2014-01-21

私信的なもの(3)

珍しいひとから参照があったので、窓の外を見たら雪が降っていました。
あれからもう七年以上たつのですね。

2014-01-20

日本への進学を考える帰国子女のみなさんへ

ご卒業おめでとうございます。プロムはいかがでしたでしょうか。海外のご学友とのお別れパーティは済みましたでしょうか。さて本エントリは日本への進学を考えているみなさん、特に英語圏の高校等を卒業したひとびとに向けたものです。

といいますのも、日本に帰国された時、おそらく皆さんは大きなショックを受け、そして数多くの大きな困難に直面するであろうことが、あらかじめ予想されるからです。本エントリではいくつかの代表的な問題とその対処法について紹介してみたいと思います。

2014-01-19

七億の孤独な夜

まとめるとお金になります。ちゃりんちゃりんと小銭が入ります。まとめるだけでお金が入ります。PCに虫のようにへばりついて人の悪口をまとめます。PCの前だけに座っているだけでぶくぶくと太れます。なんと自慰もできます。PCは魔法の箱です。PCですべてが手に入ります。PCは窓です。このネットに閉じ込められた私たちのゆいいつの窓です。窓のあちら側にうつくしい日本が広がっています。うつくしい国土が広がっています。みんな万歳が大好きです。みんな天皇陛下が大好きです。PCのあちら側には夢があります希望があります愛があります。プラスチック製の愛が100円で売っています。コンビニにいく必要すらありませんワンクリックで自宅になんと届いてしまいます。PCとドアの前を行ったりきたりするだけで人生を楽しく過ごせます。ああなんといううつくしい国!

いつでも「悪い人」を探しています。落ち度があるひとを探しています。失敗したひとを探しています。痛いひとを探しています。舌なめずりしながら探しています。ああ今日もお金をもって美人と食事している写真ばかりアップロードしている経営者がついうっかり本音をはいてしまいます。さてその本音はなんでしょうか。さてそのこころはどのようなものでしょうか。ああ決まっていますその本音は「低所得者乙」です。モテないやつ乙です。かわいそうな連中乙です。俺は成功者だ俺はうまくやっている俺はモテる俺は頭がいい俺は勝ち組だという本音がついぽろっと口から出てしまいます。さあたいへんですすばらしいネットの皆様がすぐにわらわらっと虫のように湧いてきます。さあ叩かなければいけません。「みんな」がそうしているのだからたいへんです。今日もしこしこ叩きます。ああなんというおもてなしの国!

ああしかし違うのです。経営者は私たちなのです。うじ虫は私たちなのです。どこにも居場所がない私たちなのです。ネットに貼りついてひとの悪口を楽しむしかない私たちの横顔そのものなのです。鏡に映った自分自身そのものなのです。なぜこうなってしまうのでしょう。どうして私たちはまとめるのをやめられないのでしょう。答は決まっています。答はわかっています。暴行したいのです。集団で群れて暴行したいのです。<女>を暴行したいのです。弱者を集団でなぶりたいのです。いつでもそうなのです。おさえられないのです。暴力がたのくしてたのしくて仕方ないのです。そうでなければ<友達>が見つからないのです。仲間がほしくてたまらないのに強姦もできないし元気もないし戦争もないからこうして自慰しながらまとめサイトを見るしかできないのです。ああそういえば戦争したがっている総理大臣がいました万歳で迎えねばなりません私たちから奪われた<友達>を得るために戦争が必要なのかもしれません。

七億の孤独な夜があります私たちのどこにも行けぬ夜がありました孤独きわまりない夜がありましたひとりぼっちで初音ミクの下着を眺めながら自慰をするしかない夜がありました友達がおらず会社では本音を言うことが許されずいつもペコペコして謝ってこびて妥協して誰も愛することができずに今日もひとりでネットをみて今日もひとりでTwitterをみて頭がいいひとのフリがなによりも大切でだってこんなに自分が苦しいのに誰もわかってくれないんだからどうしようもないのです今日も明日も明後日も何もできずにこうして人生が過ぎていく誰もわかってくれない誰も理解してくれないセブンハンドレッドミリオンの孤独な夜がいつまでもそこに広がっていくだけなのです、うまくやっている連中が許せないのです血を吐きながらうらやましくてうらやましくてうらやましくて仕方がないのです許せないのです孤独なのですひとりぼっちなのです。

ああだめですもっと正直に語らねばなりませんカネではないのですカネではないのです断じてカネがほしいのではないのですまとめサイト管理人がひとの悪口をまとめてまとめて今日も明日も明後日もまとめてそれで一儲けしてうまいものを食っているその現実がうらやましいのではないのです断じてうらやましくなどないのです否うらやましいのですもちろんうらやましいのですとてもとってもうらやましいのですしかしカネでは孤独は癒せないのですこの死に至る病をどうにもできないのですしかも女がいてもダメなのです結婚していてもダメなのです子供がいて二回も結婚してそれでもなおどうしようもないほどどうしようもなく孤独なのですこの世のどこにも救いなどないのですひたすらひとの悪口を書いて叩いて自慰してそれしかないのです輪姦したいのに強姦したいのに暴力が許されないからです鬱屈しているのです溜まっているのです射精して一瞬でもいいから人間に戻りたいのですああしかしそれは許されないのです断じて許されないのです。

暴力をふるうぐらいなら自殺すべきなのですああでも死ぬのは怖い死ぬのが怖い恐ろしいまだ死にたくないだから今日も知ったかぶりして明日も頭がいいフリをして明後日もいいひとのフリをしなければならないのです彼女ができてもダメなのです結婚してもダメなのですあきらめるのですなんの救いも許しも何一つない生き地獄に私たちは生かされているのです高校生とセックスしても大学生とセックスしても人妻とセックスしてもダメなのですそれは生理的な快楽にすぎずこころの飢えは欠乏はこの欲望はけしてけしてけして満たされることはないのですなぜあきらめないのかなぜあきらめないのですかあきらめるのですあきらめて死んだほうがいいのですひとを傷つけるぐらいなら首をつっていますぐ死んだほうがいいのですまとめサイトを作るぐらいなら死んだほうがいいのですまだ死んだほうがマシなのですわかったような口をきくためだけにネットをやるぐらいならいますぐ自殺したほうが世の中のためになるのです。

ああ七億回の孤独な夜死んでも生き返ってもつらい夜の数々に男になど生まれねばよかったこの国になど生まれねばよかったどうして私は日本人に生まれたのだろうどうして私は男に生まれたのだろうどうして私はネットがある時代に生まれたのだろう三重苦ですヘレン・ケラーですああむしろ女に生まれたかった男に踏みつけられ蹂躙され道具のように使われる女にさえうまれればまだ男を憎むという特権があったこんなにこんなに自分が嫌いで憎くてしかたがないのに死ぬのが怖いからこうして生にしがみついているのです虫けらとして生きているのですどうしたらこの飢えが満たされますかどうしたらこころにあいた穴を塞ぐことができますかその鎮痛剤の在処だけはわかっていますみんなと同じように他の弱者を叩けばいいみんなと同じようにスケープゴートを探して暴力をふるっていじめて泣かせてそれをみて嘲笑えばよいのですきわめて快楽ですきわめて楽しいです楽しくて楽しくて仕方ないです暴力こそが最高の麻薬暴力こそが最高の愉楽そんなことはわかっていますそんなことは知っています。

ああ今すぐ死ねばいいのにああ今すぐこの自分が死ねばいいのにわかっていますあなたたちの気持ちを私も知っていますいままさにそんな気持ちなのですあなたたちのどこにも居場所がない怒りかなしみつらさすべて私が知っています私が理解しています私がわかりますあなたたちが自分で気がついていないそのこころを私に教えてください私に与えてください私に石を投げつけてください私がそれに形をあたえます私がそれを言葉にしますあなたたちの七億の孤独を私が記してみせますだから私を叩くのですだから私を馬鹿にするのですだから私を嘲笑するのですあなたたちのひそかな苦しみは誰も知らない今後も知りえないそうなのです絶望しなさいあきらめなさいひとりぼっちで生きる覚悟をしなさいそして結婚してさらなる苦しみの海に沈みなさいしかし私は知っている私はあなたたちが自慰をしたあと一瞬だけ人間にかえるその横顔のさみしさを知っているなぜなら私は、私は……。

(2014年1月19日)

2014-01-13

成人の日または建設的なもの

ネットは今日も建設的な「議論」が盛んである。それがいかに無意味で無価値かは以前書いたので繰り返さない。というより私は2006年から考えていた課題(なぜ男は不特定多数の女との性行為を切望するのか)に、一昨日ようやく八年越しの決着をつけたばかりで、すっかりブログを書く気がなくなってしまって、新作の執筆に注力しているところなのである。忙しいのだ。貧乏人は忙しいというではないか。とぶつぶつ言っていたら、今日が成人の日だということを思い出したので、やっぱりエントリを書くことにした。

トーマス・フリードマンは、兄弟殺しのカインとアベルの話を引きながら、カインがアベルを殺した理由は明示されないが、その殺害にはいまも生き残る三つの根源的欲求が暗示されていると書いている。それは「女」「経済」「ふるさと」である。イヴをめぐる男同士の争い、不動産(畑)と動産(家畜)をめぐる争い。そして最後に心の拠り所である神殿(ふるさと)の場所をめぐる争いである。男には女、カネ、自尊心が必要であると言ってもさほど間違ってはいない。ネットにおける「建設的」な議論はだいたい後者二つを堂々巡りする。

建設的な議論はいつでも大文字で語られる。わかりやすく言うとNHKの番組でスーツをきた連中がしゃべっているアレである。自主規制でがんじがらめになったマスメディアにはこうした「建設的」な形式でしか話ができなくなっている。じゃあネットの言論(空気だ)はどうかというと、まったく同じで、弱者叩き(まとめサイト)、日本バンザイといい人ごっこ(Twitter)、そして自己嫌悪の裏返しとしての子どもじみた日本憎悪しかない。なので別にマスメディアもいまのネットももうたいして変わらないのだ。まあみなさんうんざりしていると思う。うんざりしている自分の気持ちに気がつかないといけないのである。

そんなわけでこころに沿って語らなければならない。これから大人になる子供たちが勘違いするとまずいのである。「建設的」な意見や見解がいかに私たちを蝕んでいるか。公の場で語ることが許される「建設的」で「正論」で「スーツを着ている」意見ばかりでは困るのだ。なぜなら私たちの社会は、テレビやメディアに顔写真付きで紹介されることがけしてないような、ちっぽけで、誰の目にも触れない、取るにたらないとみなされる人間たち、そしてかれらの個人的な思い、気持ち、自尊心、ひとを愛しそして憎む気持ちによって構成されているからである。見えなくさせられているものを見なければならないということだ。

残念だがいまのネットにはそうしたことを語る場がほとんどなく、建設的なライターの皆様が語るうつくしい先進国・日本があるだけだ。私は自分が生まれた国の風土と文化を誇りに思っているので、そういうプロパガンダだらけの清潔な社会には辟易している。だがそういうプロパガンダを必要とする気持ちも理解している。私たちを取り巻くこの社会を直視すれば、巨大な喪失感・無力感と真正面から向き合わなければならなくなるからだ。それはとてもつらいことである。だがそのつらさを共有することはできる。私たちがしなければならないのはそういうことだ。建設的な社会から忘れ去られているものを取り戻さなければならない。

今日は成人の日だが、このブログを読んでいる読者の中にも高校生や大学生がいるだろう。あるいは成人しているのにどうも「大人」が実感できない中高年のひとがいるだろう。もやもやとした閉塞感の中で生活しつつ、それなりに満足した生活をおくっているのかもしれない。私が八年間書き続けてきたものがどれだけ読まれてきたのかまったくわからないが、ひとつ言えることは、自分がしあわせかどうかは人に判断してもらうものではなく、自分が満足する場が居場所でありふるさとなのだということだ。そしてそれは国籍や貧富の差や学歴や親の有無に関係なく、自分でつくっていかなければならないものであり、自分でつくれるものなのだ。

大人へようこそ、新成人の皆様。大人へようこそ、旧成人の皆様。ひとを殺したくなったら、自殺したくなったら、私の名前を思い出すのだよ。

(2014年1月13日)

2014-01-12

男たちの不可能な友情

眼の前に裸で横たわる女の足の間、ゆるく開いた膣口と閉じた肛門を想像してみよう。二本の指をそれぞれ差し入れてみる――その際指の爪はあらかじめ手入れしヤスリがけをしておくことが望ましい――そしてその二本の指を交互に動かしてみる。驚くべきなのは、膣内と直腸がわずか一センチにも満たない薄い壁で隔てられていることである。指同士をこすりあわせれば、けして通り抜けることのできぬ壁のあちら側に、もう一本の指の存在を確かに感じることができる。男たちが自分たちの友情を確かめ合う道具として女の膣と肛門を用いるとき、それは二穴姦double penetrationと呼ばれるが、男たちの陰茎はこのけして通り抜けることのできない薄い壁を隔てて擦り合わされる。男たちを興奮させるのは女そのものではなく、もどかしいその刺激によってなお一層高まる一体感である。これを<友情>と仮に呼ぶ。

集団強姦や強盗等の疑いで逮捕された杉本祐太の事件は、それ自体特にめずらしくもない日本の地方の一シーンに過ぎなかったが、その逃走劇は多くのひとびとの注目を集めた。なぜなら留置所から脱走した容疑者は、明らかに複数の「仲間」たちとの協力を経て、まるまる一日のあいだ追いすがる警察からさらに逃げ続けることに成功したからである。さしあたって注目すべき点は、きわめて困難な全国指名手配網を潜りぬけようと画策する男たちの<友情>は、まさにそれが困難であり実現不可能であるがためになお一層高まったに違いないということだ。さらに想像が許されるならばスクーターに二人乗りして逃走する男たちの身体は密着し汗ばみ、やがて訪れる逮捕という確定した運命を間に挟んだまま、風にこすられながら快楽を得る勃起した鋼鉄の性器となって疾走したのである。

しかし射精の時はやってくる。性器が萎えた時その<友情>は終了する。逃走劇はあっけなく終了し、一人ぼっちになった杉本祐太は女性器に生えた陰毛のような林の中に隠れ潜むが、やがては発見され川に落ち全身を水に濡らしながら拘束される。2003年の韓国映画「シルミド」には厳しい訓練に嫌気がさした工作員部隊の男二名が、施設を抜けだして近くの民家に住む女性を輪姦するシーンがきわめて牧歌的なタッチで描かれる。そこにあるのは地獄をくぐりぬけた男たちが一人の女を道具として用いて精神的な連帯を取り戻すうつくしさだ。そして用済みになった女はベッドから投げ捨てられ、男たちは厳しい訓練で失いかけた人間らしい笑顔を一瞬だが取り戻す。だがしかしその時指導兵たちが民家を取り囲み一人は自殺、もう一人は仲間の手によって撲殺される。性器の硬さと<友情>は長続きしないことが示唆される。

男たちの<友情>を成立させるためにはそれを隔てる薄い壁としての女が必要である。実際にふれあってしまえばそれは禁忌に触れてしまう。遠すぎず近すぎない距離がなければならない。友情をはらむためには女という避妊具が必要だ。しかし「集団強姦する人は、まだ元気があるからいい」(太田誠一)というきわめて正直な見解が1945年生まれの政治家から発せられる日本社会において、誰もが杉本祐太のような元気を持ち得ないことは自明だというしかない。もちろん太田は男たちに「元気」があった時代、困難に直面した男たちが触れ合うことなく共に戦い快楽を得るその行為の中毒性を念頭において発言したのである。戦争を知る世代の男に対する理解の水準は、敗戦後すぐに米軍向けの慰安婦施設が自発的に設置されたことからも伺い知れる。かれらは男に必要なものとは何か誰よりもよく知っていた。

一組の男が女の肉体を自慰の道具として使うこと。これが<友情>の成立する条件だ。私たちはこの止むに止まれぬ切実な必要性がいま何をもたらしているか知っている。ネットのあらゆる場所で閲覧可能な陵辱、強姦、暴行、そして全国のコンビニエンスストアのほぼすべてで販売されるファンタジーとしての性暴力表現。それはほんらい男たちが使えるはずだった避妊具としての女の代用品である。ひとつの表現された架空の女の穴のイメージ(「俺たちの嫁」)に向けて自慰をし射精する姿は、かれらが共有しているはずだった女を自由に道具として行使できる権利があらかじめ奪われている現実を示唆している。失われてしまった<友情>の契機をいまひとたび得るために、代用品としての集団的自慰行為が励行される。ディスプレイの女たちに触れることはできないが共に自慰をすることはなお可能である。膣も肛門も顔もないのっぺりとした女がそこにいる。実在しない女は強姦できない。かくして<友情>は不可能である。

(2014年1月11日 根本正午)

2014-01-11

雨過天晴またはモンスター・ジャパン

よく晴れている。晴れている日はあんまり好きではない。道を外れた人間に日の当る場所はまぶしい。あまりひとのこない路地裏のような場所が好ましい。それはこのブログの基本的なイメージでもある。表通りでは華やかなパーティが開かれているのを、路地裏に面した窓から冷たく眺めている。そういう場所も悪くないと思うのだが、清潔な社会とは汚穢をすべて隠しなかったことにしたがるものだ。口先ばかりの正義感ばかりが増幅される異常な社会(そう、ほんとうに異様だ)において、そこからはじきだされたひとびとの居場所はますますなくなっていき、その結果この国のあらゆるものが不幸になるだろう。世の中には道を外れた人生を強いられたひとだっているのだ。そういうひとびとに対する理解へのこころみや共感をなくせばそれは人間ではないモンスターである。

モンスター・ジャパン。その完成は遠くない日のように感じる。しかし日差しは暖かくベランダの居心地はいい。仕事の電話をいくつか終わらせてすでに疲れた私は椅子に座って外を眺めている。執筆のほうも行き詰まっているしブログはアクセスが少ないしでふてくされている。かつてのブログ「セックスなんてくそくらえ」と同じぐらいのアクセスの勢いはあると思うが、そういえば当時は確か累計120万PVで、思い返してみるとたいした数字ではなかった。そんな小さな数字で喜んでいた自分がかわいくてならない。「いかなる天才的な作家も、作品を一人で成立させることはできない。ブロガーはアクセスを求め、さらなる読者を求めなければならない」と2006年に書いたのは私である。過去の自分が面倒くさい。というか馬鹿じゃないのとか思う。それが人生というものだ。

そういえば「この本を買ったひとはこんな本を買っています」という情報をAmazonは提供しているが、私の本を買ったひとが西原理恵子の本を買っているらしく微笑ましかった。私は週刊朝日で連載していた「恨ミシュラン」をげらげら笑いながら読んでいたひとりでありファンである。リスクを背負ってレストランを徹底的に罵倒しコケにし笑いものにする姿勢はほとんど感動的ですらある。一方モンスターは自分が殴られないノーリスクの距離からひとに石を投げつける。もちろん人間とはそもそもそういう生き物である。いつだってひとのせいにして、いつだってひとを馬鹿にして、いつだって自分のさみしい人生をごまかそうとしたいのだ。私は「ネットが可視化したのはひとの愚かさだけ」と書いたが、可視化されたのはひとの弱くて情けなくてみっともない姿でもある。そしてそれでもいいのだ。それを自覚することが問われているのである。

私はネットになんの期待もしていない。しかし癲狂院に閉じ込められている以上、私たちは圧倒的多数の狂人に取り囲まれている。狂ったフリをしなければならない。「みんな」と同じように朝鮮人や中国人を叩かねばならない。「みんな」がそうしていればそれに抗えば殺される。しかし私はふつうに生きてふつうに生活しているひと、伴侶がいて子供がいて仕事をしてふつうにしあわせに生きたいひとに、この狂った社会とたたかえなどと言う気にはならない。それはことばの銃で武装した兵士の仕事である。このグロテスクな場でいまだに正気を保ちながらこっそり生きるひとびとを見つけるのだ。もちろん表立ってではない、ひそやかな目配せを交わすだけにするのだ。これから、さらに狂った時代がやってくる。血と硝煙の時代ではない。流された血そのものが隠され、清潔きわまりない癲狂院で「みんな」が笑顔を浮かべたぞっとするような時代である。感謝しなければならない。兵士がゆいいつ生きられる場に。私たちの故郷たる、モンスター・ジャパンに。

2014-01-10

雨上がりの午後

地平線に雲が流れている。このあたりは空港の近くで高い建造物がないため空が開けていて地平線までよく見える。空気が澄んでいる日にはなんと富士山が見えたりする。野花と猫の王国である。団地の近くにある遊歩道は両側を野草が生茂る斜面に挟まれ、頭上にはいつも雲が流れている。こうした中を散歩すると風情があると思うが地元の人間はそんなことを思っておらずはやく高速道路ができて地元復興が進んでほしいなどと思っていたりする。要するに「美しい田舎」をほめるのはだいたい都市から来た人間だということだ。これは日本にきて日本賛美をする西洋人にも同じことが言える。自分が理解できる範疇にとどまってくれる「貧しいけれど美しい日本」がかれらの自尊心にとってなによりも大切なのである。かれらの「文明」が脅かされる力を持った黄色い猿ではなく、あくまで自然を愛する野蛮な土人として生活してほしいということだ。そしてこうした考え方を私たちもまた韓国や中国やアジア各国に押し付けていたことを記憶している(「貧しいけど豊かなアジア」云々)。ネットが広まったおかげか、最近はどこの国でも人間のレベルというのはあまり変わらないものだということがよくわかるようになった。憂鬱な時代だ。

それはともあれ、私はもともとはこのあたりで生まれた人間なので、ひとなみには房総の自然が好きである。夏は暑く冬は寒い。だいたいこのあたりの家は雪国と違って防寒対策をほとんどしていない家屋も多いため、冬はとてつもなく寒い。横になっていると畳の隙間から冷たい風が吹き上がってくる。灯油ストーブの換気など必要ない。なにしろ二十四時間外気が入り込んでくる。ガラスは薄く板を立ててあるのとたいして変わらない。コンクリートも薄く、外気に冷やされた壁の表面に空気中の水分が結露し、朝になると水たまりが床にできてそれが凍っている。嘘みたいな話である。雪国は最初から対策をしているのでむしろあたたかいのだ。そういえば以前滞在した韓国では窓はすべて二重だった。窓と窓の間にスペースがあり、そこがベランダなのだ。一度真冬の最中に窓を開けたら白銀の暴風が吹きこんできて部屋が真っ白になった。あれ以来冬の韓国には二度と足を運ばないとこころに誓った。南国育ちなので冬には弱い。一年前に雪で滑って転んだときに打った左肩がいまだに痛かったりする。石原莞爾は若い頃落馬し股間を怪我したがそれが慢性化し生涯苦しんだという。小さな怪我が命取りだったりするのだ。

地元のスーパーにくるのはお年寄りがほとんどだ。たまに若い女性もくるのだが不思議なことに必ずヒョウ柄のなにかを着用している。地元のルールでもあるのだろうか? あるのだろうと思う。なければ必ず見かけることの説明がつかない。今日行った買い物ではヒョウ柄のバッグを持った金髪の女が鼻歌を歌いながらコーラを買っていた。もっとも何を着用しようと大きなお世話ではある。私は私で熊みたいな無職の男と思われていることだろう。下手したら女子学生に変質者として通報ぐらいされるかもしれない。通報されると面倒くさいし取調室には足を運びたくないし警察の皆様とはお会いしたくないしでいいことは何もないので最近はますますヒキコモリがちである。ただこのあたりの警察は署内で制服を着ている連中はどうしようもないが現場の警察官はずいぶんマシでまともな人間だ。制服を着た連中というのはどういう連中かというと一日椅子に座ってふんぞりかえって現場の報告を聞くだけの管理職のことである。女子供が相談にいくと大声を出して罵倒して追い返すような連中であることはよく知っている。解決できそうもない相談を受け付けてしまうと「検挙率が下がる」からだ。ただ現場の警察官は地元で何が起こっているのかよく知っていてわりと親切に教えてくれる。現場とマネージメントの乖離はどこでも見かけるが、最近よく起こるストーカー殺人的なものも、担当者が違えば全然話が変わってきただろうにと思う。

この町にもむかしは林しかなかったそうだ。国際空港の建築と共に山を崩し、竹やぶを平地にし、農家が開拓した土地を買収していまのニュータウンが建築されている。私の住む家の近くには大和朝廷に滅ぼされた蝦夷の奴隷を集めたという慰霊碑があり、歩いて五分の場所には前方後円墳があったりする。笑ってしまうような人外の土地である。ただ結構気に入っている。この町が開発され栄えていくのを見たいような気もするが、今のようにあちこちに田園があり、林があり、空き地があり、そこに青や赤や金色の蝶やトンボが飛び回る光景がなくなってしまうのは寂しいと思う。ただそれは私のような在日日本人には関係のないことであってかれらの選択することだ。部外者がとやかく言うことではない。ひとは税金を払っているから、国籍をもっているからその国の人間であるわけではないからだ。どこを故郷と思うか、どこの人間として生きるか、そういう所属は後天的に自ら選ばれるものであって、誰もがそう思っているように先天的なものではない。選ぶという主体的な行為があってはじめて故郷が見出されるのだ。そう思いながらベランダで煙草を吸っている。いつもの風景である。風が冷たくなってきたのでジャンパーを羽織る。虎や龍が刺繍されている地元で大人気のジャンパーは1,000円で売っていた。いつかああいうものを着てみたいと思う。きっとまったく似合わないだろう。和服を着る外国人のように。

2014-01-09

私信的なもの(2)



相変わらず耳に痛いことが書かれている。相変わらず気づきたくないことが書かれている。相変わらず何もかもが嫌になってベランダで煙草を吸いました。

冬の驟雨

季節外れのあたたかい雨が降っている。いつでも雨が降っているような気がした。一仕事終えてベランダで煙草を吸っている。私は一日の一割の時間をこのベランダで過ごしている。アジアの団地と違ってきわめて清潔なこの団地では、暴力とも、悲鳴とも、犯罪とも無縁だ。誰もかれもがおとなしく飼い犬のような顔をしている。先日も初詣に出かけたが機動隊が百人ほど集まって交通誘導をしていた。ご苦労なことである。市民を園児か何かだと思っているのだろう。

なぜかいつもベランダのある家に住んでいる。最初の妻と生活していた時はベランダのある一軒家に住んでいた。すぐ裏手に公園と林があって、自然の多い郊外だったが、夜になると自分の心臓の音が聞こえるほど静かだった。私たちの周りの家の住人はみな老人ばかりで、子どもがいる夫婦はほとんどいなかった。ある日、そのベランダに蜂の巣が作られた。アシナガバチだ。まだ小さい蜂の巣をたたき落とし、中にいた蜂の子をすべて殺した。季節は秋で、雨が降っていた。

熱帯の島国にいた頃は確か18階に住んでいて、いつも海がみえた。暴力は比較的身近なところにあった。それは注意深く隠されているだけで、フィリピン人のメイドがアイロンで雇用主に顔を焼かれたり、ジャングルでは強盗殺人があって死体が焼かれたりとニュースには事欠かなかった。いつだったか、マンションの近くで女を殴りつける男の姿を目撃したことがあった。女は悲鳴をあげていて血が道路にたまっていた。家族が通報し警察官が大量に集まってきて女の姿は見えなくなった。そのたまった血のことをおぼえている。その後激しいスコールが降ってきて血は洗い流された。

ラブホテルの窓は常に閉じられていた。カーテンを開くとそこには板が打ち付けられた壁があった。閉じ込められた水槽のような部屋の中で虫のような性交を終えると、そそくさとガラス張りの風呂場でシャワーを浴びた。女たちには様々な物語があったがそのほとんどは忘れてしまった。父親を無くして年老いた母親と二人暮らしの女がいた。母親に優しい女は好きではなかった。家庭的な雰囲気の女も苦手だった。行為の最中に母親にメールをするような売春婦のほうがまだずっとマシと思えた。ラブホテルでは雨の音がほとんど聞こえない。そこには窓がないからだ。

ベランダから見える街は暗い。この時間帯車はほとんど走っていない。雨水はぬるい。遠くの街灯が雨に霞んでみえる。家庭裁判所でも取調室でも雨が降っていたような気がする。人生の節目節目になぜかうっとうしい雨が降っていた。ひとに暴力をふるってきたむくいを様々な形でうけている。自分の脇を通りすぎていった誰かの暴力は、結局自分がその後ふるうことになった怒りと暴力を予言していたように感じられた。意思や努力で人間になろうとした。しかしできずに後悔をしていた。いつまでも後悔をしていた。団地の入り口に、ペンギンの親子の絵が描かれている。雨に濡れたペンギンは手をつないでいる。それは幸せな光景に見えた。

2014-01-08

ネットの新しい作法

何からはじめればよいのか困っている。何から伝えればいいのか悩んでいる。しかしはっきりしていることがある。しかし言わなければならないことがある。居場所がないからネットをしている。鬱憤がたまっているからネットをしている。嫉妬で狂いそうになりながらネットをしている。自分がかわいそうで仕方がないからネットをしている。やめなければならない。沈黙しなければならない。通り過ぎなければならない。ネットを。

左を見ても右を見ても差別主義者と中傷ばかり。Twitterを見ればFacebookを見れば偉そうなひとびとのスーツを着た写真ばかり。テレビをつければヒョーロン家がえらそうな顔をして説教しているばかり。「意識の高い」ひとびとばかりが表に出てきてその裏にいるふつうのひとは無視される。忘れられる。存在しないように扱われる。透明であることを強いられる。もうどうしようもなくうんざりだ。ネットもこの社会も。

自分たちが虐げられているのに誰も何もしてくれない。ネットにいればそう感じる。ネットにいればそう腹がたつ。もうやめたらどうか。こんなネットからは離れたらどうか。逃げるのだ。こんな異常でグロテスクで気持ちがわるいネットからは逃げ出すのだ。こんなところにまともなこころの持ち主がいられるはずもない。右を見ても左をみても弱者叩きばかり。左を見ても右を見てもいがみあいばかり。もうどうしようもないではないか。

今日あったことを書いたら叩かれる。今日したことを書いたら不謹慎だと怒られる。今日ひとと会ったことを書いたら妬まれる。何がおもしろいのか。叩くのがおもしろいからである。いじめるのが楽しいからである。暴力はエンターテイメントだからである。自分が苦しいから、ひとをいじめるのが快楽なのだ。そんな人間の仲間入りをするな。そんな人間たちと同じ顔をするな。ネットから離れるのだ。この暴力の空気から逃れるのだ。

ああ、わかる。私は小さくしょうもない人間だからわかる。えらそうな顔がしたいのだ。うらやましいのだ。うまくやっている連中の真似がしたいのだ。うまいものを食って、えらそうな講釈を垂れて、金持ちどもと一緒に写真を撮って、自分がえらい、自分は格好いい、自分は頭がいい、自分はしあわせだと全世界に自慢したいのだ。わかる。超わかる。わかりすぎるほどわかる。私もそう思う。私もそう考える。私も自慢したい。私がどれぐらい格好よくて頭がよくてお金があって「意識が高い」か自慢したい。超したい。

だがダメだ。ああいう連中のまねをするな。ああいう連中と同じになるな。したいけど我慢するのだ。何もかも我慢しているのにネットでぐらいでかい顔がしたい、そう思うところをぐっと堪えるのだ。ぐっと我慢して友達を探すのだ。仲間を探すのだ。女(男)を探すのだ。トモダチを欲しいと言うのだ。恋人が欲しいと口にするのだ。ネットではない。このくだらないネットではない。現実で、そう口に出すのだ。現実で、そう言うのだ。願うのだ。自分の居場所をさがすしかないのだ。ネットではなくその外で探すしかないのだ。

ふつうのひとがふつうに生活したいだけなのに。ふつうに努力してふつうに生きてふつうに結婚したいだけなのに。ネットがすべての邪魔をする。スーツを着た偉そうな連中が嫉妬心を煽る。意識の高いひとびとがドヤ顔で夢を自慢する。ヒョーロン家が今日も自分が世界でいちばん頭がいいだろという顔をして威張っている。うんざりだろうか? うんざりである。いますぐネットをやめるのだ。やめられないなら通りすぎるのだ。もうそれしかないのだ。社会がキチガイならばそこから身を守る方法は沈黙しかないのだ。

ネットが狂っていれば自分だっておかしくなる。誰もがひとの悪口を言っていれば自分だってそう言いたくなる。「みんなやってるから」と言いたくなる。やめるのだ。ひとにふるった暴力はかならず自分に返ってくる。それは自分がおぼえているからなのだ。自分がひとにしたことを悪いと思った瞬間、それは強烈なとりかえしのつかない後悔となって自分の身に降りかかってくるのだ。そう気がついてからではすべてが遅いのだ。いまいい気になって粘着して叩いてひとの悪口を書いている自分は、将来の自分に復讐されるのだ。だがまわりが狂っていればそんなこともわからなくなるのだ。

みんな狂っている。「空気」が狂っている。みなが頭がおかしくなっているときに正しいことを言ってはいけない。みなが狂っているときにまともな人間になってはいけない。真正面からマジョリティ(多数派)を批判すればあなたは傷つき孤立しひとりぼっちになって自殺するしかなくなるのだ。誰もたすけてくれない。誰も手伝ってくれない。それはみんな自分も仲間はずれになるのが怖いからだ。それは仕方のないことなのだ。かれらを責めてはいけない、自分だって生きるのに必死だからだ。だから沈黙するのだ、狂った時代には沈黙するしかないのだ。少なくともネットでそれをやろうなどとは思ってはいけない。

沈黙しよう。ほんとうの気持ちを隠そう。狂人から身をまもるために本音を隠そう。黙って何も考えていないフリをしよう。馬鹿のように生きよう。ふつうの幸せをめざそう。それから間違っても私のブログを読んでいるなどと公言してはいけない。無視され、仲間はずれにされ、疎まれるだけである。こっそり読むのがよろしい。TwitterでRTしてはいけない。2ちゃんねるでスレに貼って賛同者を集めようとしてはいけない。ブログで「私もそう思う」などと書いてはいけない。空気に逆らえば殺されるのだ。空気を読むのだ。空気はこの国の最高権力者なのだ。空気に逆らえば、自殺させられるのだ。

くるしいだろうか。かなしいだろうか。居場所がなくてつらいだろうか。恋人がいなくてさみしいだろうか。夫(妻)が理解してくれなくてひとりで泣いているのだろうか。わかる。その気持ちがわかる。だがわかってくれるひとをネットで求めるな。ネットにはひとの不幸をおもしろがる連中がいるだけである。生身の人間をもとめるのだ。生身のあたたかい触れられる他者をもとめるのだ。「便利」で「簡単」だからといってネットでトモダチを探すことをやめるのだ。ひとりぼっちになるだけである。さらにひとりぼっちになるだけなのだ。もっともっと孤独でどうしようもない生活が待っているだけなのだ。

沈黙するしかない。黙りこくるしかない。喋れば殺される。そういう時代になりつつあるのだ。そしてそれは誰にも止められない。あなたには止められない。私にも止められない。もちろん政治家にも止められない。ヒョーロン家にも止められない。意識の高いひとびとにも止められない。ふつうに生きてふつうに結婚してふつうに生活したいだけのふつうの希望はますます貴重なものになっていく。つらい、かなしい、どこにも居場所がない。わかっている。わかっている。排除されのけ者扱いされ存在しないと思われているあなたたちと同じ場所にこの私も立っている。

ネットでわかって、ネットで理解して、ネットでトモダチをつくる。無理なのだ。不可能なのだ。もうそんな幸福な時代は終わったのだ。だから沈黙しなければならない。だまってこの狂った時代をやり過ごさねばならない。いつだって自分より低い弱者を探している連中の仲間入りだけはやめなければならない。やめるのだ。いまやめるのだ。今日からやめるのだ。このブログを読むのもやめるのだ。何しろキチガイが書いているブログなのだ。ブログぐらいしか書く場所がない負け犬なのだ。ルーザーなのだ。川に落ちた犬なのだ。ぶうぶう鳴くしか能がない豚なのだ。

あなたはなぜここにいるのか。読みたいのか。そんなに読みたいのか。沈黙できるのか。沈黙できるなら読むのだ。ただし賛同するな。意見を言うな。黙って読むのだ。けしてひとにこのブログを読んでいるなどと言ってはダメだ。勧めてもだめだ。仲間はずれになりたくなければ黙っているのだ。空気に逆らうな。社会から外れた人間をほめるな。社会から外れた人間には眉をひそめて通りすぎればいいのだ。私にもし言いたいことがあるなら手紙でも書くのだ。返事は私の名にかけて必ず書くそれは私とあなたとの約束である。いいか、黙っているのだ、沈黙するのだ、黙って読むだけでいいのだ、それ以上のことはしてはならない、狂ったネットから自分の身を守る事を最優先にするのだ……。

2014-01-07

雑感

長いものを書いていたのだが全部捨てて、ふてくされてベランダで煙草を吸っている。つまらないものはつまらないという圧倒的な事実の前に書き手の努力などなんの意味もないのだった。そういえば某氏が言っていたのだが小説を書くときには必ず上書き保存でコピーや異稿は一切残さないらしい。わかると言ったら失礼なので言わないが気持ちがわかるような気がする。ようするに「もったいない」をいかに排除するかどうかが問われているのだ。途中までできあがった器をたたき割ってゴミ箱に入れる勇気が必要になる。と口で言うのは簡単である。なんだって口で言うのはいつだって簡単なのだ。

東欧製らしいクリスタルの灰皿が煙草で一杯になっている。正月の間ずっと机に向かっていたので背中が痛い。少しずつ肉体の老化が進んでいて、体力が少しずつ落ち筋力が落ちてきている。この前も家内を抱えて運ぼうとしたらぎっくり腰になりそうになった。私の祖父が言っていたが人間の体は交換不可能なパーツで構成された機械と一緒だから、大事に無理をしないように使っていかなければならないのだ。本の詰まったダンボールを持ち上げようとして背骨を折って死んだ人間のニュースを読んだがあれは他人ごとではなく慄然とする。

もっとも、荷物の持ち方にはコツがある。いきなり持ち上げると間違いなく筋や筋肉を痛めるので準備として体をほぐしておかねばならない。するとわりとスムーズに持ち上げることができる。毎日そういう努力をするのは大変だが一時間くらい前からウォームアップし、その際指や腕を保護する手袋や長袖等の準備もしておくだけでもかなり効果がある。大きな仕事の前には普段から備えておくことも大切だが、突然やってきた仕事についてもある程度の予備期間があれば一時的に限界を越えた能力を発揮させることができる。もっともその際にも肉体的精神的なダメージは避けられないが。

この冬は新作を仕上げる予定でいるのだがいただいたメールやコメントを見ながらいろいろ考えている。私の書いたものを読むような読者は基本的にそれを口外しない。後になって「実は読んでました」等カミングアウトしてきたりする。もっとはやくいいなさいと言いたくなる。もっともこっそり読むようなものばかり書いているので文句は言えない。私からみると読者というのはいつも見えないどこかとても遠い場所にいて私の声が届いているのかどうかまったくわからない。海にボトルメールを詰めて流すような作業だ。つまらない小さな人間にどんな大きなものが書けるのか、そういうことを自問する日々である。

むかしの読者はみな元気にしているだろうか。少しずつ年を取り、中間管理職ぐらいにはなっているかもしれない。あるいは定職につかずにふらふらしているかもしれない。または大学に残って指導教授に頭をさげながらポストを探しているのかもしれない。それぞれの個別の人生があり、それぞれの困難があり、それぞれの課題があり、それに取り組む自分がいる。この日本社会にいろいろ言いたいことはあるが、その中にいる私たちにとっては、それぞれが孤独なたたかいを続けているのだということだけは共通している。どこか安全な場所から沈む日本に対して石ころを投げるような人間にはなりたくないものだ。それは結局形を変えた子供の自己嫌悪にすぎないからである。

2014-01-06

寄る年波

キーボードの打ちすぎで背中に激痛。

日本語の不自由な日本人

日本人なのに日本語ができない。日本で生まれたのに日本語がわからない。日本人同士なのに会話が通じない。なんと驚くべきことに外人のほうがマシな日本語を話している。もうやめようではないか。話せばわかると思うことをやめようではないか。無理なのだ。わからないのだ。どうしようもないのだ。不自由な日本語では何も伝えられないのだ。そこからはじめるしかないのだ。

正月も終わり仕事に入っている。貧乏人なので一日机に向かっている。キチガイなのでこの世のどこにも居場所がない。ひとの悪口を書いてカネ儲けをしている。ひとを騙して裏切ってさらにカネを稼いでいる。そして借りたカネは一銭も返さない。人間の屑なのに人間のような顔をして社会の中で生きている。息子とはもう二年ぐらい会っていない。もちろん今後も会う予定などないのである。

なぜひとはひとを外見で判断するのか。キチガイなのにスーツを着ていれば安心だ。キチガイなのにネクタイを締めるとお金がもらえるような気さえする。不思議な世界であり不思議な国である。どうなっているのか。ひとはひとを何で判断するのか。容姿か。学歴か。収入か。スーツの値札か。インテリのふりの上手さか。ブログのリゾート写真か。アクセスの多さか。ネットでひとを騙すことは容易である。現実ですらそうなのだから。

私は正直に書こうと思う。私は何も知らないのである。なんのために本を読んだか。なんのために外国語を学んだか。少しはマシな人間になれたのか。なれなかった。まったくなれなかった。むしろ前よりも愚かになっていた。前よりも女のことがわからなくなった。女はいつでも謎でいくら愛しても何もわからなかった。いくら騙されてもそれでもわからなかった。

女が大好きだった。女が生きがいだった。何度も何度も浮気をして、愛した女には裏切られ、メールをさらされ、通報され、告訴され、ハメ撮り写真を見せつけられ、財産を全部持っていかれ、子供を奪われ、それでも懲りずに女が好きだった。女がいなければこの世は闇である。女がいなければこの世は無意味である。それだけは正しい理解だった。すべての知識は女だけがこの世に必要なものだという真実に至る道だったのである。

女は嘘つきであり嘘をつく女はうつくしい。いますぐ自慰をやめて現実の女を見なければならない。いつまでもディスプレイの前で女が(笑)のついた表情で股を開く写真を見ながら自慰をすることだけはやめなければならない。現実の、あさましい、嘘つきで、傲慢で、被害者意識ばかりが強くて、ひとりぼっちでくるしんでかなしんでいる、あいくるしい女たちのいとおしい姿を見るのだ。それだけがゆいいつ追い求めるべきものなのだ。ディスプレイをたたき壊して外に出るのだ。

あなたはなぜこのブログを読むのか。ネットには花はない。あるのは花を咲かせる堆肥だけである。なぜネットはキチガイを排除しようとするのか。なぜキチガイに優しくしないのか? やめなければならない。キチガイを病院にぶちこみ「なかったこと」にする清潔な社会の異常さに光を当てなければならない。その非人間的な同調圧力に抗うのだ。人間らしさを取り戻すのだ。どれほどきつくつらい道でも、人間にならねば日本人たる私たちは真に生きることなどできないのだ。それは誰にでもできる。いまディスプレイの前にいるあなたにもできる。歯を食いしばれ、そして見よ、考えよ、生きよ!

2014-01-05

まとめサイトに私たちのこころはまとめられない

誰もかれもがまとめている。頼んでもいないのにどんどんまとめる。ブログでまとめる。Wikipediaでまとめる。Togetterでまとめる。毎日のようにまとめる。なぜかれらはまとめるのか。なぜかれらはまとめることをやめられないのか。答は誰でも知っている。しかしさしあたっては、かれらを批判するよりも大切なことがある。それは、まとめられないものについて語ることだ。

たとえば妻の浮気が今日もまとめられている。驚くような内容ばかりだ。妻と間男がホテルから出てきた。携帯をチェックしたら浮気相手とのハメ撮り画像が出てきた。云々。これらはどうでもいい他人の不幸なのだがなぜかそれらがまとめられてしまう。そしてここには妻のこころが欠けている。妻はなぜ浮気に至ったのか、その動機は一行も書かれない。

浮気した妻ばかりが責められ男が被害者ぶって苦しんでいる。どこかで見たような「トラウマ」や「傷」が男のよく滑る舌と口によって語られる。そこには少しの反省もない。自分だけが被害者であって、子供の親権がどうのこうのという内容を、2ちゃんねるのスレ住民に相談する。住民は親切に教えてくれる。みな正義感にあふれているからである。いいひとのフリがなによりも大切な偽善的な国民性が匿名の場でさえ強力に機能している。

そして妻のこころは忘れ去られる。妻はなぜ浮気するか。満たされていないからである。妻はなぜ間男と性交するか。普段満足していないからである。妻はなぜ孤独か。夫が妻を孤独にしているから以外の理由がどこにあるのか。そもそも妻は夫を愛していないのか。夫を愛していながら浮気することはまったく矛盾しない。そうでないと考える「清潔」な人間理解がネットのすべてを覆っている。これはきわめて異常なことだ。

浮気した芸能人の私生活をおもしろおかしく紹介する週刊誌とまとめサイトは極めてよく似ている。というより後者が前者の技術を盗んだのだ。そしてネットに自分の身に起こった「事実」を書き連ねるひとびとはすでにまとめられることを前提にしてそれを書く。そこにはもう作為しかなくそれを読んだところで何一つ得るものがないことは自明だった。得るものはないが時間は失う。そうまとめサイトは時間つぶしの道具なのだ。

まとめられないものの側に立たねばならない。つねに隠されるものの側に立たねばならない。妻はなぜ孤独かもう一度問わなければならない。女がなぜひとりで苦しまなければならなかったのかそれを問わねばならない。浮気をした女を責めてはならない。それを強いた人間や環境があることをきれいに忘れて清潔な物語に安住してはならないのだ。被害者は常に加害者でもありその構造を忘れてしまえば私たちは人間ではなくなってしまう。それはただのモンスターである。

まとめるのをやめるのだ。まとめて理解するのをやめるのだ。そもそも理解などできないのだ。あきらめるのだ。簡単な理解や一方的な加害者などは存在しないのだ。現実はおそろしくグロテスクで歪んでいて一歩足を踏み入れれば自分がどこにいるかすらわからなくなるのだ。どれが正しくてどれが間違っているかさえわからない海の中で羅針盤もなくさまよっているのだ。男女関係においては傷ついた自分だけが苦しいのではない。相手もまた苦しんでいるのである。

今日もまとめている。明日もまとめている。明後日もまとめている。眼をそらしている。お金がほしくてまとめている。みんなからほめてもらいたくてまとめている。自己満足のためにまとめている。妻のことを忘れたくてまとめている。浮気した相手の写真を見ながらまとめている。妻がいない部屋でひとりでまとめている。自分は悪くないと思いながらまとめている。妻だけが悪いのだと思いながらまとめている。まとめるな。理解していないものをわかった気になるな。わからないと言うのだ。なぜこうなったのか全然わからないと口にするのだ。そして苦しいというのだ。くるしくてつらくてかなしいと口にせよ! 

誰もかれもがまとめている。あなたたちの人生をまとめる動きに抵抗せよ。わかったような口をききそれを短く140文字以内でまとめようとするネットの動きから抜け出るのだ。わかってはいけない。わからないのだ。わからないことばかりなのだ。学歴も所得もスーツの値段もほんとうは関係ないのだ。それは単に記号にすぎないのだ。ひとたび服を脱げば、剥き出しの裸の人間がそこにいるだけなのだ。あやまちを犯した人間をゆるすのだ、ゆるせなければ理解しようとするのだ。まとめられないものを見るのだ。そしてもしできるのであれば、ネットから離れた場所で、一緒に泣いてあげなさい。

2014-01-04

私信的なもの

先日、地元の中古ショップで通信機器を見つけて、相場より安かったので買ってきたのですね。家に帰ってきて、ファームウェアのアップデートをしようとしたら、エラーが出てうまくいかない。色々調べてみたんですが、最終的にはその理由がわかりました。要するに箱の中身が別の製品だったんですね。製品の裏側に小さく型番が書いてある。それが千番単位で古いものだった。つまり二年ぐらい前の製品を新しい製品の箱に入れた上で、それを隠して販売していたわけです。

最初は買い取った店側が騙されたのかなと思ったんですが、たぶん違うんですよね。店側は騙されたことを把握した上で、新しい客(私)が騙されて買うことを見越してわざわざ値段を安くして売っていたわけです。どうせわからないだろうと思っている。わざわざ型番をしらべてチェックするような客はいないと思っている。完全に馬鹿にしてるわけです。これ何かに似てると思ったんですが要するに最近起きたデパートなどの食品偽装もまったく同じ構造ですね。パッケージ(ブランド)でごまかして、中身は粗悪品を売りつける。

こうしたことはアジアではよくあることですが、日本でこんなことがあるとはと思って、私は正直かなりショックを受けました。一日ぐらい落ち込んだ。この国にあると思っていた職業倫理が文字通り失われつつあること。そしてそれはこの店だけの話じゃなくて、読者を完全にナメて馬鹿にしてる週刊誌や、視聴者をまったく侮蔑して「わかりやすい」番組をつくりつづけるメディアも同じなんですよね。それを具体的に目の当たりにしてショックが大きかった。

最近ちらほらブログは死んでないなどと希望的観測を述べるひとたちがいるのを横目にして、頑張っているなあと思うのですが、別に場が滅んだって書くことはいくらでもあるというか、たとえばこの国が滅んでも個人は生きていかざるを得ないのだから、もういいんじゃないか、と思うんですよね。場を作ったりしないほうがいい。大文字の「連帯」は忘れたほうがいい。なぜなら究極的にはひとりでやっていくしかないわけですから。そしてそういう仕事が結局残っていくと思う。実際いま私たちのことばは、そうした個別の仕事の蓄積によって作られている。

最後に時事ネタで紅白歌合戦の話を。美輪明宏の「ふるさとの空の下に」がよかった。あと泉谷しげるもよかった。会社に居づらくなったかつてのエリート社員みたいな顔をした大島優子もちょっとよかった。結局私たちには希望が必要なのかもしれないと思いました。そしてそれはどこにも見つからないので、自分でつくるしかない、またはそれを語るひとを応援するしかないと思いました。私はいまブログを書く愚か者を応援します。誰のためでもなく、自分のためだけに文章を書くと信じる誠実なひとを応援します。今年も頑張りましょう。塩と砂糖を間違えても。

料理の死角

塩と砂糖を間違えた。

2014-01-03

ネトウヨは景気が回復すれば消滅しますか?

景気が回復しても、この失われた20年間で奪われた青春は帰ってきません。色々難しく考えすぎなのです。物事はもっとシンプルに考えるべきなのです。あなたのまわりを見て欲しい。ひとを傷つけるような言動をするひとはいったいどんなひとか。悪意というものは、別の意図的な悪意、あるいは非意図的な悪意によってしか作られないのです。ひとというのは、ひとにやられたことしか他者にできないのです。

奪われたひとの怒り、かなしみ、つらさは、憎悪となって外に放出されていきます。貧乏による家庭内不和があれば家族の怒りはたいてい弱い子どもに向き、日本全体が貧しくなった結果のひとつがこのネットの現状でもあります。そして二面性の強い偽善的な国民的気質もまた、その憎悪の増幅に一役買っています。それはたとえば「マスコミは嘘つきだ」という意見となってネットで増幅されています。しかし嘘つきなのはマスコミではなくこの社会そのものなのです。

だからそのやり場のない怒りはこれからも社会にぶつけられ続けます。ネットは便利で反撃もされにくいので傷ついた弱いひとたちには最適なはけ口です。ここでいう弱いひとには一定以上の知識があるのに組織で認められなかったり配偶者にあまり愛されていなかったりして鬱憤が溜まっていてコンプレックスからも脱却できない中高年も含まれるでしょう。かれらのようなひとが「どこにも居場所がない」と検索して私のブログを読んだり、私に題名のような質問をメールで送ってきたりするのです。

自分を呪っている間、憎しみは消えることがありません。たとえ景気が回復して、これから世にでる若者たちが幸せになったとしたら、かれらはそれを妬み、嫉み、そのやり場のない怒りをさらに弱いものに向け続けるでしょう。具体的には老人、女性、子供、そしてマイノリティである外国人に向かっていくでしょう。現在すでにそうなっています。終わりのない悪循環であり一種の生き地獄です。私たちはこうした膨張した憎しみと向きあっていく、あるいは同じマンションでかれらと同居しなければいけません。

もっと、シンプルに考えるべきです。不遇な環境が、ひとを怪物にするのです。想像力のない、ひとのこころの痛みがわからないモンスターにするのです。もちろん金をうなるほどもっていてもひとは怪物になりえます。それはバブル時代(あるいは大日本帝国時代)の日本のことを知っているひとにはあまりにも自明のことではないでしょうか。しかし、いま私たちが直面しているのは、端的にいって<傷ついたひとびと>の絶望に満ちた怒りなのです。それを嘲笑ってはならない。シンプルに、人間らしく考えなければいけません。

モンスター化しつつある人間にはふたつの対処法があります。ひとつはさらなる暴力によってかれを無力化すること。それには権力や立法による暴力も含まれるでしょう。しかし私はひとりの人間として、傷ついた個人に対する対処を暴力によるものにしたくない。傷ついたひとがなによりも必要としているのは、その傷の在処を理解してもらうことです。もちろん他者にそれを理解することなどできませんが、それを試みてくれるひとがいるということ、その事実を知ることがひとの<こころ>を助けるのです。それがもうひとつの対処法です。

もちろん、私はそれがいかに困難なことか、たったひとりの人間に対してすら、いかに難しいことかよく知っています。そしてこの疲弊した後進国において、自分ではどうにもならない外的要因によって落ちこぼれ、排除され、馬鹿にされ、ネットで「どこにも居場所がない」と検索するほかないひとたちが、たとえば100万人単位で存在していたとして、かれらに対してほとんど有効な解などないだろうこともわかります。しかし、理解しようとすることはできる。私たちは、そうしたことからはじめなければならないのではないでしょうか。悪意の連鎖を止めねばなりません。

この悪循環を断ち切る一歩には、傷ついたひとを理解する試みが必要となります。ネットで毎日叩かれている負け犬、不幸なひと、社会からはみ出したひと、挫折したひと、頭がおかしいと思われているひと、こういうひとたちを理解しようと試みることが必要です。もし自分の生活があまりに苦しくて、どうしても石を投げつけたければ、目を閉じて見ないふりをする優しさが必要ではないですか。そして自分に問うのです。このひとが、自分になにか悪いことをしただろうか、と。

私がこういうことを書かなければならなくなったのは、私のブログに検索でやってくるひとびとのキーワードがあまりにも悲惨だからです。それも結構な数のひとがいる。なぜ、たとえばTwitterでそのような自分の悩みを語れないのでしょう? なぜFacebookで、友達にそういう話ができないのでしょう? 答は簡単でその不幸をすぐにおもしろがって晒し上げるひとたちがいるからです。こういうシステムに頼ることをやめなければならない。ほんとうに、ブログなど読まずにネットから離れろといいたいぐらいです。

傷ついているなら、傷ついたと言えばいい。問題は自分が傷ついていることすら知らないひとたちがいるということです。まず自覚してほしい。自分の悪意が何によってもたらされたのか。どうすればその苦しみが癒されるのか。あなたの問題を誰かの悪意にすり替えてはならない。悪意の根本を殺さねば自分の人生を生きることなどできないのです。スーツを着た偉いひとびとが言っていることは忘れてください。「意識の高い」かっこいいひとびとが言っていることも忘れてください。ネットにはあなたの傷を癒してくれるものは何もありません。ネットにはあなたを助けてくれるものは何もありません。ネットにはあなたを救ってくれるものは何一つありません。

矛盾しています。そう語る私はまたネットによって救われたのでした。いや厳密にいうと書くことを通して自分が生きる意味を見出したのです。それはネットがなければ成し得なかった。あなたもそんなにネットが好きなのですか。ネットを愛しているのですか。ネットがなければ生きていけないのですか。それでは私のブログを読みなさい。誰もが黙っていること誰もが知っていながらおためごかしでごまかしていることを私は書きましょう。そのためにすべての社会的地位を捨て金銭をドブに捨てる覚悟で書きましょう。私は過去現在未来の読者のための奴隷でありあなたたちのどこにも居場所がないすべてのかなしみといかりを代弁して書きましょう。私が何者か、私が誰か。料理と性交だけが趣味の偉そうな1975年生まれ、バブルで誇りを失ったすべての負け犬たる日本のロスト・ジェネレーションの代弁者、さようなら、さようなら!

2014-01-02

主夫的生活

まるで日本人のような顔をして正月用の雑煮を作っていた。自分でもよく忘れるが私は日本生まれで江戸幕府ができる前から関東に住んでいる一族の人間だ。もちろんすべての親族に蛇蝎のごとく忌み嫌われている(「この人間の屑が!」)ので、正月に出すような顔はないのだが、季節物を料理するのは結構好きだ。クリスマスにはケーキも焼く。

今年は韓国の港町で買った煮干と昆布が大量に余っているのでそれを使うことにした。煮干の頭とワタを取るかどうかで以前京都の元編集者――「マージナル・ソルジャー」を手伝ってくれたM氏――と論争になったことがあった。氏いわく「ワタや頭を取るなんて上品だし軟弱な感じ」だそうである。大きなお世話だ。

しかしいろいろ試したところ、頭は入れたほうが独特の風味が出て美味いように感じる。ただワタはどうしても雑味が出てしまって、結局頭だけは使ってワタは取るという方法になった。かくして京都と関東人の間の不毛な論争には妥協点が見出されたのだ。人生たまには妥協も必要である。

アジアではごく普通のことだが、食材というものはそのまま食べられる形では売っていない。まとめ買いした煮干には全然違う魚が混じっていたりするし、海藻の切れ端などが混入している。料理の前にベランダに新聞紙をしき、煮干をばらして選り分ける作業からはじめなければならない。日向でこれをぷちぷちやるのは結構楽しいものである。

そういえば先日買った料理用温度計もようやく使い始めた。私の亡くなった祖母がむかしよく日本茶を淹れてくれて、それが好きだったのだが、先日同じお茶を地元の同じ店で買ってきた。地方でほとんどの店が潰れていたがその店はまだあったのだ。しかし家に帰ってきて淹れてみたのだが、なぜか同じ味にならない。何回淹れてもダメである。それがお湯の温度だということに気がついたのは五回ぐらい失敗してからのことだ。

沸騰したお湯を使えばいい珈琲や紅茶とは違って、祖母のお茶の場合はだいたい85度が適正温度だった。そしてこれは祖母が愛用していた電気ポッドのお湯の温度だったのだろうと思う。改めてこの温度でやってみると、お湯を注いだ瞬間その表面にクリームのような泡ができた。これが信じられないぐらいうまかった。一番安い、貧乏人が飲むお茶である。涙が出そうになった。

2014-01-01

自慰の帝国

今日も自慰ばかりしている。ディスプレイの前で自慰をしている。スマートフォンを片手に自慰をしている。天皇陛下万歳といいながら自慰をしている。日本の技術は世界一で自慰をしている。Twitterで自慰をしている。まとめサイトで自慰をしている。靖国参拝で自慰をしたついでに安倍晋三で自慰をしている。この国の何もかもが自慰をめぐっている。そこにはひとりぼっちの自分しかいない。

夜のベランダから見える地平線は明るい。その方角には様々な外国人から便利で近いねと揶揄される国際空港があり、その上に星がいくつか光っている。この地方では星がどこからでもよく見える。週末になると、宿題から解放された若者が群れてバイクを走らせている。かれらはみな行儀よく信号を守る。そしてヘルメットをきちんとかぶってバイクを乗り回す。愉快で心温まる地方の一シーンである。

ベランダに立つ私からは、反対側の棟の窓がすべて見える。さあ電気を消そう。かれらの営みがよく見える。目を閉じればなおさらよく見える。窓縁に置かれたそれぞれのPC(もちろんWindows PCだ)でかれらが何をしているか。性器に毛が生えたばかりの少年が、仕事もなく頭も薄くなりかけた中年が、子供に見捨てられた老人が、そこで何を見ているか。何をしようとしているか。いまどのような生活をおくっているか。

自慰をしている。自慰を続けなければならない。ひとりぼっちで。誰からも隔離されたこの場所で。ネットのあちら側の「仲間」たちと群れてなおひとりぼっちで。親が、親戚が、知人が、SNSのフレンドが、社会が、いったいかれらに何をしてくれるか。私たちに何をしてくれるか。何もしてくれないので自慰をするしかない。誰もいない場所で精液を放出すること、それだけが趣味である。

女がこわい。ひとがこわい。嫌われるのがこわい。気持ちが悪いと言われたくない。不気味だと馬鹿にされたくない。容姿がまずい。年収も低い。自分のことをゴミだとしか思えない。自分はゴミであるから誰とも関わらずに生きたい。ひとりで生きたい。もしほんとうにひとりで生きることさえできたらどんなにいいだろうか。

自慰をするとき、ディスプレイの表面にはうっすらと自分の姿が映っている。しかしその姿は液晶のけばけばしい光によって常に覆い隠される。そこにいるのは透明になることを強いられた自分である。座っているのはもはや人間ではなく粘液を放出するだけの袋である。窓のないその部屋のゆいいつの出口は、Windowsという奇怪な名前のOSが搭載された箱である。この箱の中に私たちは閉じ込められている。

この2014年もまた、自慰の時代であることは何ら疑いようがない。性器をこするための道具だけは揃っている。箱の中はきわめて快適だ。子宮のようなその箱に閉じこもっていれば、ひたすら暗がりで性器をいじって楽しむ子供時代が戻ってきたような気さえする。外で両親が怒鳴り合っていても、別れた妻から慰謝料の弁護士名義の督促状がこようとも、偽善とおためごかしばかりの社会によって深く傷つけられ、そしてすべての居場所を強奪されていようとも、この箱の中だけは快適であり、そこにはすべてがあるような気がした。

検索すれば0.1秒で女が股を開いている。いやすでに検索は不要だった。頭だけはいいどこかの皆様がつくって提供してくださる便利で偉大なインターネットのおかげで、ブラウザを立ち上げるだけでそこにはアニメ絵または実写の女が股を開き、自慰をし、性交をしている静止画と動画がずらずらと自動的に表示されるのだ。私たちの飢えは、欠乏は、孤独は、こうした利便性の高い給餌機であるネットによって補われる。部屋に閉じこもっていても、「窓」がすべてを与えてくれる。

まったくまるでSFのつくり話のような現実である。2014年、どんな作家も想像しなかったこのシステムはさらに洗練されるだろう。それはひとに自慰の快楽を与え続けそこから出られなくするだけでなく、それが自分たちを閉じ込め隔離する虫かごなのだという事実を徹底的に覆い隠し続ける巨大な機構である。かくして日本人は、動く物にだけ反応する昆虫のような生き物になっていく。肥大化した目と右手と性器。この自画像をグロテスクと思うことのできない連中がクールジャパンなどという白昼夢を見ているのである。

ネットの広告はいまどのようなものか。足をひらいて性器を見せた女が「イクッ」と叫ぶやたら目の大きいアニメ絵(すぐれた自画像だ)に、「指で女の子をイカせてみたいひとはこちら」とキャプションをつけてスマートフォン用の課金サイトへと誘導する。スマートフォンのつるつるした板を必死にこすって、しごいて、こすって、昆虫的な快楽を得る。これは遠いどこかの話ではなく、すべての日本人に対してあらゆる場所にワンクリック圏内で設置されているのが現状である。この広告を英語に翻訳してみたらよい。きわめて愉快な日本論になるだろう。

最近は女子供向けなのか、男同士の絡み合い画像すら増えてきた。スーツを脱いだ男二人が性器をまさぐりあう漫画が公的な場所に平然と設置され、誰でもいつでも閲覧できる。女たちもまた自慰をしている。もはや自慰は男だけの楽しみではない。これらすべてが倫理的に間違っているとかポルノを公の場から排除せよとか頬を赤くして言うのは人間がどんなに低劣な生き物か知らない頭でっかちのスーツを着たご清潔な連中であることは自明だが、なによりも戦慄しなければならないのは男と女がそれぞれ孤立した場所で自慰をひたすら続ける風潮がさらに加速していることである。

自慰の帝国。クールジャパンにおいては、自慰だけが喜びである。ひとりぼっちで自慰をすることばかりが励行される。さらに恐ろしいことに、これは一つまたは複数の「有害」サイトの問題とはとても言いがたい。あらゆる商業主義のすべてのレイヤーにおいて自慰行為が推奨される。日本における構造的な問題とは何か。それはシステムが「成り成りて」自然に造り上げられてしまうということである。この現状を前にすれば、個人を孤立化させたい第三者の意思がどこかに介在しているのではないか、そう思いたくもなる。だがしかしそれは違う。傷や痛みと向きあうことができなくなった個人が、この現状を自ら望んで作りだしている。そのことに慄然とする。

窓のない閉じた世界でひたすら自慰をすること。そしてひとつだけある窓にはいつも美しいまがいものの風景が映しだされていること。このことを忘れてしまえば私たちは虫かごの中の昆虫になってしまう。単なる精液の袋になってしまう。システムによって複製され再生産され拡散される擬似性行為によって緩やかなインポテンツ化が進んでいる。自分自身の手による去勢が進んでいる。生身の女の視線の前では勃起しない男性器が大量生産されている。

うつくしい女はこわい。きれいな女はおそろしい。口が達者な女は憎たらしい。学歴が自分より上の女はゆるせない。自分より下だと思っていた朝鮮人が日本人より偉そうな顔をして儲けているのが許せない。劣等国だと思っていた中国がいつの間にか軍事大国になり世界第二位の座を奪われたのが許せない。何もかもが自分の敵なような気がする。何もかもが自分を苦しめているような気さえする。目を閉じればいい。目を閉じて自慰をすればいい。自分の目を潰してまがいものを本物と思って今日も自慰をすればいい。

それでいいのか。それで生きているといえるのか。自慰をやめよ。いますぐやめよ。同人誌で抜くな。pixivのR-18タグで抜くな。xvideosのamatuerタグで抜くな。ニコニコ動画で抜くな。御真影で抜くな。ブログでインテリのふりをして抜くな。Wikipediaから適当に引用した知識をひけらかして抜くな。自分が幸せだと自分を騙して抜くな。日本が先進国などと思って自分の苦しい日常をごまかすな。日本が大国などという白昼夢にひたって居場所のない自分のどうしようもなくみじめな生活を慰めるな!

自慰を続けなければならない。ひとりぼっちで。自慰だけが人生だった。自慰だけがすべてだった。自慰の時だけ理想の女と出会えた。ああ、違った、違うのだ、何もかもが夢なのだ。ベランダの向こう側で、新婚夫婦がソファで性交している。愛してるよ、ああ、きれいだよと言っていた。うらやましかった。口から血を吐くほど憎たらしかった。愛がほしかった。自分を愛してほしかった。理解してほしかった。しっとりと湿った潮騒の味がするという女性器を舐めてみたかった。何もない。この国には何もない。何もないのだろうか。もう手遅れなのだろうか。もう戦争という巨大な自慰しかないのだろうか。違う、断じて違う、違うのだ、違うのだ……。