よく道端に摘み取られた花がまとめられているのを目にする。先日は椿の花が五つぐらい路傍に並べられていて、わけもなくぞっとした。それは不吉な徴のようで、誰かの死を悼む名前のない墓標のようにも見える。

土地は余っていて野草があちこちで生い茂るような地方である。しかし公園は狭い。そこでよく子供たちが遊んでいる。子供たちは知らない人間に挨拶などしない。親からそう教えられているのだろう。公園の脇を通り過ぎるとき、息子に似た子供がいるとつい目で追ってしまう。もちろん別人に決まっている。すでに顔も思い出せない。

にわか雨が降ってきて、私は暗い陸橋の下で雨宿りをしている。熱帯育ちなので傘は持ち歩かない。道の脇には未整備の国有地があり、そこに野花が咲き乱れ、雨粒に身体を揺らしている。私は乾いた石を見つけて腰をおろし、煙草に火をつける。生きるだけなら、あまり多くのものは必要ない、と思う。携帯電話を捨てたくなるのはこういう時だ。

先日病院にいくと、ひとつのスマートフォンを共有した子供二人が、ひそひそと何かを話していた。誰もしゃべらない待合室では声がよく聞こえる。チャットアプリで誰かと話しているらしく、A君うざいB君シネとか言っている。私たちはいつでも誰かと繋がっているように見える。好むと好まざるに関わらず、このノッペリとした顔のない現実と、誰もが向き合っており、向き合わざるを得ないのだ。

雨があがった。私は水たまりがひかる道を歩き出す。雲が裂けてそこから日光が漏れている。水たまりに映る顔は疲れた中年男だ。靴に滲み込む水はもう冷たくはない。道の先に、椿の花がまたひとつ落ちている。誰かがそこに置いたのだ。何のために? そう思いながら、花の前で立ち止まる。濡れた花を拾い上げると、花弁から手のひらに雨水がこぼれおちる。誰かに、何かに、このきれいな花を手向けたいと思った。しかし、なぜそうしたいと思ったのか、その動機はどうしても思い出せなかった。

花は五六歩歩いてから、溝に投げ込んで捨てた。

2014-03-28

初春の近況

「これから女になるあなたたちへ」を書き上げてすべての力を使い果たし、書くことを休んでいる。3月頭頃にこのブログも再開する予定だったのだが、ステーキを調理中に200度の油で左の手首を焼いてしまい、火傷が回復するまでキーボードが打てなくなって現在に至る。残念ながらキーボードがないとブログは書けないし創作もできない。とにかく医者が嫌いなので病院には行かなかった。湿潤療法とハイドロコロイド絆創膏を用いて自己流の手当を続けたところ、皮膚はきれいに再生し、まるで赤ん坊の肌のように見えるまでに回復した。人間の自己治癒能力というのは恐るべきものである。さっそく今日は汁がしたたる牛肉を焼いて炙って飽きるまで食べた。

左手が使えない間も、家事はしなければならない。兼業主夫のつらいところだ(ああ、専業主夫になりたい!)。左手に包帯を巻いてパスタを茹でる。ソースを作る。ジャムを作る。風呂やベランダも掃除する。これは家庭内虐待ではないか。そうぶつぶつ文句を言いながら家事を終えて、ソファに腰を下ろして午後の外を眺める。冬は完全に終わりつつあるようだ。炊事をする水がすでにあたたかい。虫たちがあちこちで息を吹き返している。団地にはまた猫が増えた。数えていないがたぶん30匹ぐらいはいるはずだ。夜になると猫たちの性交がはじまる。猫のペニスには逆向きに刺がついていて性交時に抜けないようになっているそうだ。猫を作った神がいるとするならば、性別はおそらく男なのだろう。

ベランダで煙草を吸うと不審者扱いされるので最近は目立たぬように吸っている。反対側の棟に、夜中の二時に必ず風呂に入る高校生の娘がいる。窓は曇っているがほとんど中は丸見えだ。ガラス越しに見える裸体は中性的で少年のように見えるが、両腕で髪をまとめる時に丸みを帯びた乳房がはっきりと視認できる。誰かに裸を見てもらいたいのかもしれないが、私はもう若くもないのであまり感じるものもなく、ベンチに腰を下ろしたままそれをよく眺めている。その光景は触れられない裸体だらけのインターネットとどこかよく似ている。ディスプレイに広がる無限の裸体の前で、私たちは性欲も情欲も誰かに奪われたままそこに立ちすくんでいる。ディスプレイの女たちはいつでも微笑んでくれるが、私たちはひとりぼっちである。

2014-03-09

大人になんてなりたくない:「若作りうつ」社会

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

アニメーション作品を観ていると、その大多数が中学や高校の部活動を舞台に選んでいることに驚くことがあります。いつまでも繰り返される楽しい部活の日々。そこには仲間がいて、友達がいて、一緒に果たすべき目標があり、あるいは繰り返される日常こそが大切なのだというナイーブな感性があります。しかしかれらが社会人になった後どうなるのか、それはほとんど語られません。

2014-02-14

「これから女になるあなたたちへ」刊行のお知らせ

「これから女になるあなたたちへ」、本日より発売となりました。こちら(Amazon Kindleストア)です。

本書仕様

電子書籍 (横書き)
Kindle、及びKindleアプリ搭載デバイス

形式:手記、日記、ブログによる創作
価格:200円
文字数:原稿用紙60枚
ISBN:978-4-9906428-2-2


内容紹介(Kindle Store)

――こんな男とだけは結婚するな。

謝罪ができない男たち、いつも浮気をする男たち、そして罪の告白をしたがる男たち……本書は、妻子を持った平凡な29歳の男である「私」が、いかにその家族や幸せを失ったかという架空の物語とその告白を通じて、男はどうしてこんなにも愚かなのか、「男とはほんとうはどんな生き物なのか」、そして女性はそんな男たちをいったいどうやって愛したらよいのか、という様々な疑問に答えるものです。

なお本書は、「マージナル・ソルジャー」と主人公を共有しており、その前夜譚となります。

2014-02-13

「マージナル・ソルジャー」優待販売のお知らせ

明日発売の新刊を記念して、以前からお知らせしていた通り、電子書籍「マージナル・ソルジャー」の優待販売を実施します。待っていたかもしれない読者のみなさま、お待たせいたしました。

実施期間:2月13日〜2月28日
価格は50%オフとなります。こちらです。

Kindle Storeでは様々な端末にて比較的容易に立ち読み(一部閲覧)ができますので、新しい読者のみなさまも、この機会にぜひお試し下さいませ。

また、今回発売となった新刊は、「マージナル・ソルジャー」の文字通りの続編でもあり、同時に前夜譚でもあります。主人公は共通ですので、興味があるかたは新刊のほうもお試しいただけると幸いです。

2014-02-08

短期連載終了、刊行予定のお知らせ

1月14日より連載し今回終了した「これから女になるあなたたちへ」は、大幅に加筆修正し、2月中旬頃に電子書籍として、Amazon Kindle Storeにて販売を行う予定です。それに伴いエントリ掲載は非公開とする予定ですので、興味のある方は事前に保存しておくことをおすすめします。

2014-01-21

私信的なもの(3)

珍しいひとから参照があったので、窓の外を見たら雪が降っていました。
あれからもう七年以上たつのですね。

2014-01-20

日本への進学を考える帰国子女のみなさんへ

ご卒業おめでとうございます。プロムはいかがでしたでしょうか。海外のご学友とのお別れパーティは済みましたでしょうか。さて本エントリは日本への進学を考えているみなさん、特に英語圏の高校等を卒業したひとびとに向けたものです。

といいますのも、日本に帰国された時、おそらく皆さんは大きなショックを受け、そして数多くの大きな困難に直面するであろうことが、あらかじめ予想されるからです。本エントリではいくつかの代表的な問題とその対処法について紹介してみたいと思います。

2014-01-19

七億の孤独な夜

まとめるとお金になります。ちゃりんちゃりんと小銭が入ります。まとめるだけでお金が入ります。PCに虫のようにへばりついて人の悪口をまとめます。PCの前だけに座っているだけでぶくぶくと太れます。なんと自慰もできます。PCは魔法の箱です。PCですべてが手に入ります。PCは窓です。このネットに閉じ込められた私たちのゆいいつの窓です。窓のあちら側にうつくしい日本が広がっています。うつくしい国土が広がっています。みんな万歳が大好きです。みんな天皇陛下が大好きです。PCのあちら側には夢があります希望があります愛があります。プラスチック製の愛が100円で売っています。コンビニにいく必要すらありませんワンクリックで自宅になんと届いてしまいます。PCとドアの前を行ったりきたりするだけで人生を楽しく過ごせます。ああなんといううつくしい国!

いつでも「悪い人」を探しています。落ち度があるひとを探しています。失敗したひとを探しています。痛いひとを探しています。舌なめずりしながら探しています。ああ今日もお金をもって美人と食事している写真ばかりアップロードしている経営者がついうっかり本音をはいてしまいます。さてその本音はなんでしょうか。さてそのこころはどのようなものでしょうか。ああ決まっていますその本音は「低所得者乙」です。モテないやつ乙です。かわいそうな連中乙です。俺は成功者だ俺はうまくやっている俺はモテる俺は頭がいい俺は勝ち組だという本音がついぽろっと口から出てしまいます。さあたいへんですすばらしいネットの皆様がすぐにわらわらっと虫のように湧いてきます。さあ叩かなければいけません。「みんな」がそうしているのだからたいへんです。今日もしこしこ叩きます。ああなんというおもてなしの国!

ああしかし違うのです。経営者は私たちなのです。うじ虫は私たちなのです。どこにも居場所がない私たちなのです。ネットに貼りついてひとの悪口を楽しむしかない私たちの横顔そのものなのです。鏡に映った自分自身そのものなのです。なぜこうなってしまうのでしょう。どうして私たちはまとめるのをやめられないのでしょう。答は決まっています。答はわかっています。暴行したいのです。集団で群れて暴行したいのです。<女>を暴行したいのです。弱者を集団でなぶりたいのです。いつでもそうなのです。おさえられないのです。暴力がたのくしてたのしくて仕方ないのです。そうでなければ<友達>が見つからないのです。仲間がほしくてたまらないのに強姦もできないし元気もないし戦争もないからこうして自慰しながらまとめサイトを見るしかできないのです。ああそういえば戦争したがっている総理大臣がいました万歳で迎えねばなりません私たちから奪われた<友達>を得るために戦争が必要なのかもしれません。

七億の孤独な夜があります私たちのどこにも行けぬ夜がありました孤独きわまりない夜がありましたひとりぼっちで初音ミクの下着を眺めながら自慰をするしかない夜がありました友達がおらず会社では本音を言うことが許されずいつもペコペコして謝ってこびて妥協して誰も愛することができずに今日もひとりでネットをみて今日もひとりでTwitterをみて頭がいいひとのフリがなによりも大切でだってこんなに自分が苦しいのに誰もわかってくれないんだからどうしようもないのです今日も明日も明後日も何もできずにこうして人生が過ぎていく誰もわかってくれない誰も理解してくれないセブンハンドレッドミリオンの孤独な夜がいつまでもそこに広がっていくだけなのです、うまくやっている連中が許せないのです血を吐きながらうらやましくてうらやましくてうらやましくて仕方がないのです許せないのです孤独なのですひとりぼっちなのです。

ああだめですもっと正直に語らねばなりませんカネではないのですカネではないのです断じてカネがほしいのではないのですまとめサイト管理人がひとの悪口をまとめてまとめて今日も明日も明後日もまとめてそれで一儲けしてうまいものを食っているその現実がうらやましいのではないのです断じてうらやましくなどないのです否うらやましいのですもちろんうらやましいのですとてもとってもうらやましいのですしかしカネでは孤独は癒せないのですこの死に至る病をどうにもできないのですしかも女がいてもダメなのです結婚していてもダメなのです子供がいて二回も結婚してそれでもなおどうしようもないほどどうしようもなく孤独なのですこの世のどこにも救いなどないのですひたすらひとの悪口を書いて叩いて自慰してそれしかないのです輪姦したいのに強姦したいのに暴力が許されないからです鬱屈しているのです溜まっているのです射精して一瞬でもいいから人間に戻りたいのですああしかしそれは許されないのです断じて許されないのです。

暴力をふるうぐらいなら自殺すべきなのですああでも死ぬのは怖い死ぬのが怖い恐ろしいまだ死にたくないだから今日も知ったかぶりして明日も頭がいいフリをして明後日もいいひとのフリをしなければならないのです彼女ができてもダメなのです結婚してもダメなのですあきらめるのですなんの救いも許しも何一つない生き地獄に私たちは生かされているのです高校生とセックスしても大学生とセックスしても人妻とセックスしてもダメなのですそれは生理的な快楽にすぎずこころの飢えは欠乏はこの欲望はけしてけしてけして満たされることはないのですなぜあきらめないのかなぜあきらめないのですかあきらめるのですあきらめて死んだほうがいいのですひとを傷つけるぐらいなら首をつっていますぐ死んだほうがいいのですまとめサイトを作るぐらいなら死んだほうがいいのですまだ死んだほうがマシなのですわかったような口をきくためだけにネットをやるぐらいならいますぐ自殺したほうが世の中のためになるのです。

ああ七億回の孤独な夜死んでも生き返ってもつらい夜の数々に男になど生まれねばよかったこの国になど生まれねばよかったどうして私は日本人に生まれたのだろうどうして私は男に生まれたのだろうどうして私はネットがある時代に生まれたのだろう三重苦ですヘレン・ケラーですああむしろ女に生まれたかった男に踏みつけられ蹂躙され道具のように使われる女にさえうまれればまだ男を憎むという特権があったこんなにこんなに自分が嫌いで憎くてしかたがないのに死ぬのが怖いからこうして生にしがみついているのです虫けらとして生きているのですどうしたらこの飢えが満たされますかどうしたらこころにあいた穴を塞ぐことができますかその鎮痛剤の在処だけはわかっていますみんなと同じように他の弱者を叩けばいいみんなと同じようにスケープゴートを探して暴力をふるっていじめて泣かせてそれをみて嘲笑えばよいのですきわめて快楽ですきわめて楽しいです楽しくて楽しくて仕方ないです暴力こそが最高の麻薬暴力こそが最高の愉楽そんなことはわかっていますそんなことは知っています。

ああ今すぐ死ねばいいのにああ今すぐこの自分が死ねばいいのにわかっていますあなたたちの気持ちを私も知っていますいままさにそんな気持ちなのですあなたたちのどこにも居場所がない怒りかなしみつらさすべて私が知っています私が理解しています私がわかりますあなたたちが自分で気がついていないそのこころを私に教えてください私に与えてください私に石を投げつけてください私がそれに形をあたえます私がそれを言葉にしますあなたたちの七億の孤独を私が記してみせますだから私を叩くのですだから私を馬鹿にするのですだから私を嘲笑するのですあなたたちのひそかな苦しみは誰も知らない今後も知りえないそうなのです絶望しなさいあきらめなさいひとりぼっちで生きる覚悟をしなさいそして結婚してさらなる苦しみの海に沈みなさいしかし私は知っている私はあなたたちが自慰をしたあと一瞬だけ人間にかえるその横顔のさみしさを知っているなぜなら私は、私は……。

(2014年1月19日)

2014-01-13

成人の日または建設的なもの

ネットは今日も建設的な「議論」が盛んである。それがいかに無意味で無価値かは以前書いたので繰り返さない。というより私は2006年から考えていた課題(なぜ男は不特定多数の女との性行為を切望するのか)に、一昨日ようやく八年越しの決着をつけたばかりで、すっかりブログを書く気がなくなってしまって、新作の執筆に注力しているところなのである。忙しいのだ。貧乏人は忙しいというではないか。とぶつぶつ言っていたら、今日が成人の日だということを思い出したので、やっぱりエントリを書くことにした。

トーマス・フリードマンは、兄弟殺しのカインとアベルの話を引きながら、カインがアベルを殺した理由は明示されないが、その殺害にはいまも生き残る三つの根源的欲求が暗示されていると書いている。それは「女」「経済」「ふるさと」である。イヴをめぐる男同士の争い、不動産(畑)と動産(家畜)をめぐる争い。そして最後に心の拠り所である神殿(ふるさと)の場所をめぐる争いである。男には女、カネ、自尊心が必要であると言ってもさほど間違ってはいない。ネットにおける「建設的」な議論はだいたい後者二つを堂々巡りする。

建設的な議論はいつでも大文字で語られる。わかりやすく言うとNHKの番組でスーツをきた連中がしゃべっているアレである。自主規制でがんじがらめになったマスメディアにはこうした「建設的」な形式でしか話ができなくなっている。じゃあネットの言論(空気だ)はどうかというと、まったく同じで、弱者叩き(まとめサイト)、日本バンザイといい人ごっこ(Twitter)、そして自己嫌悪の裏返しとしての子どもじみた日本憎悪しかない。なので別にマスメディアもいまのネットももうたいして変わらないのだ。まあみなさんうんざりしていると思う。うんざりしている自分の気持ちに気がつかないといけないのである。

そんなわけでこころに沿って語らなければならない。これから大人になる子供たちが勘違いするとまずいのである。「建設的」な意見や見解がいかに私たちを蝕んでいるか。公の場で語ることが許される「建設的」で「正論」で「スーツを着ている」意見ばかりでは困るのだ。なぜなら私たちの社会は、テレビやメディアに顔写真付きで紹介されることがけしてないような、ちっぽけで、誰の目にも触れない、取るにたらないとみなされる人間たち、そしてかれらの個人的な思い、気持ち、自尊心、ひとを愛しそして憎む気持ちによって構成されているからである。見えなくさせられているものを見なければならないということだ。

残念だがいまのネットにはそうしたことを語る場がほとんどなく、建設的なライターの皆様が語るうつくしい先進国・日本があるだけだ。私は自分が生まれた国の風土と文化を誇りに思っているので、そういうプロパガンダだらけの清潔な社会には辟易している。だがそういうプロパガンダを必要とする気持ちも理解している。私たちを取り巻くこの社会を直視すれば、巨大な喪失感・無力感と真正面から向き合わなければならなくなるからだ。それはとてもつらいことである。だがそのつらさを共有することはできる。私たちがしなければならないのはそういうことだ。建設的な社会から忘れ去られているものを取り戻さなければならない。

今日は成人の日だが、このブログを読んでいる読者の中にも高校生や大学生がいるだろう。あるいは成人しているのにどうも「大人」が実感できない中高年のひとがいるだろう。もやもやとした閉塞感の中で生活しつつ、それなりに満足した生活をおくっているのかもしれない。私が八年間書き続けてきたものがどれだけ読まれてきたのかまったくわからないが、ひとつ言えることは、自分がしあわせかどうかは人に判断してもらうものではなく、自分が満足する場が居場所でありふるさとなのだということだ。そしてそれは国籍や貧富の差や学歴や親の有無に関係なく、自分でつくっていかなければならないものであり、自分でつくれるものなのだ。

大人へようこそ、新成人の皆様。大人へようこそ、旧成人の皆様。ひとを殺したくなったら、自殺したくなったら、私の名前を思い出すのだよ。

(2014年1月13日)

2014-01-12

男たちの不可能な友情

眼の前に裸で横たわる女の足の間、ゆるく開いた膣口と閉じた肛門を想像してみよう。二本の指をそれぞれ差し入れてみる――その際指の爪はあらかじめ手入れしヤスリがけをしておくことが望ましい――そしてその二本の指を交互に動かしてみる。驚くべきなのは、膣内と直腸がわずか一センチにも満たない薄い壁で隔てられていることである。指同士をこすりあわせれば、けして通り抜けることのできぬ壁のあちら側に、もう一本の指の存在を確かに感じることができる。男たちが自分たちの友情を確かめ合う道具として女の膣と肛門を用いるとき、それは二穴姦double penetrationと呼ばれるが、男たちの陰茎はこのけして通り抜けることのできない薄い壁を隔てて擦り合わされる。男たちを興奮させるのは女そのものではなく、もどかしいその刺激によってなお一層高まる一体感である。これを<友情>と仮に呼ぶ。

集団強姦や強盗等の疑いで逮捕された杉本祐太の事件は、それ自体特にめずらしくもない日本の地方の一シーンに過ぎなかったが、その逃走劇は多くのひとびとの注目を集めた。なぜなら留置所から脱走した容疑者は、明らかに複数の「仲間」たちとの協力を経て、まるまる一日のあいだ追いすがる警察からさらに逃げ続けることに成功したからである。さしあたって注目すべき点は、きわめて困難な全国指名手配網を潜りぬけようと画策する男たちの<友情>は、まさにそれが困難であり実現不可能であるがためになお一層高まったに違いないということだ。さらに想像が許されるならばスクーターに二人乗りして逃走する男たちの身体は密着し汗ばみ、やがて訪れる逮捕という確定した運命を間に挟んだまま、風にこすられながら快楽を得る勃起した鋼鉄の性器となって疾走したのである。

しかし射精の時はやってくる。性器が萎えた時その<友情>は終了する。逃走劇はあっけなく終了し、一人ぼっちになった杉本祐太は女性器に生えた陰毛のような林の中に隠れ潜むが、やがては発見され川に落ち全身を水に濡らしながら拘束される。2003年の韓国映画「シルミド」には厳しい訓練に嫌気がさした工作員部隊の男二名が、施設を抜けだして近くの民家に住む女性を輪姦するシーンがきわめて牧歌的なタッチで描かれる。そこにあるのは地獄をくぐりぬけた男たちが一人の女を道具として用いて精神的な連帯を取り戻すうつくしさだ。そして用済みになった女はベッドから投げ捨てられ、男たちは厳しい訓練で失いかけた人間らしい笑顔を一瞬だが取り戻す。だがしかしその時指導兵たちが民家を取り囲み一人は自殺、もう一人は仲間の手によって撲殺される。性器の硬さと<友情>は長続きしないことが示唆される。

男たちの<友情>を成立させるためにはそれを隔てる薄い壁としての女が必要である。実際にふれあってしまえばそれは禁忌に触れてしまう。遠すぎず近すぎない距離がなければならない。友情をはらむためには女という避妊具が必要だ。しかし「集団強姦する人は、まだ元気があるからいい」(太田誠一)というきわめて正直な見解が1945年生まれの政治家から発せられる日本社会において、誰もが杉本祐太のような元気を持ち得ないことは自明だというしかない。もちろん太田は男たちに「元気」があった時代、困難に直面した男たちが触れ合うことなく共に戦い快楽を得るその行為の中毒性を念頭において発言したのである。戦争を知る世代の男に対する理解の水準は、敗戦後すぐに米軍向けの慰安婦施設が自発的に設置されたことからも伺い知れる。かれらは男に必要なものとは何か誰よりもよく知っていた。

一組の男が女の肉体を自慰の道具として使うこと。これが<友情>の成立する条件だ。私たちはこの止むに止まれぬ切実な必要性がいま何をもたらしているか知っている。ネットのあらゆる場所で閲覧可能な陵辱、強姦、暴行、そして全国のコンビニエンスストアのほぼすべてで販売されるファンタジーとしての性暴力表現。それはほんらい男たちが使えるはずだった避妊具としての女の代用品である。ひとつの表現された架空の女の穴のイメージ(「俺たちの嫁」)に向けて自慰をし射精する姿は、かれらが共有しているはずだった女を自由に道具として行使できる権利があらかじめ奪われている現実を示唆している。失われてしまった<友情>の契機をいまひとたび得るために、代用品としての集団的自慰行為が励行される。ディスプレイの女たちに触れることはできないが共に自慰をすることはなお可能である。膣も肛門も顔もないのっぺりとした女がそこにいる。実在しない女は強姦できない。かくして<友情>は不可能である。

(2014年1月11日 根本正午)

2014-01-11

雨過天晴またはモンスター・ジャパン

よく晴れている。晴れている日はあんまり好きではない。道を外れた人間に日の当る場所はまぶしい。あまりひとのこない路地裏のような場所が好ましい。それはこのブログの基本的なイメージでもある。表通りでは華やかなパーティが開かれているのを、路地裏に面した窓から冷たく眺めている。そういう場所も悪くないと思うのだが、清潔な社会とは汚穢をすべて隠しなかったことにしたがるものだ。口先ばかりの正義感ばかりが増幅される異常な社会(そう、ほんとうに異様だ)において、そこからはじきだされたひとびとの居場所はますますなくなっていき、その結果この国のあらゆるものが不幸になるだろう。世の中には道を外れた人生を強いられたひとだっているのだ。そういうひとびとに対する理解へのこころみや共感をなくせばそれは人間ではないモンスターである。

モンスター・ジャパン。その完成は遠くない日のように感じる。しかし日差しは暖かくベランダの居心地はいい。仕事の電話をいくつか終わらせてすでに疲れた私は椅子に座って外を眺めている。執筆のほうも行き詰まっているしブログはアクセスが少ないしでふてくされている。かつてのブログ「セックスなんてくそくらえ」と同じぐらいのアクセスの勢いはあると思うが、そういえば当時は確か累計120万PVで、思い返してみるとたいした数字ではなかった。そんな小さな数字で喜んでいた自分がかわいくてならない。「いかなる天才的な作家も、作品を一人で成立させることはできない。ブロガーはアクセスを求め、さらなる読者を求めなければならない」と2006年に書いたのは私である。過去の自分が面倒くさい。というか馬鹿じゃないのとか思う。それが人生というものだ。

そういえば「この本を買ったひとはこんな本を買っています」という情報をAmazonは提供しているが、私の本を買ったひとが西原理恵子の本を買っているらしく微笑ましかった。私は週刊朝日で連載していた「恨ミシュラン」をげらげら笑いながら読んでいたひとりでありファンである。リスクを背負ってレストランを徹底的に罵倒しコケにし笑いものにする姿勢はほとんど感動的ですらある。一方モンスターは自分が殴られないノーリスクの距離からひとに石を投げつける。もちろん人間とはそもそもそういう生き物である。いつだってひとのせいにして、いつだってひとを馬鹿にして、いつだって自分のさみしい人生をごまかそうとしたいのだ。私は「ネットが可視化したのはひとの愚かさだけ」と書いたが、可視化されたのはひとの弱くて情けなくてみっともない姿でもある。そしてそれでもいいのだ。それを自覚することが問われているのである。

私はネットになんの期待もしていない。しかし癲狂院に閉じ込められている以上、私たちは圧倒的多数の狂人に取り囲まれている。狂ったフリをしなければならない。「みんな」と同じように朝鮮人や中国人を叩かねばならない。「みんな」がそうしていればそれに抗えば殺される。しかし私はふつうに生きてふつうに生活しているひと、伴侶がいて子供がいて仕事をしてふつうにしあわせに生きたいひとに、この狂った社会とたたかえなどと言う気にはならない。それはことばの銃で武装した兵士の仕事である。このグロテスクな場でいまだに正気を保ちながらこっそり生きるひとびとを見つけるのだ。もちろん表立ってではない、ひそやかな目配せを交わすだけにするのだ。これから、さらに狂った時代がやってくる。血と硝煙の時代ではない。流された血そのものが隠され、清潔きわまりない癲狂院で「みんな」が笑顔を浮かべたぞっとするような時代である。感謝しなければならない。兵士がゆいいつ生きられる場に。私たちの故郷たる、モンスター・ジャパンに。

2014-01-10

雨上がりの午後

地平線に雲が流れている。このあたりは空港の近くで高い建造物がないため空が開けていて地平線までよく見える。空気が澄んでいる日にはなんと富士山が見えたりする。野花と猫の王国である。団地の近くにある遊歩道は両側を野草が生茂る斜面に挟まれ、頭上にはいつも雲が流れている。こうした中を散歩すると風情があると思うが地元の人間はそんなことを思っておらずはやく高速道路ができて地元復興が進んでほしいなどと思っていたりする。要するに「美しい田舎」をほめるのはだいたい都市から来た人間だということだ。これは日本にきて日本賛美をする西洋人にも同じことが言える。自分が理解できる範疇にとどまってくれる「貧しいけれど美しい日本」がかれらの自尊心にとってなによりも大切なのである。かれらの「文明」が脅かされる力を持った黄色い猿ではなく、あくまで自然を愛する野蛮な土人として生活してほしいということだ。そしてこうした考え方を私たちもまた韓国や中国やアジア各国に押し付けていたことを記憶している(「貧しいけど豊かなアジア」云々)。ネットが広まったおかげか、最近はどこの国でも人間のレベルというのはあまり変わらないものだということがよくわかるようになった。憂鬱な時代だ。

それはともあれ、私はもともとはこのあたりで生まれた人間なので、ひとなみには房総の自然が好きである。夏は暑く冬は寒い。だいたいこのあたりの家は雪国と違って防寒対策をほとんどしていない家屋も多いため、冬はとてつもなく寒い。横になっていると畳の隙間から冷たい風が吹き上がってくる。灯油ストーブの換気など必要ない。なにしろ二十四時間外気が入り込んでくる。ガラスは薄く板を立ててあるのとたいして変わらない。コンクリートも薄く、外気に冷やされた壁の表面に空気中の水分が結露し、朝になると水たまりが床にできてそれが凍っている。嘘みたいな話である。雪国は最初から対策をしているのでむしろあたたかいのだ。そういえば以前滞在した韓国では窓はすべて二重だった。窓と窓の間にスペースがあり、そこがベランダなのだ。一度真冬の最中に窓を開けたら白銀の暴風が吹きこんできて部屋が真っ白になった。あれ以来冬の韓国には二度と足を運ばないとこころに誓った。南国育ちなので冬には弱い。一年前に雪で滑って転んだときに打った左肩がいまだに痛かったりする。石原莞爾は若い頃落馬し股間を怪我したがそれが慢性化し生涯苦しんだという。小さな怪我が命取りだったりするのだ。

地元のスーパーにくるのはお年寄りがほとんどだ。たまに若い女性もくるのだが不思議なことに必ずヒョウ柄のなにかを着用している。地元のルールでもあるのだろうか? あるのだろうと思う。なければ必ず見かけることの説明がつかない。今日行った買い物ではヒョウ柄のバッグを持った金髪の女が鼻歌を歌いながらコーラを買っていた。もっとも何を着用しようと大きなお世話ではある。私は私で熊みたいな無職の男と思われていることだろう。下手したら女子学生に変質者として通報ぐらいされるかもしれない。通報されると面倒くさいし取調室には足を運びたくないし警察の皆様とはお会いしたくないしでいいことは何もないので最近はますますヒキコモリがちである。ただこのあたりの警察は署内で制服を着ている連中はどうしようもないが現場の警察官はずいぶんマシでまともな人間だ。制服を着た連中というのはどういう連中かというと一日椅子に座ってふんぞりかえって現場の報告を聞くだけの管理職のことである。女子供が相談にいくと大声を出して罵倒して追い返すような連中であることはよく知っている。解決できそうもない相談を受け付けてしまうと「検挙率が下がる」からだ。ただ現場の警察官は地元で何が起こっているのかよく知っていてわりと親切に教えてくれる。現場とマネージメントの乖離はどこでも見かけるが、最近よく起こるストーカー殺人的なものも、担当者が違えば全然話が変わってきただろうにと思う。

この町にもむかしは林しかなかったそうだ。国際空港の建築と共に山を崩し、竹やぶを平地にし、農家が開拓した土地を買収していまのニュータウンが建築されている。私の住む家の近くには大和朝廷に滅ぼされた蝦夷の奴隷を集めたという慰霊碑があり、歩いて五分の場所には前方後円墳があったりする。笑ってしまうような人外の土地である。ただ結構気に入っている。この町が開発され栄えていくのを見たいような気もするが、今のようにあちこちに田園があり、林があり、空き地があり、そこに青や赤や金色の蝶やトンボが飛び回る光景がなくなってしまうのは寂しいと思う。ただそれは私のような在日日本人には関係のないことであってかれらの選択することだ。部外者がとやかく言うことではない。ひとは税金を払っているから、国籍をもっているからその国の人間であるわけではないからだ。どこを故郷と思うか、どこの人間として生きるか、そういう所属は後天的に自ら選ばれるものであって、誰もがそう思っているように先天的なものではない。選ぶという主体的な行為があってはじめて故郷が見出されるのだ。そう思いながらベランダで煙草を吸っている。いつもの風景である。風が冷たくなってきたのでジャンパーを羽織る。虎や龍が刺繍されている地元で大人気のジャンパーは1,000円で売っていた。いつかああいうものを着てみたいと思う。きっとまったく似合わないだろう。和服を着る外国人のように。

2014-01-09

私信的なもの(2)



相変わらず耳に痛いことが書かれている。相変わらず気づきたくないことが書かれている。相変わらず何もかもが嫌になってベランダで煙草を吸いました。

冬の驟雨

季節外れのあたたかい雨が降っている。いつでも雨が降っているような気がした。一仕事終えてベランダで煙草を吸っている。私は一日の一割の時間をこのベランダで過ごしている。アジアの団地と違ってきわめて清潔なこの団地では、暴力とも、悲鳴とも、犯罪とも無縁だ。誰もかれもがおとなしく飼い犬のような顔をしている。先日も初詣に出かけたが機動隊が百人ほど集まって交通誘導をしていた。ご苦労なことである。市民を園児か何かだと思っているのだろう。

なぜかいつもベランダのある家に住んでいる。最初の妻と生活していた時はベランダのある一軒家に住んでいた。すぐ裏手に公園と林があって、自然の多い郊外だったが、夜になると自分の心臓の音が聞こえるほど静かだった。私たちの周りの家の住人はみな老人ばかりで、子どもがいる夫婦はほとんどいなかった。ある日、そのベランダに蜂の巣が作られた。アシナガバチだ。まだ小さい蜂の巣をたたき落とし、中にいた蜂の子をすべて殺した。季節は秋で、雨が降っていた。

熱帯の島国にいた頃は確か18階に住んでいて、いつも海がみえた。暴力は比較的身近なところにあった。それは注意深く隠されているだけで、フィリピン人のメイドがアイロンで雇用主に顔を焼かれたり、ジャングルでは強盗殺人があって死体が焼かれたりとニュースには事欠かなかった。いつだったか、マンションの近くで女を殴りつける男の姿を目撃したことがあった。女は悲鳴をあげていて血が道路にたまっていた。家族が通報し警察官が大量に集まってきて女の姿は見えなくなった。そのたまった血のことをおぼえている。その後激しいスコールが降ってきて血は洗い流された。

ラブホテルの窓は常に閉じられていた。カーテンを開くとそこには板が打ち付けられた壁があった。閉じ込められた水槽のような部屋の中で虫のような性交を終えると、そそくさとガラス張りの風呂場でシャワーを浴びた。女たちには様々な物語があったがそのほとんどは忘れてしまった。父親を無くして年老いた母親と二人暮らしの女がいた。母親に優しい女は好きではなかった。家庭的な雰囲気の女も苦手だった。行為の最中に母親にメールをするような売春婦のほうがまだずっとマシと思えた。ラブホテルでは雨の音がほとんど聞こえない。そこには窓がないからだ。

ベランダから見える街は暗い。この時間帯車はほとんど走っていない。雨水はぬるい。遠くの街灯が雨に霞んでみえる。家庭裁判所でも取調室でも雨が降っていたような気がする。人生の節目節目になぜかうっとうしい雨が降っていた。ひとに暴力をふるってきたむくいを様々な形でうけている。自分の脇を通りすぎていった誰かの暴力は、結局自分がその後ふるうことになった怒りと暴力を予言していたように感じられた。意思や努力で人間になろうとした。しかしできずに後悔をしていた。いつまでも後悔をしていた。団地の入り口に、ペンギンの親子の絵が描かれている。雨に濡れたペンギンは手をつないでいる。それは幸せな光景に見えた。

2014-01-08

ネットの新しい作法

何からはじめればよいのか困っている。何から伝えればいいのか悩んでいる。しかしはっきりしていることがある。しかし言わなければならないことがある。居場所がないからネットをしている。鬱憤がたまっているからネットをしている。嫉妬で狂いそうになりながらネットをしている。自分がかわいそうで仕方がないからネットをしている。やめなければならない。沈黙しなければならない。通り過ぎなければならない。ネットを。

左を見ても右を見ても差別主義者と中傷ばかり。Twitterを見ればFacebookを見れば偉そうなひとびとのスーツを着た写真ばかり。テレビをつければヒョーロン家がえらそうな顔をして説教しているばかり。「意識の高い」ひとびとばかりが表に出てきてその裏にいるふつうのひとは無視される。忘れられる。存在しないように扱われる。透明であることを強いられる。もうどうしようもなくうんざりだ。ネットもこの社会も。

自分たちが虐げられているのに誰も何もしてくれない。ネットにいればそう感じる。ネットにいればそう腹がたつ。もうやめたらどうか。こんなネットからは離れたらどうか。逃げるのだ。こんな異常でグロテスクで気持ちがわるいネットからは逃げ出すのだ。こんなところにまともなこころの持ち主がいられるはずもない。右を見ても左をみても弱者叩きばかり。左を見ても右を見てもいがみあいばかり。もうどうしようもないではないか。

今日あったことを書いたら叩かれる。今日したことを書いたら不謹慎だと怒られる。今日ひとと会ったことを書いたら妬まれる。何がおもしろいのか。叩くのがおもしろいからである。いじめるのが楽しいからである。暴力はエンターテイメントだからである。自分が苦しいから、ひとをいじめるのが快楽なのだ。そんな人間の仲間入りをするな。そんな人間たちと同じ顔をするな。ネットから離れるのだ。この暴力の空気から逃れるのだ。

ああ、わかる。私は小さくしょうもない人間だからわかる。えらそうな顔がしたいのだ。うらやましいのだ。うまくやっている連中の真似がしたいのだ。うまいものを食って、えらそうな講釈を垂れて、金持ちどもと一緒に写真を撮って、自分がえらい、自分は格好いい、自分は頭がいい、自分はしあわせだと全世界に自慢したいのだ。わかる。超わかる。わかりすぎるほどわかる。私もそう思う。私もそう考える。私も自慢したい。私がどれぐらい格好よくて頭がよくてお金があって「意識が高い」か自慢したい。超したい。

だがダメだ。ああいう連中のまねをするな。ああいう連中と同じになるな。したいけど我慢するのだ。何もかも我慢しているのにネットでぐらいでかい顔がしたい、そう思うところをぐっと堪えるのだ。ぐっと我慢して友達を探すのだ。仲間を探すのだ。女(男)を探すのだ。トモダチを欲しいと言うのだ。恋人が欲しいと口にするのだ。ネットではない。このくだらないネットではない。現実で、そう口に出すのだ。現実で、そう言うのだ。願うのだ。自分の居場所をさがすしかないのだ。ネットではなくその外で探すしかないのだ。

ふつうのひとがふつうに生活したいだけなのに。ふつうに努力してふつうに生きてふつうに結婚したいだけなのに。ネットがすべての邪魔をする。スーツを着た偉そうな連中が嫉妬心を煽る。意識の高いひとびとがドヤ顔で夢を自慢する。ヒョーロン家が今日も自分が世界でいちばん頭がいいだろという顔をして威張っている。うんざりだろうか? うんざりである。いますぐネットをやめるのだ。やめられないなら通りすぎるのだ。もうそれしかないのだ。社会がキチガイならばそこから身を守る方法は沈黙しかないのだ。

ネットが狂っていれば自分だっておかしくなる。誰もがひとの悪口を言っていれば自分だってそう言いたくなる。「みんなやってるから」と言いたくなる。やめるのだ。ひとにふるった暴力はかならず自分に返ってくる。それは自分がおぼえているからなのだ。自分がひとにしたことを悪いと思った瞬間、それは強烈なとりかえしのつかない後悔となって自分の身に降りかかってくるのだ。そう気がついてからではすべてが遅いのだ。いまいい気になって粘着して叩いてひとの悪口を書いている自分は、将来の自分に復讐されるのだ。だがまわりが狂っていればそんなこともわからなくなるのだ。

みんな狂っている。「空気」が狂っている。みなが頭がおかしくなっているときに正しいことを言ってはいけない。みなが狂っているときにまともな人間になってはいけない。真正面からマジョリティ(多数派)を批判すればあなたは傷つき孤立しひとりぼっちになって自殺するしかなくなるのだ。誰もたすけてくれない。誰も手伝ってくれない。それはみんな自分も仲間はずれになるのが怖いからだ。それは仕方のないことなのだ。かれらを責めてはいけない、自分だって生きるのに必死だからだ。だから沈黙するのだ、狂った時代には沈黙するしかないのだ。少なくともネットでそれをやろうなどとは思ってはいけない。

沈黙しよう。ほんとうの気持ちを隠そう。狂人から身をまもるために本音を隠そう。黙って何も考えていないフリをしよう。馬鹿のように生きよう。ふつうの幸せをめざそう。それから間違っても私のブログを読んでいるなどと公言してはいけない。無視され、仲間はずれにされ、疎まれるだけである。こっそり読むのがよろしい。TwitterでRTしてはいけない。2ちゃんねるでスレに貼って賛同者を集めようとしてはいけない。ブログで「私もそう思う」などと書いてはいけない。空気に逆らえば殺されるのだ。空気を読むのだ。空気はこの国の最高権力者なのだ。空気に逆らえば、自殺させられるのだ。

くるしいだろうか。かなしいだろうか。居場所がなくてつらいだろうか。恋人がいなくてさみしいだろうか。夫(妻)が理解してくれなくてひとりで泣いているのだろうか。わかる。その気持ちがわかる。だがわかってくれるひとをネットで求めるな。ネットにはひとの不幸をおもしろがる連中がいるだけである。生身の人間をもとめるのだ。生身のあたたかい触れられる他者をもとめるのだ。「便利」で「簡単」だからといってネットでトモダチを探すことをやめるのだ。ひとりぼっちになるだけである。さらにひとりぼっちになるだけなのだ。もっともっと孤独でどうしようもない生活が待っているだけなのだ。

沈黙するしかない。黙りこくるしかない。喋れば殺される。そういう時代になりつつあるのだ。そしてそれは誰にも止められない。あなたには止められない。私にも止められない。もちろん政治家にも止められない。ヒョーロン家にも止められない。意識の高いひとびとにも止められない。ふつうに生きてふつうに結婚してふつうに生活したいだけのふつうの希望はますます貴重なものになっていく。つらい、かなしい、どこにも居場所がない。わかっている。わかっている。排除されのけ者扱いされ存在しないと思われているあなたたちと同じ場所にこの私も立っている。

ネットでわかって、ネットで理解して、ネットでトモダチをつくる。無理なのだ。不可能なのだ。もうそんな幸福な時代は終わったのだ。だから沈黙しなければならない。だまってこの狂った時代をやり過ごさねばならない。いつだって自分より低い弱者を探している連中の仲間入りだけはやめなければならない。やめるのだ。いまやめるのだ。今日からやめるのだ。このブログを読むのもやめるのだ。何しろキチガイが書いているブログなのだ。ブログぐらいしか書く場所がない負け犬なのだ。ルーザーなのだ。川に落ちた犬なのだ。ぶうぶう鳴くしか能がない豚なのだ。

あなたはなぜここにいるのか。読みたいのか。そんなに読みたいのか。沈黙できるのか。沈黙できるなら読むのだ。ただし賛同するな。意見を言うな。黙って読むのだ。けしてひとにこのブログを読んでいるなどと言ってはダメだ。勧めてもだめだ。仲間はずれになりたくなければ黙っているのだ。空気に逆らうな。社会から外れた人間をほめるな。社会から外れた人間には眉をひそめて通りすぎればいいのだ。私にもし言いたいことがあるなら手紙でも書くのだ。返事は私の名にかけて必ず書くそれは私とあなたとの約束である。いいか、黙っているのだ、沈黙するのだ、黙って読むだけでいいのだ、それ以上のことはしてはならない、狂ったネットから自分の身を守る事を最優先にするのだ……。

2014-01-07

雑感

長いものを書いていたのだが全部捨てて、ふてくされてベランダで煙草を吸っている。つまらないものはつまらないという圧倒的な事実の前に書き手の努力などなんの意味もないのだった。そういえば某氏が言っていたのだが小説を書くときには必ず上書き保存でコピーや異稿は一切残さないらしい。わかると言ったら失礼なので言わないが気持ちがわかるような気がする。ようするに「もったいない」をいかに排除するかどうかが問われているのだ。途中までできあがった器をたたき割ってゴミ箱に入れる勇気が必要になる。と口で言うのは簡単である。なんだって口で言うのはいつだって簡単なのだ。

東欧製らしいクリスタルの灰皿が煙草で一杯になっている。正月の間ずっと机に向かっていたので背中が痛い。少しずつ肉体の老化が進んでいて、体力が少しずつ落ち筋力が落ちてきている。この前も家内を抱えて運ぼうとしたらぎっくり腰になりそうになった。私の祖父が言っていたが人間の体は交換不可能なパーツで構成された機械と一緒だから、大事に無理をしないように使っていかなければならないのだ。本の詰まったダンボールを持ち上げようとして背骨を折って死んだ人間のニュースを読んだがあれは他人ごとではなく慄然とする。

もっとも、荷物の持ち方にはコツがある。いきなり持ち上げると間違いなく筋や筋肉を痛めるので準備として体をほぐしておかねばならない。するとわりとスムーズに持ち上げることができる。毎日そういう努力をするのは大変だが一時間くらい前からウォームアップし、その際指や腕を保護する手袋や長袖等の準備もしておくだけでもかなり効果がある。大きな仕事の前には普段から備えておくことも大切だが、突然やってきた仕事についてもある程度の予備期間があれば一時的に限界を越えた能力を発揮させることができる。もっともその際にも肉体的精神的なダメージは避けられないが。

この冬は新作を仕上げる予定でいるのだがいただいたメールやコメントを見ながらいろいろ考えている。私の書いたものを読むような読者は基本的にそれを口外しない。後になって「実は読んでました」等カミングアウトしてきたりする。もっとはやくいいなさいと言いたくなる。もっともこっそり読むようなものばかり書いているので文句は言えない。私からみると読者というのはいつも見えないどこかとても遠い場所にいて私の声が届いているのかどうかまったくわからない。海にボトルメールを詰めて流すような作業だ。つまらない小さな人間にどんな大きなものが書けるのか、そういうことを自問する日々である。

むかしの読者はみな元気にしているだろうか。少しずつ年を取り、中間管理職ぐらいにはなっているかもしれない。あるいは定職につかずにふらふらしているかもしれない。または大学に残って指導教授に頭をさげながらポストを探しているのかもしれない。それぞれの個別の人生があり、それぞれの困難があり、それぞれの課題があり、それに取り組む自分がいる。この日本社会にいろいろ言いたいことはあるが、その中にいる私たちにとっては、それぞれが孤独なたたかいを続けているのだということだけは共通している。どこか安全な場所から沈む日本に対して石ころを投げるような人間にはなりたくないものだ。それは結局形を変えた子供の自己嫌悪にすぎないからである。

2014-01-06

寄る年波

キーボードの打ちすぎで背中に激痛。

日本語の不自由な日本人

日本人なのに日本語ができない。日本で生まれたのに日本語がわからない。日本人同士なのに会話が通じない。なんと驚くべきことに外人のほうがマシな日本語を話している。もうやめようではないか。話せばわかると思うことをやめようではないか。無理なのだ。わからないのだ。どうしようもないのだ。不自由な日本語では何も伝えられないのだ。そこからはじめるしかないのだ。

正月も終わり仕事に入っている。貧乏人なので一日机に向かっている。キチガイなのでこの世のどこにも居場所がない。ひとの悪口を書いてカネ儲けをしている。ひとを騙して裏切ってさらにカネを稼いでいる。そして借りたカネは一銭も返さない。人間の屑なのに人間のような顔をして社会の中で生きている。息子とはもう二年ぐらい会っていない。もちろん今後も会う予定などないのである。

なぜひとはひとを外見で判断するのか。キチガイなのにスーツを着ていれば安心だ。キチガイなのにネクタイを締めるとお金がもらえるような気さえする。不思議な世界であり不思議な国である。どうなっているのか。ひとはひとを何で判断するのか。容姿か。学歴か。収入か。スーツの値札か。インテリのふりの上手さか。ブログのリゾート写真か。アクセスの多さか。ネットでひとを騙すことは容易である。現実ですらそうなのだから。

私は正直に書こうと思う。私は何も知らないのである。なんのために本を読んだか。なんのために外国語を学んだか。少しはマシな人間になれたのか。なれなかった。まったくなれなかった。むしろ前よりも愚かになっていた。前よりも女のことがわからなくなった。女はいつでも謎でいくら愛しても何もわからなかった。いくら騙されてもそれでもわからなかった。

女が大好きだった。女が生きがいだった。何度も何度も浮気をして、愛した女には裏切られ、メールをさらされ、通報され、告訴され、ハメ撮り写真を見せつけられ、財産を全部持っていかれ、子供を奪われ、それでも懲りずに女が好きだった。女がいなければこの世は闇である。女がいなければこの世は無意味である。それだけは正しい理解だった。すべての知識は女だけがこの世に必要なものだという真実に至る道だったのである。

女は嘘つきであり嘘をつく女はうつくしい。いますぐ自慰をやめて現実の女を見なければならない。いつまでもディスプレイの前で女が(笑)のついた表情で股を開く写真を見ながら自慰をすることだけはやめなければならない。現実の、あさましい、嘘つきで、傲慢で、被害者意識ばかりが強くて、ひとりぼっちでくるしんでかなしんでいる、あいくるしい女たちのいとおしい姿を見るのだ。それだけがゆいいつ追い求めるべきものなのだ。ディスプレイをたたき壊して外に出るのだ。

あなたはなぜこのブログを読むのか。ネットには花はない。あるのは花を咲かせる堆肥だけである。なぜネットはキチガイを排除しようとするのか。なぜキチガイに優しくしないのか? やめなければならない。キチガイを病院にぶちこみ「なかったこと」にする清潔な社会の異常さに光を当てなければならない。その非人間的な同調圧力に抗うのだ。人間らしさを取り戻すのだ。どれほどきつくつらい道でも、人間にならねば日本人たる私たちは真に生きることなどできないのだ。それは誰にでもできる。いまディスプレイの前にいるあなたにもできる。歯を食いしばれ、そして見よ、考えよ、生きよ!

2014-01-05

まとめサイトに私たちのこころはまとめられない

誰もかれもがまとめている。頼んでもいないのにどんどんまとめる。ブログでまとめる。Wikipediaでまとめる。Togetterでまとめる。毎日のようにまとめる。なぜかれらはまとめるのか。なぜかれらはまとめることをやめられないのか。答は誰でも知っている。しかしさしあたっては、かれらを批判するよりも大切なことがある。それは、まとめられないものについて語ることだ。

たとえば妻の浮気が今日もまとめられている。驚くような内容ばかりだ。妻と間男がホテルから出てきた。携帯をチェックしたら浮気相手とのハメ撮り画像が出てきた。云々。これらはどうでもいい他人の不幸なのだがなぜかそれらがまとめられてしまう。そしてここには妻のこころが欠けている。妻はなぜ浮気に至ったのか、その動機は一行も書かれない。

浮気した妻ばかりが責められ男が被害者ぶって苦しんでいる。どこかで見たような「トラウマ」や「傷」が男のよく滑る舌と口によって語られる。そこには少しの反省もない。自分だけが被害者であって、子供の親権がどうのこうのという内容を、2ちゃんねるのスレ住民に相談する。住民は親切に教えてくれる。みな正義感にあふれているからである。いいひとのフリがなによりも大切な偽善的な国民性が匿名の場でさえ強力に機能している。

そして妻のこころは忘れ去られる。妻はなぜ浮気するか。満たされていないからである。妻はなぜ間男と性交するか。普段満足していないからである。妻はなぜ孤独か。夫が妻を孤独にしているから以外の理由がどこにあるのか。そもそも妻は夫を愛していないのか。夫を愛していながら浮気することはまったく矛盾しない。そうでないと考える「清潔」な人間理解がネットのすべてを覆っている。これはきわめて異常なことだ。

浮気した芸能人の私生活をおもしろおかしく紹介する週刊誌とまとめサイトは極めてよく似ている。というより後者が前者の技術を盗んだのだ。そしてネットに自分の身に起こった「事実」を書き連ねるひとびとはすでにまとめられることを前提にしてそれを書く。そこにはもう作為しかなくそれを読んだところで何一つ得るものがないことは自明だった。得るものはないが時間は失う。そうまとめサイトは時間つぶしの道具なのだ。

まとめられないものの側に立たねばならない。つねに隠されるものの側に立たねばならない。妻はなぜ孤独かもう一度問わなければならない。女がなぜひとりで苦しまなければならなかったのかそれを問わねばならない。浮気をした女を責めてはならない。それを強いた人間や環境があることをきれいに忘れて清潔な物語に安住してはならないのだ。被害者は常に加害者でもありその構造を忘れてしまえば私たちは人間ではなくなってしまう。それはただのモンスターである。

まとめるのをやめるのだ。まとめて理解するのをやめるのだ。そもそも理解などできないのだ。あきらめるのだ。簡単な理解や一方的な加害者などは存在しないのだ。現実はおそろしくグロテスクで歪んでいて一歩足を踏み入れれば自分がどこにいるかすらわからなくなるのだ。どれが正しくてどれが間違っているかさえわからない海の中で羅針盤もなくさまよっているのだ。男女関係においては傷ついた自分だけが苦しいのではない。相手もまた苦しんでいるのである。

今日もまとめている。明日もまとめている。明後日もまとめている。眼をそらしている。お金がほしくてまとめている。みんなからほめてもらいたくてまとめている。自己満足のためにまとめている。妻のことを忘れたくてまとめている。浮気した相手の写真を見ながらまとめている。妻がいない部屋でひとりでまとめている。自分は悪くないと思いながらまとめている。妻だけが悪いのだと思いながらまとめている。まとめるな。理解していないものをわかった気になるな。わからないと言うのだ。なぜこうなったのか全然わからないと口にするのだ。そして苦しいというのだ。くるしくてつらくてかなしいと口にせよ! 

誰もかれもがまとめている。あなたたちの人生をまとめる動きに抵抗せよ。わかったような口をききそれを短く140文字以内でまとめようとするネットの動きから抜け出るのだ。わかってはいけない。わからないのだ。わからないことばかりなのだ。学歴も所得もスーツの値段もほんとうは関係ないのだ。それは単に記号にすぎないのだ。ひとたび服を脱げば、剥き出しの裸の人間がそこにいるだけなのだ。あやまちを犯した人間をゆるすのだ、ゆるせなければ理解しようとするのだ。まとめられないものを見るのだ。そしてもしできるのであれば、ネットから離れた場所で、一緒に泣いてあげなさい。

2014-01-04

私信的なもの

先日、地元の中古ショップで通信機器を見つけて、相場より安かったので買ってきたのですね。家に帰ってきて、ファームウェアのアップデートをしようとしたら、エラーが出てうまくいかない。色々調べてみたんですが、最終的にはその理由がわかりました。要するに箱の中身が別の製品だったんですね。製品の裏側に小さく型番が書いてある。それが千番単位で古いものだった。つまり二年ぐらい前の製品を新しい製品の箱に入れた上で、それを隠して販売していたわけです。

最初は買い取った店側が騙されたのかなと思ったんですが、たぶん違うんですよね。店側は騙されたことを把握した上で、新しい客(私)が騙されて買うことを見越してわざわざ値段を安くして売っていたわけです。どうせわからないだろうと思っている。わざわざ型番をしらべてチェックするような客はいないと思っている。完全に馬鹿にしてるわけです。これ何かに似てると思ったんですが要するに最近起きたデパートなどの食品偽装もまったく同じ構造ですね。パッケージ(ブランド)でごまかして、中身は粗悪品を売りつける。

こうしたことはアジアではよくあることですが、日本でこんなことがあるとはと思って、私は正直かなりショックを受けました。一日ぐらい落ち込んだ。この国にあると思っていた職業倫理が文字通り失われつつあること。そしてそれはこの店だけの話じゃなくて、読者を完全にナメて馬鹿にしてる週刊誌や、視聴者をまったく侮蔑して「わかりやすい」番組をつくりつづけるメディアも同じなんですよね。それを具体的に目の当たりにしてショックが大きかった。

最近ちらほらブログは死んでないなどと希望的観測を述べるひとたちがいるのを横目にして、頑張っているなあと思うのですが、別に場が滅んだって書くことはいくらでもあるというか、たとえばこの国が滅んでも個人は生きていかざるを得ないのだから、もういいんじゃないか、と思うんですよね。場を作ったりしないほうがいい。大文字の「連帯」は忘れたほうがいい。なぜなら究極的にはひとりでやっていくしかないわけですから。そしてそういう仕事が結局残っていくと思う。実際いま私たちのことばは、そうした個別の仕事の蓄積によって作られている。

最後に時事ネタで紅白歌合戦の話を。美輪明宏の「ふるさとの空の下に」がよかった。あと泉谷しげるもよかった。会社に居づらくなったかつてのエリート社員みたいな顔をした大島優子もちょっとよかった。結局私たちには希望が必要なのかもしれないと思いました。そしてそれはどこにも見つからないので、自分でつくるしかない、またはそれを語るひとを応援するしかないと思いました。私はいまブログを書く愚か者を応援します。誰のためでもなく、自分のためだけに文章を書くと信じる誠実なひとを応援します。今年も頑張りましょう。塩と砂糖を間違えても。

料理の死角

塩と砂糖を間違えた。

2014-01-03

ネトウヨは景気が回復すれば消滅しますか?

景気が回復しても、この失われた20年間で奪われた青春は帰ってきません。色々難しく考えすぎなのです。物事はもっとシンプルに考えるべきなのです。あなたのまわりを見て欲しい。ひとを傷つけるような言動をするひとはいったいどんなひとか。悪意というものは、別の意図的な悪意、あるいは非意図的な悪意によってしか作られないのです。ひとというのは、ひとにやられたことしか他者にできないのです。

奪われたひとの怒り、かなしみ、つらさは、憎悪となって外に放出されていきます。貧乏による家庭内不和があれば家族の怒りはたいてい弱い子どもに向き、日本全体が貧しくなった結果のひとつがこのネットの現状でもあります。そして二面性の強い偽善的な国民的気質もまた、その憎悪の増幅に一役買っています。それはたとえば「マスコミは嘘つきだ」という意見となってネットで増幅されています。しかし嘘つきなのはマスコミではなくこの社会そのものなのです。

だからそのやり場のない怒りはこれからも社会にぶつけられ続けます。ネットは便利で反撃もされにくいので傷ついた弱いひとたちには最適なはけ口です。ここでいう弱いひとには一定以上の知識があるのに組織で認められなかったり配偶者にあまり愛されていなかったりして鬱憤が溜まっていてコンプレックスからも脱却できない中高年も含まれるでしょう。かれらのようなひとが「どこにも居場所がない」と検索して私のブログを読んだり、私に題名のような質問をメールで送ってきたりするのです。

自分を呪っている間、憎しみは消えることがありません。たとえ景気が回復して、これから世にでる若者たちが幸せになったとしたら、かれらはそれを妬み、嫉み、そのやり場のない怒りをさらに弱いものに向け続けるでしょう。具体的には老人、女性、子供、そしてマイノリティである外国人に向かっていくでしょう。現在すでにそうなっています。終わりのない悪循環であり一種の生き地獄です。私たちはこうした膨張した憎しみと向きあっていく、あるいは同じマンションでかれらと同居しなければいけません。

もっと、シンプルに考えるべきです。不遇な環境が、ひとを怪物にするのです。想像力のない、ひとのこころの痛みがわからないモンスターにするのです。もちろん金をうなるほどもっていてもひとは怪物になりえます。それはバブル時代(あるいは大日本帝国時代)の日本のことを知っているひとにはあまりにも自明のことではないでしょうか。しかし、いま私たちが直面しているのは、端的にいって<傷ついたひとびと>の絶望に満ちた怒りなのです。それを嘲笑ってはならない。シンプルに、人間らしく考えなければいけません。

モンスター化しつつある人間にはふたつの対処法があります。ひとつはさらなる暴力によってかれを無力化すること。それには権力や立法による暴力も含まれるでしょう。しかし私はひとりの人間として、傷ついた個人に対する対処を暴力によるものにしたくない。傷ついたひとがなによりも必要としているのは、その傷の在処を理解してもらうことです。もちろん他者にそれを理解することなどできませんが、それを試みてくれるひとがいるということ、その事実を知ることがひとの<こころ>を助けるのです。それがもうひとつの対処法です。

もちろん、私はそれがいかに困難なことか、たったひとりの人間に対してすら、いかに難しいことかよく知っています。そしてこの疲弊した後進国において、自分ではどうにもならない外的要因によって落ちこぼれ、排除され、馬鹿にされ、ネットで「どこにも居場所がない」と検索するほかないひとたちが、たとえば100万人単位で存在していたとして、かれらに対してほとんど有効な解などないだろうこともわかります。しかし、理解しようとすることはできる。私たちは、そうしたことからはじめなければならないのではないでしょうか。悪意の連鎖を止めねばなりません。

この悪循環を断ち切る一歩には、傷ついたひとを理解する試みが必要となります。ネットで毎日叩かれている負け犬、不幸なひと、社会からはみ出したひと、挫折したひと、頭がおかしいと思われているひと、こういうひとたちを理解しようと試みることが必要です。もし自分の生活があまりに苦しくて、どうしても石を投げつけたければ、目を閉じて見ないふりをする優しさが必要ではないですか。そして自分に問うのです。このひとが、自分になにか悪いことをしただろうか、と。

私がこういうことを書かなければならなくなったのは、私のブログに検索でやってくるひとびとのキーワードがあまりにも悲惨だからです。それも結構な数のひとがいる。なぜ、たとえばTwitterでそのような自分の悩みを語れないのでしょう? なぜFacebookで、友達にそういう話ができないのでしょう? 答は簡単でその不幸をすぐにおもしろがって晒し上げるひとたちがいるからです。こういうシステムに頼ることをやめなければならない。ほんとうに、ブログなど読まずにネットから離れろといいたいぐらいです。

傷ついているなら、傷ついたと言えばいい。問題は自分が傷ついていることすら知らないひとたちがいるということです。まず自覚してほしい。自分の悪意が何によってもたらされたのか。どうすればその苦しみが癒されるのか。あなたの問題を誰かの悪意にすり替えてはならない。悪意の根本を殺さねば自分の人生を生きることなどできないのです。スーツを着た偉いひとびとが言っていることは忘れてください。「意識の高い」かっこいいひとびとが言っていることも忘れてください。ネットにはあなたの傷を癒してくれるものは何もありません。ネットにはあなたを助けてくれるものは何もありません。ネットにはあなたを救ってくれるものは何一つありません。

矛盾しています。そう語る私はまたネットによって救われたのでした。いや厳密にいうと書くことを通して自分が生きる意味を見出したのです。それはネットがなければ成し得なかった。あなたもそんなにネットが好きなのですか。ネットを愛しているのですか。ネットがなければ生きていけないのですか。それでは私のブログを読みなさい。誰もが黙っていること誰もが知っていながらおためごかしでごまかしていることを私は書きましょう。そのためにすべての社会的地位を捨て金銭をドブに捨てる覚悟で書きましょう。私は過去現在未来の読者のための奴隷でありあなたたちのどこにも居場所がないすべてのかなしみといかりを代弁して書きましょう。私が何者か、私が誰か。料理と性交だけが趣味の偉そうな1975年生まれ、バブルで誇りを失ったすべての負け犬たる日本のロスト・ジェネレーションの代弁者、さようなら、さようなら!

2014-01-02

主夫的生活

まるで日本人のような顔をして正月用の雑煮を作っていた。自分でもよく忘れるが私は日本生まれで江戸幕府ができる前から関東に住んでいる一族の人間だ。もちろんすべての親族に蛇蝎のごとく忌み嫌われている(「この人間の屑が!」)ので、正月に出すような顔はないのだが、季節物を料理するのは結構好きだ。クリスマスにはケーキも焼く。

今年は韓国の港町で買った煮干と昆布が大量に余っているのでそれを使うことにした。煮干の頭とワタを取るかどうかで以前京都の元編集者――「マージナル・ソルジャー」を手伝ってくれたM氏――と論争になったことがあった。氏いわく「ワタや頭を取るなんて上品だし軟弱な感じ」だそうである。大きなお世話だ。

しかしいろいろ試したところ、頭は入れたほうが独特の風味が出て美味いように感じる。ただワタはどうしても雑味が出てしまって、結局頭だけは使ってワタは取るという方法になった。かくして京都と関東人の間の不毛な論争には妥協点が見出されたのだ。人生たまには妥協も必要である。

アジアではごく普通のことだが、食材というものはそのまま食べられる形では売っていない。まとめ買いした煮干には全然違う魚が混じっていたりするし、海藻の切れ端などが混入している。料理の前にベランダに新聞紙をしき、煮干をばらして選り分ける作業からはじめなければならない。日向でこれをぷちぷちやるのは結構楽しいものである。

そういえば先日買った料理用温度計もようやく使い始めた。私の亡くなった祖母がむかしよく日本茶を淹れてくれて、それが好きだったのだが、先日同じお茶を地元の同じ店で買ってきた。地方でほとんどの店が潰れていたがその店はまだあったのだ。しかし家に帰ってきて淹れてみたのだが、なぜか同じ味にならない。何回淹れてもダメである。それがお湯の温度だということに気がついたのは五回ぐらい失敗してからのことだ。

沸騰したお湯を使えばいい珈琲や紅茶とは違って、祖母のお茶の場合はだいたい85度が適正温度だった。そしてこれは祖母が愛用していた電気ポッドのお湯の温度だったのだろうと思う。改めてこの温度でやってみると、お湯を注いだ瞬間その表面にクリームのような泡ができた。これが信じられないぐらいうまかった。一番安い、貧乏人が飲むお茶である。涙が出そうになった。

2014-01-01

自慰の帝国

今日も自慰ばかりしている。ディスプレイの前で自慰をしている。スマートフォンを片手に自慰をしている。天皇陛下万歳といいながら自慰をしている。日本の技術は世界一で自慰をしている。Twitterで自慰をしている。まとめサイトで自慰をしている。靖国参拝で自慰をしたついでに安倍晋三で自慰をしている。この国の何もかもが自慰をめぐっている。そこにはひとりぼっちの自分しかいない。

夜のベランダから見える地平線は明るい。その方角には様々な外国人から便利で近いねと揶揄される国際空港があり、その上に星がいくつか光っている。この地方では星がどこからでもよく見える。週末になると、宿題から解放された若者が群れてバイクを走らせている。かれらはみな行儀よく信号を守る。そしてヘルメットをきちんとかぶってバイクを乗り回す。愉快で心温まる地方の一シーンである。

ベランダに立つ私からは、反対側の棟の窓がすべて見える。さあ電気を消そう。かれらの営みがよく見える。目を閉じればなおさらよく見える。窓縁に置かれたそれぞれのPC(もちろんWindows PCだ)でかれらが何をしているか。性器に毛が生えたばかりの少年が、仕事もなく頭も薄くなりかけた中年が、子供に見捨てられた老人が、そこで何を見ているか。何をしようとしているか。いまどのような生活をおくっているか。

自慰をしている。自慰を続けなければならない。ひとりぼっちで。誰からも隔離されたこの場所で。ネットのあちら側の「仲間」たちと群れてなおひとりぼっちで。親が、親戚が、知人が、SNSのフレンドが、社会が、いったいかれらに何をしてくれるか。私たちに何をしてくれるか。何もしてくれないので自慰をするしかない。誰もいない場所で精液を放出すること、それだけが趣味である。

女がこわい。ひとがこわい。嫌われるのがこわい。気持ちが悪いと言われたくない。不気味だと馬鹿にされたくない。容姿がまずい。年収も低い。自分のことをゴミだとしか思えない。自分はゴミであるから誰とも関わらずに生きたい。ひとりで生きたい。もしほんとうにひとりで生きることさえできたらどんなにいいだろうか。

自慰をするとき、ディスプレイの表面にはうっすらと自分の姿が映っている。しかしその姿は液晶のけばけばしい光によって常に覆い隠される。そこにいるのは透明になることを強いられた自分である。座っているのはもはや人間ではなく粘液を放出するだけの袋である。窓のないその部屋のゆいいつの出口は、Windowsという奇怪な名前のOSが搭載された箱である。この箱の中に私たちは閉じ込められている。

この2014年もまた、自慰の時代であることは何ら疑いようがない。性器をこするための道具だけは揃っている。箱の中はきわめて快適だ。子宮のようなその箱に閉じこもっていれば、ひたすら暗がりで性器をいじって楽しむ子供時代が戻ってきたような気さえする。外で両親が怒鳴り合っていても、別れた妻から慰謝料の弁護士名義の督促状がこようとも、偽善とおためごかしばかりの社会によって深く傷つけられ、そしてすべての居場所を強奪されていようとも、この箱の中だけは快適であり、そこにはすべてがあるような気がした。

検索すれば0.1秒で女が股を開いている。いやすでに検索は不要だった。頭だけはいいどこかの皆様がつくって提供してくださる便利で偉大なインターネットのおかげで、ブラウザを立ち上げるだけでそこにはアニメ絵または実写の女が股を開き、自慰をし、性交をしている静止画と動画がずらずらと自動的に表示されるのだ。私たちの飢えは、欠乏は、孤独は、こうした利便性の高い給餌機であるネットによって補われる。部屋に閉じこもっていても、「窓」がすべてを与えてくれる。

まったくまるでSFのつくり話のような現実である。2014年、どんな作家も想像しなかったこのシステムはさらに洗練されるだろう。それはひとに自慰の快楽を与え続けそこから出られなくするだけでなく、それが自分たちを閉じ込め隔離する虫かごなのだという事実を徹底的に覆い隠し続ける巨大な機構である。かくして日本人は、動く物にだけ反応する昆虫のような生き物になっていく。肥大化した目と右手と性器。この自画像をグロテスクと思うことのできない連中がクールジャパンなどという白昼夢を見ているのである。

ネットの広告はいまどのようなものか。足をひらいて性器を見せた女が「イクッ」と叫ぶやたら目の大きいアニメ絵(すぐれた自画像だ)に、「指で女の子をイカせてみたいひとはこちら」とキャプションをつけてスマートフォン用の課金サイトへと誘導する。スマートフォンのつるつるした板を必死にこすって、しごいて、こすって、昆虫的な快楽を得る。これは遠いどこかの話ではなく、すべての日本人に対してあらゆる場所にワンクリック圏内で設置されているのが現状である。この広告を英語に翻訳してみたらよい。きわめて愉快な日本論になるだろう。

最近は女子供向けなのか、男同士の絡み合い画像すら増えてきた。スーツを脱いだ男二人が性器をまさぐりあう漫画が公的な場所に平然と設置され、誰でもいつでも閲覧できる。女たちもまた自慰をしている。もはや自慰は男だけの楽しみではない。これらすべてが倫理的に間違っているとかポルノを公の場から排除せよとか頬を赤くして言うのは人間がどんなに低劣な生き物か知らない頭でっかちのスーツを着たご清潔な連中であることは自明だが、なによりも戦慄しなければならないのは男と女がそれぞれ孤立した場所で自慰をひたすら続ける風潮がさらに加速していることである。

自慰の帝国。クールジャパンにおいては、自慰だけが喜びである。ひとりぼっちで自慰をすることばかりが励行される。さらに恐ろしいことに、これは一つまたは複数の「有害」サイトの問題とはとても言いがたい。あらゆる商業主義のすべてのレイヤーにおいて自慰行為が推奨される。日本における構造的な問題とは何か。それはシステムが「成り成りて」自然に造り上げられてしまうということである。この現状を前にすれば、個人を孤立化させたい第三者の意思がどこかに介在しているのではないか、そう思いたくもなる。だがしかしそれは違う。傷や痛みと向きあうことができなくなった個人が、この現状を自ら望んで作りだしている。そのことに慄然とする。

窓のない閉じた世界でひたすら自慰をすること。そしてひとつだけある窓にはいつも美しいまがいものの風景が映しだされていること。このことを忘れてしまえば私たちは虫かごの中の昆虫になってしまう。単なる精液の袋になってしまう。システムによって複製され再生産され拡散される擬似性行為によって緩やかなインポテンツ化が進んでいる。自分自身の手による去勢が進んでいる。生身の女の視線の前では勃起しない男性器が大量生産されている。

うつくしい女はこわい。きれいな女はおそろしい。口が達者な女は憎たらしい。学歴が自分より上の女はゆるせない。自分より下だと思っていた朝鮮人が日本人より偉そうな顔をして儲けているのが許せない。劣等国だと思っていた中国がいつの間にか軍事大国になり世界第二位の座を奪われたのが許せない。何もかもが自分の敵なような気がする。何もかもが自分を苦しめているような気さえする。目を閉じればいい。目を閉じて自慰をすればいい。自分の目を潰してまがいものを本物と思って今日も自慰をすればいい。

それでいいのか。それで生きているといえるのか。自慰をやめよ。いますぐやめよ。同人誌で抜くな。pixivのR-18タグで抜くな。xvideosのamatuerタグで抜くな。ニコニコ動画で抜くな。御真影で抜くな。ブログでインテリのふりをして抜くな。Wikipediaから適当に引用した知識をひけらかして抜くな。自分が幸せだと自分を騙して抜くな。日本が先進国などと思って自分の苦しい日常をごまかすな。日本が大国などという白昼夢にひたって居場所のない自分のどうしようもなくみじめな生活を慰めるな!

自慰を続けなければならない。ひとりぼっちで。自慰だけが人生だった。自慰だけがすべてだった。自慰の時だけ理想の女と出会えた。ああ、違った、違うのだ、何もかもが夢なのだ。ベランダの向こう側で、新婚夫婦がソファで性交している。愛してるよ、ああ、きれいだよと言っていた。うらやましかった。口から血を吐くほど憎たらしかった。愛がほしかった。自分を愛してほしかった。理解してほしかった。しっとりと湿った潮騒の味がするという女性器を舐めてみたかった。何もない。この国には何もない。何もないのだろうか。もう手遅れなのだろうか。もう戦争という巨大な自慰しかないのだろうか。違う、断じて違う、違うのだ、違うのだ……。